駿河 昌樹 (Masaki SURUGA)
エレーヌの命日を忘れることはない。
ハロゥインにあたる10月31日が命日なので、あちこちの商店でハロゥイン関係のグッズが目に付きはじめると、またエレーヌの命日が来る、と思う。
今年は13年目になるので、そろそろ、エレーヌの秘密を開示しはじめようと思う。
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たとえば、このブログ。
いちおうエレーヌが始めたかのようになっているし、はじめて見る人には、エレーヌが運営しているかのように見えるだろうが、一から十まで、じつは私が作り上げたものだった。
エレーヌが死ぬ前、ブログでも作って、彼女が書いた文章を載せておいたら?と聞いたことはある。
エレーヌはそれに反対しなかったが、ブログとかインターネットというものについてのイメージを十分持っていなかったので、反対しようもなかったというのが本当のところだろう。しかも、ブログを作るとか、何らかの機械操作をするというようなことには、これっぽっちのセンスも能力も根気もなかったので、生き続けたとしても、彼女自身が作ることはあり得なかったはずだ。
彼女の死後、なにか少しでも「エレーヌ・セシル・グルナック」なるものを残しておきたいという思いから、私ひとりでこのブログを始め、彼女の残した文章や、私が27年間に撮り溜めた写真の一部を載せていくことにした。
多少の助力は受けたが、エレーヌのまわりにいた人たちは誰も手伝ってくれなかったし、ひろく呼びかけたのに、思い出を語る文章を寄せてくれるわけでもなかった。
エレーヌのまわりにいた人たちは高年齢の人が多かったので、ブログにいろいろなものを載せて残す、という発想にはついてこれなかったようだが、なにか寄せてくれれば作業自体は私が行なうので、手間をかけることはない。
それなのに、なにも寄せてくれないということに、じつは、私はかなりさびしい思いをした。
エレーヌを知る数人だけで集まって、思い出を語りあっても、すべてはその場で消えていってしまう。ブログに載せれば、永続するとまではいかないとしても、少しは長く残るだろうし、かつてエレーヌに関わった人の目に留まることもあり得るだろう。
そうした発想のない人たちが、エレーヌの知己のほとんどだったことが、この現代において、私にはさびしかった。
しかし、私ひとりでこのようなブログを立ち上げ、維持してきたことで、数が多いわけでもないエレーヌの文章は、日本ばかりか、エレーヌに会ったこともない世界中のたくさんの人たちに読まれた。
プルーストや、デュラスや、サガンや、カミュなどについてのそう長くない文章は、きっと、レポート提出をしなければならないような、世界中の学生たちの参考になったのだろう。ただならぬ閲覧数を記録することになったのだ。
エレーヌの文章を見れば、添えてあるエレーヌの写真も自然と目に入ることになる。これによって、会ったこともない人たちに、1941年から2010年まで地上に滞在していたエレーヌの顔が認識されることになる。
このことは、私にとって、ちょっとしたいたずらに似た、小さな愉しみとなった。「どうだい、エレーヌ? あなたは、死んだ後でも、こうして、あいかわらず、世界中の人びとに出会い続けるんだよ!」と、言いたくなるほどだった。
このブログは、こんな私のいたずら心から継続されたと言っていい。
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以前にも、ちょっと書いたり、仄めかしたりしたことがあったと思うが、フランス人として日本に来て、東京に33年間住み続けたエレーヌには、私しか知らない生き方の秘密があった。
それは、17歳年下の私との生活や関係を、他の人たちには一切秘密にし、それでいて、他の人たちともとても親しいかのように振舞うことだった。
フランスの家族たちや友人たちには、私と一心同体であることを秘密にはしなかったが、日本人たちに対しては、私とのプライベートの関係はかたくなに秘密にした。
このあたりのことは、いずれ、もっと詳しく書きたいと思うのだが、簡単に言えば、日本の文化を好んでいながらも、エレーヌは日本人の社会というものを警戒していたため、と言っていいとは思う。
