1996年8月3日、故郷ロゼール県サン=シェリー・ダプシェでの姪の結婚式で。 |
駿河昌樹
(Masaki SURUGA)
ことし、2019年の10月31日のハロゥインは、エレーヌが亡くなって9年目の命日となる。
もし生きていたら、いま、77歳。
だれよりも元気だったエレーヌのことだから、80歳が近づいても、いっそう元気でいられただろうに、と思う。
ことしは台風被害がずいぶん出たが、エレーヌの亡くなった2010年10月31日の前日の30日(土)にも台風14号が関東を襲い、大雨の後は強風となって、交通機関はひどく乱れたり、ストップしたりした。彼女の入院している病院へは見舞いに行けなかった。
すでに、このブログになんどか書いたが、台風が東京を通過していくさなか、エレーヌは日中も眠りがちになっていて、死へと向かっていたらしい。台風による気圧の変化が、エレーヌを最期へと向かわせたのか、とも思う。
10月29日(金)には、エレーヌの引っ越しが済んでいた。
もちろん、本人は入院中なのでまったく現場には来ず、すべて、私やエレーヌの友人たちで行った。
世田谷の代田から王子神谷のURへの引っ越しで、ガン治療で効果を上げている駒込病院に通院しやすくなるように、と配慮してのことだった。私自身が、当時、王子神谷に住んでいたので、エレーヌの世話をしやすくできるように、との考えもあった。
無理に私の住まいに近いところへ呼び寄せた、というわけではない。私と妻も、駒込病院ーエレーヌー彼女への介護etc.を結びつけて考えた上で、前年に王子神谷に引っ越しを行っていたので、じつは、エレーヌのための一年がかりの計画的な移転だった。
このあたりの事情については、このブログでもなんどか触れたが、細かなことがたくさん絡みあっていて、私があいかわらず多忙な日々を送っているなかでは、十分に描き出すのは容易ではない。
こんなふうに、たまに書き始めてみては、すこしずつ、書き添えていこうとしてみる他にすべはない。
引っ越しということに関して言えば、2009年には、ガンに冒された卵巣と腹膜摘出の手術をエレーヌが受ける前に、駒沢公園脇の東京医療センターに通いやすい深沢の一軒家を借りて、エレーヌと私と妻と三人で住もうと計画したことがあった。
とにかく、代田のエレーヌの住まいが陸の孤島のように不便で、健康でいくらでも歩けるうちはともかく、いったん病気になったり、歩行に支障が出たりすると、大変なことになる場所だったため、そこから逃げ出さないといけない、と私は考えた。最寄り駅の下北沢までは歩いて20分、三軒茶屋までも20分、家から数分のところにバス停はあるものの、そこから渋谷まで乗ると15分から20分かかってしまう。環状7号線が近い場所だったので、そこへ出てタクシーを止める手はあったが、環7のそのあたりは意外とタクシーが通らない。渋谷へ向かう淡島通りも近いが、エレーヌの住まいのあたりは若林折返所というところで、淡島通りの終わりに当たっており、渋谷方面からの帰宅客を乗せてくるタクシー以外にはほとんど来ない。通院の際にタクシーを利用しようとして、すでに何度か、苛立たしい目にあっていた。手術を受ける日も、私が朝はやくから代田に出向いてきて、大きなバッグにふたつほどになった入院用の荷物を両手に提げて、エレーヌとタクシーをつかまえに環7に出たものの、20分ほど立ってもまったくタクシーが通らず、結局、ふたりで20分歩いて三軒茶屋まで出て、246号線からタクシーに乗るという、とんでもないやり方を採らざるを得なかった。エレーヌがまだ歩ける時だったので、なんとか凌げた。
いろいろな物件を見たのちに絞られていった深沢の物件は、二階建てのなかなか大きな家で、6部屋ほどに加えて、キッチンと居間があった。古い意匠だが大きな風呂もついていた。もともとの作り主がずいぶん凝った考えで作ったらしい書斎も2階にあって、使い勝手は悪くなさそうだったが、作り主の意識がほうぼうに感じられて、それに侵されずに日々の生活を送っていくのには、こちらの精神の強さも必要かと感じられ、慣れも必要かと思われた。私はともかく、病気のエレーヌがこういう雰囲気に合わせられるかどうか、不安はあった。
