2012/10/27

2度目の命日にあたって

(エレーヌ・グルナック こんなこと 3)  


   駿河 昌樹
   (Masaki SURUGA)




     



                         1

 2年目のエレーヌの命日が10月31日にやってくる。いまだに、エレーヌの死を知らない知人の人たちはいて、なにかの折りに伝えると、「そういえば、しばらくお会いしなかったが…」と驚かれることがある。

昨年の2011年の命日31日には、夕方に、エレーヌの最期の場所となった駒沢の東京医療センターを再訪した。彼女がながい入院をした婦人科病棟を訪ね、体調のいい日々にはエレーヌがよく行った1階のカフェ〈エクセルシオール・カフェ〉でコーヒーを飲み、そこからエレーヌゆかりの地域をまわるべく、三軒茶屋や代田のエレーヌ旧宅まで歩いた。
 今年も同じようにするだろうし、今後もしばらくはそうするのではないかと思う。エレーヌとともに30年以上をおなじ地域で暮らした私の、小さなセンチメンタル・ジャーニーということになる。
 

東京医療センター1Fのエクセルシオール・カフェ。
入院中、エレーヌはたびたび此処に下りてきて、コーヒーを飲んだ。

入院中、いつも洗顔や歯磨きをした洗面所。
奥に見えるのが、エレーヌが長く入院した病室。

エレーヌが長く入院した病室。
2010年4月から8月末まで入院し、おもに写真右奥のカーテンのしまっている窓際のベッドを使った。
10月の再入院後もこの病室に入り、同じ窓際のベッドを使った。
10月31日未明に此処で意識を失い、緊急の処置室に移されてから亡くなった。
写真は2011年10月31日に再訪した際のものだが、正面の洗面台の右下にオーブが写っている。
27日(土)には、エレーヌがヨガを指導していた大船の長福寺で、ヨガの仲間たちが集まって、エレーヌを偲ぶ会を行ったらしい。

どこにいて、どのように偲ぶのであれ、エレーヌを思い出すのにはコーヒーが似合う、と私は思う。とにかくコーヒー好きで、カフェ好きだった。濃い目のフレンチローストやイタリアンローストが好きだったが、重病に罹ってからも、ちょっと体調がよければコーヒーを飲みたがった。日本でほうぼうに自動販売機が並ぶ光景を批判していたわりには、戸外では自動販売機のコーヒーのあまり甘くないタイプをよく買って飲んでいたし、新しい缶コーヒーが出るたびに試していた。無糖の缶コーヒーがあると、「ここには無糖があります!」と言って喜んでいた。おそらく、自動販売機がなくなったら一番困ったはずなのがエレーヌだろう。
そんなエレーヌの命日には、ちょっといいコーヒーを淹れて、いっしょに飲むつもりで口に運ぶのが最適な供養のしかたではないかと思う。というより、コーヒーのおいしく感じる時には、いつもエレーヌが来ているように思ってもいいぐらいかもしれない。

エレーヌの友人たちや知人たち、学生たちは多く、みな個性的でもあれば、それぞれ独自の関わりかたをエレーヌとしてきたようなので、命日だからといって、ムリに形式ばった集まりかたをして偲ぶようなことは無用だろう。葬儀はしかたなく行ったし、少しでも多くの人にと連絡をしたが、もともと、エレーヌ無き後に多くの人を集めるようなことには気は向かなかった。各人が各様にエレーヌを思い出せばいいし、命日にこだわる必要もないし、場合によってはすっかり忘れてしまってもかまわないと思う。死者を偲ばない、忘却しつくすというのさえ、じつは死者に対するのにふさわしい仕方のひとつで、死や霊界や神秘主義や多様な宗教に熾烈な関心を持ち続けたエレーヌ自身、考えのうちに入れていたことのひとつだった。死者を思い過ぎるのは、生者の側の執着やエゴイズムにすぎず、死者を偲べば偲ぶほど、その人の霊の進化を妨害するという見解は、ある種の霊能者たちによっては共有されてもいる。

エレーヌが私に託したことは、じつは、葬儀をせず、彼女の死を一切誰にも教えないということだった。死の間際までエレーヌの世話をし続けた人たちは、もちろん亡くなったことを知ることになるので、その人たちのみは特例として扱ってよいが、それ以外は、見舞いに来た人たちにであれ、たったのひとりにも連絡はしない。すべて、私ひとりで死後のことを行い、それで一切の幕引きとする…ということだった。
もちろん、これは厳命ではなく、こういうやり方でよい、このほうがよい…という程度の緩い望みだったし、彼女なりのロマンティシズムでもあったので、実際に亡くなった後、私は完全にこの意思を覆すことにした。その理由は、エレーヌが東京で自由にそれなりに豊かに暮らせたのは、多くの日本の知人たちや友人たちや学生たちのおかげであったのだから、日本と人生を去るにあたって、最低限のお知らせと挨拶はして逝くべきだろうと、私なりに考えたためである。言いかえれば、エレーヌが今生で享受できたエレーヌ自身の幸福とチャンスを再認識し、それへの感謝をしておく、ということでもあった。
実際、おなじフランス国籍の人間でも、エレーヌが恵まれたような大学の職やカルチャーセンターの職、外務省の職、個人教授などの仕事に就けて、継続していける人は多いわけではない。その人の質や能力という以前に、日本人の側での好みや差別というものがあって、その時点での選別があらかじめ、そして、つねに行われ続けている。あれだけアフリカ系やアラブ系の国民が多い現在のフランス人だというのに、日本のフランス語教育の現場にほとんど白人ばかりというのは、そうした差別を歴然と表していることでもある。