もう少しひろく見てもいいだろう。
外国に住む場合に、その国の人びとをどうしても警戒しなければならない、という当然の認識を、エレーヌはつよく持っていた。
ロシア語やロシア文学を専攻して、ソビエト時代のモスクワに留学した際、四六時中、エレーヌは監視係につきまとわれたと言っていたが、この経験が日本への警戒を生むことになったかもしれないし、さらには、フランスに移住してきたチェコスロバキア人の父とポーランド人の母を持ったことから来る、生まれつきの振舞いだったのかもしれない。
ともあれ、エレーヌは、自分が教える学生たちや同僚たちから、ちょっとでもプライベートなことを探られるのを極度に嫌った。そして、たったひとりで暮らしていると見せたがった。私がエレーヌと暮らしはじめてから、約7年間は、かかってくる電話に私が出ることも許されなかったほどだ。まだ携帯電話などなかった時代なので、私あてにかかってくる電話ももちろんあったが、すべて、まずエレーヌが出て、取り次ぎをしたものだった。
なによりも結婚を嫌い、「恋人」と呼ばれることも、「パートナー」と呼ばれることも嫌ったエレーヌは、私のことをフランス語で「コンプリス(complice)」と呼んだ。「共犯者」とか「加担者」と訳される言葉だが、世間に対しては秘密にしておくべきなにかの企てを、ひそかに遂行する仲間どうしとして、私たちの関係を見たがったらしい。
エレーヌにとって、秘密にしておくべき、なにかの企てとはなにか。それは、世界や宇宙や運命の秘密についてのひろい意味での探究だったろう。エレーヌの関心の広がりと言動は、すべて、この探究への意志から来るものだった。
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けれども、エレーヌのこの極度の秘密主義は、彼女が末期ガンの宣告を受けた時から、私に過大な負担を追わせることになった。
私ひとりでエレーヌの治療に関わる世話をするのなら、大変ではあっても、混乱の少ないシンプルなかたちを取ることができただろうが、エレーヌが多くの学生たちや友人を持っていたために、いろいろな人がエレーヌを助けようと押し寄せることになった。
病状や検査結果や経済的側面などのすべてを私が把握し、さらに、フランスの家族や友人たちとの連絡もとりつつ、最良の治療を実現しようとするとなると、私は、病院や他のクリニックなどのあらゆるところに居合わせることになる。
そうなると、見舞いに来たり、滋養強壮によさそうなものを持ってきたりするたくさんの人たちと、おのずと私は会わねばならなくなる。
27年にわたってエレーヌの日本での実生活のさまざまを支えてきた私の存在を知らず、エレーヌがたったひとりで異国の日本で暮らしてきたというイメージを持っている人たちは、当然、あらゆる点で親密に保護者として動きまわる私の存在をいぶかしく思うことになる。
しかも、エレーヌは、誰にも、一切、私のことをちゃんと説明しようとしなかった。「恋人」とも、「パートナー」とも言わない。
エレーヌが説明しようとしないので、私もあまり言わない。私とエレーヌが、あらゆることを密にしゃべりあっているので、人びととしては、私たちがよほどの仲なのだろうと自然に推察することになったはずだが、私の一存で説明することに決めたところで、私たちが「コンプリス(complice)」であり、「共犯者」とか「加担者」なのだというところから諄々と語らねばならないことになるので、面倒くさ過ぎた。
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こんなあり方を基本としながら、私とエレーヌは、彼女の死まで27年間関わり続けたのだが、いっしょに住んだのは16年間で、途中からは別々に暮らすことになった。
1998年頃、50代も終わりに近づいたエレーヌは、それまで続いていた私との共生をやめたいと求めてきた。ふたりでいると、どうしても生活時間のズレが起こり、彼女が打ち込みたいヨガの家での練習や、読書や執筆に集中できない、というのだった。
エレーヌは少しの物音や気配でもすぐに目覚めてしまうところがあったので、彼女が寝室で寝ている時に、私が別室で夜中にものを書いたり、作業したりするのが非常に邪魔にもなった。