エレーヌと妻と私と三人で下見に行った後、歩いて駒澤大学駅まで長く歩き、エレーヌが好きだった大戸屋で夕食を済ませたが、物件の感想を聞くと、エレーヌにしても、妻にしても、悪くはないが、乗り気でもないという感じだった。家そのものについてよりも、最寄り駅からの距離が、エレーヌにも、妻にも、大きな問題らしかった。エレーヌは、ガン治療をしながら、まだ大学やカルチャーセンターの仕事をそのまま続けていたし、妻は妻で都心を駈けまわる激務だったので、いくら病院に近くても、深沢という奥まった地でやっていけるかどうか、確かに怪しい。私自身にもこうした地の利の悪さは大問題なのだが、私はこういう場合、自分の都合をぜんぶ無視してしまう性格なので、気にしていなかった。
貸し手は私たちのことをずいぶん気に入ってくれていたそうだが、結局、エレーヌが拒んだので、この深沢の物件は諦めることになった。仕事の合間を使って必死に物件探しをする私に、エレーヌも、妻も、2009年の時点ですぐには言わなかったが、やはり、ふたりを同時に住まわせるという案に、双方とも、無理を感じていたことこそ、最大の問題点だったらしい。
エレーヌの死後、妻は、あの時、深沢でいっしょに住むことになっていたら、自分は精神的に駄目になっただろう、と私に言った。誰よりも独立自尊の精神が強いエレーヌも、同じことだっただろう。見方によっては、私が、ふたりの心の底の感情を無視して、三人で共生してエレーヌのガンを治す案を強引に進めようとしていたかのようだったが、私としては、あくまで、非常事態にあるエレーヌをどう生きのびさせるか、ということが優先事項となっていた。
この後、プランを変更して、代田よりも交通の便のよいところへ引っ越しをさせること、私が行きやすい場所に住ませることなどを条件として、さらに物件探しを続けることになった。
いずれにしても、いま思い出すと、2009年から2010年にかけて、仕事や用事のわずかの合間を縫って、なんと厖大な時間を、エレーヌのための物件探しに費やしたことだろう、と驚く。深夜にパソコンを見ながら、朝方まで物件探しをし、日中に不動産に連絡を取り、現地に見に行き……、というあの時間。エレーヌの治療のための勉強や情報探しなどにも多くの時間を費やして、約2年、私にはプライベートな時間というものがほとんどなかったと言っても過言ではない。
エレーヌが亡くなって、ふたたび自分の時間が戻ってきたかというと、それも違っていて、今度はエレーヌの家具や遺品の整理に10ヶ月まるまるかかることになった。東日本大震災と原発事故で日本が揺れるなかで、2011年の私は、エレーヌ死後の整理作業で心身をすり減らしていたものだった。
エレーヌの遺品となった書籍類は、じつは、いまでもトランクルームに残っている。私が使うものもあり、ふたりで共有していたものもあるので残してあるのだが、さすがに9年経つと、もう手放してもいいだろうか、と思う。
いつ、どのように、どこに、浸水が襲ってくるとも限らない昨今のような時節となると、使わないものは、そろそろ、手放したほうがいいのだろう。
このブログにも、この頃、私はあまり文章を上げなくなっているが、書く気がないためでもなければ、書くことがないためでもない。なにかひとつを取り上げて書き始めると、網の目のように繋がっている物事がどんどん連鎖して出てくるため、思念のコントロールや編集に非常な困難を覚えるため、と言っていいと思う。
パスカルが昔、人に当てた手紙に、よく考える時間が今ないので、この手紙は長くなります、と書いたことがある。私にもいよいよ時間がなくなってきており、エレーヌのことについてばかり、細々と思い出している暇もなければ、書き続けている暇もない。
それでいて、エレーヌとはなんだったか、エレーヌの晩年に起こった人間喜劇の実相はどうだったのか、などなど、たっぷり時間をとって考えてみたいことも増えてきている。