私は、ふたりでいっしょに住んでいた世田谷の代田の家のごく近く(4,5分ほど)に、1990年から30平米ほどの書斎を構えるようにしていたので、エレーヌのこの提案を機に、そちらに住むことにした。
エレーヌと別になってこのように私が暮らすことになったので、ふたりが不仲になったかのように思う人がいるが、それはまったく違う。いわば、4,5分ほど離れた部屋に住むことにしながら、生活はいっしょにしているようなものだった。
以後は、私が自分の住む部屋でふたり用の夕飯を作ることが多くなり、エレーヌは仕事帰りに私の部屋に寄って食べていくようになった。
エレーヌは、自分の住まいのガスを使うのに、ひどく古いタイプの、ひとつしかヤカンや鍋を乗せられないガスコンロを使い続けていて、ふつうの家庭に普及しているようなガスコンロを使いたがらなかったので、焼き魚などはやりづらかった。煙が出るし、まわりが汚れるのをエレーヌは嫌った。
東京ガスがなにかの点検でガス台を見に来ると、「今どき、よくこんな古いのを使ってますねえ」と感心して帰っていったものだった。
しかし、私の住まいにはふつうのガスコンロを買って設置してあり、焼き魚用の設備もあったので、秋になると秋刀魚を焼いたりもできるし、他の魚を焼くこともできる。
おかげでエレーヌは、私の住まいで、はじめて、家庭で焼く秋刀魚の味を知った。それまでは、秋刀魚やサバなどは、定食屋(主に下北沢の「千草」や、その他の定食屋)で食べるだけだったので、毎晩のように私の住まいで食べられるのを非常に喜んだものだ。
他方、エレーヌは、たとえば電球を取り替えたり、パソコンを調整したりするような作業が一切できなかったので、私はたびたびエレーヌの住まいに出向いて、そうした家の中での小さな作業をやり続けた。
冬になればエレーヌは石油ストーブを使ったので、石油缶を持って近くのガソリンスタンドに灯油を買いに行くのも私だった。あの重い石油缶に灯油を満たして、腕に下げてエレーヌの家まで運ぶ苦しさが、今となっては懐かしい。
飼っている猫の餌ばかりか、周囲のあちこちにいる野良猫たちに、エレーヌは毎晩、餌をやりに回っていたので、猫の餌を大量に買い続けたが、それを買いに行くのも私だった。土曜日や日曜日に猫の餌が特売になったりすると、大きなリュックを背負って、三軒茶屋の店までたくさん買いに出る。猫缶を50個や60個、くわえて「カリカリ」と呼ぶ乾燥した餌の大袋をリュックに入れて帰ってくるようなことがよくあった。
逆に、エレーヌのほうでも、ライ麦パンや胚芽パン、菓子パンなどを買って、私の住まいに持ってきてくれたりした。エレーヌは、学生たちからいろいろな食べ物をもらうことも多かったが、食の細い彼女には多すぎたりしたので、よく私に分けてくれた。
このようなことは、人に話す機会もないし、話すとなると時間もかかるので、まず誰にも言わない。そのため、非常に親密なのに、私とエレーヌがもういっしょに住んでいないことについて、いろいろ噂されるようなこともあったとしても、放っておくことになった。私たちふたりのことについては、他人には一切話す必要はない、というのがエレーヌの考え方だったので、誤解を解こうともしなかった。なにかヘンに勘ぐる人や、気にする人は放っておいたり、軽蔑するというのが、エレーヌの流儀だった。
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エレーヌが死んで13年間、私も、かなりたくさんのことをしゃべらないできたし、開示しないできた。
彼女の病気治療の時期、いろいろな人たちが入れかわり立ちかわり周囲にやってきて引き起こし続けた人間ドラマには、ずいぶん困らされたものだったが、これについても、そろそろ、黙っている必要もなくなってくる頃だろう。
登場人物たちも、かなり死んでしまったり、音信不通になってしまったりしているので、ようやく、本当のことを開示してもよくなってきた。
ここに少しずつ書くかもしれないし、他のかたちで書くかもしれない。
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