エレーヌとしては、結婚式であれ葬儀であれ、形式ばった面倒くさい儀式のすべてを嫌っていて、かなり馬鹿にしてもいたので、自分がその中心に祭りあげられるようなことには耐えられなかったにちがいない。なんであれ、形式というものに正面から真っ正直にぶつかって、嫌悪を表明し続けたのがエレーヌだった。彼女の途方もない役所嫌い、大学の事務嫌い、授業運営における建前論嫌い、社会の様々な場所での実質を伴わない表面的な取り繕いへの嫌悪などは、みな、同一の根っこから出てきている。人にはいちいち言わなかっただろうが、ブランド嫌いも凄まじかったし、格差社会を支えるような様々な差異を見せびらかすような人々への嫌悪と軽蔑も大変だった。
忘れてならないのは、エレーヌがフランスに移民した労働者の二世として、また、子だくさんの貧乏な家の娘として、フランスのチベットと呼ばれる場所に育ち、大学時代からパリに出て、貧乏学生としてなんとか自己教育を続けた女であることだ。チェコスロバキア人の父、ポーランド人の母の子であり、両親ともフランス人ではない。母にいたっては、父によって渋々連れてこられたフランスへの憎悪を一生涯持ち続け、フランス語をついに積極的に学ばず、家庭でフランスを呪って歎き続け、老いの進むほどに、そのことで夫を責め続けたという事実がある。これが家庭にいつも重苦しい雰囲気を強い、子供たちに重大な影響を与えたのは疑うまでもない。
エレーヌはまた、日本人が反省もなしに受け入れ、憧れたりするフランスのブランドなどには敵対する出自と生活をしてきたフランス人であり、属するとすれば貧乏な知識人層なので、ブルジョワふうの特権階級や旧貴族などとは、感受性も思想も全く共有していなかった。険しい顔をしている時も多かったとはいえ、さいわい、ユーモアに溢れていたエレーヌなので、ときおり一車両に数十人ほどのルイ・ヴィトンの持ち主が乗りあわせたりする東京の電車内の光景を滑稽きわまる光景としてよく楽しんでいたが、「ルイ・ヴィトン」を持ってせわしない姿で山手線に乗る日本の女たちというシュールな光景がなにを意味するのか、よく語りあったものだった。高級車で直接店に乗りつけ、メトロやRERなどにもちろん乗ることなしに帰宅する女たちの使うもののひとつが「ルイ・ヴィトン」であり、したがって、どうしてエレーヌのような裕福ならざる知識人が断じて買わないのか、手も触れないのか、そんなあたりのことがよく理解できなければ、エレーヌ・セシル・グルナックとはどんな人物だったのかは、まずわからないはずだ。フランス人の間に存在するこういう巨大な差異と反目を、フランスかぶれの日本人は殆ど見落としており、日本に来るフランス人をみんな同質と見がちだが、とんでもない間違いを犯している。

ただ、エレーヌの運命の面白いところは、裕福なフランス人たちとの交流もあったことだ。青春時代にかなりのプロポーズをされたが、中には城をいくつか持っていて、別荘もヨットも持っているような初老の金満家もいた。宝飾品のプレゼントもさんざんされたが、すべてエレーヌは断ったか、返却したという。本当のところはわからないが、私はそう聞いた。
学生時代に、医学部の大学食堂をよく使ったので、若き日の恋人たちは医学生や医師ばかりだし、婚約者も優秀な医学生だった。素直に結婚していれば、ブルジョアの奥さまの暮らしは保証されていたのだが、エレーヌにしてみれば『ボヴァリ―夫人』のようなそんな暮らしは地獄以外のなにものでもなかった。住んでいる地域での名士の奥さまとなること、夫の家の舅や姑の支配下に置かれること、ブランド品に取り巻かれること、…そうしたすべてがエレーヌには許しがたいことで、それらをすべて捨てて婚約破棄をし、日本語の勉強を始めた。
  図書館員として働くかたわら、パリの東洋語学校で日本語を学び続けるうち、オレガス教授から日本への留学をつよく勧められることになったが、図書館員の職を捨てて、将来の収入がどうなるかわからない日本留学をするのは、エレーヌにとっては大変な決意を要した。35歳ほどだったので、ここで日本に行ってしまえば、フランスでの職への後戻りは難しい。細々とした収入ながらそれなりに小さく安定して、好きな本をたくさん読み続けられる仕事を続けていくほうが、堅実といえば堅実な考え方だった。が、結局、エレーヌは彼女なりの必死の跳躍を敢行した。彼女の日本への来訪は、フランスでのそれまでの生活への復帰を断念した上での覚悟の選択だった。
 エレーヌとの結婚を夢見てりっぱに医師となった婚約者は、婚約破棄を受け、激しい落胆に堪え切れずに、エレーヌに見せつけるようにしてすぐに別の女と結婚をしたが、愛してもいない相手との結婚生活には問題が続出し、看護婦との不倫をくり返して、やがて離婚に到った。その後もしかし、エレーヌとは連絡を取り続け、医学の学会や退職後の旅行でごく稀に日本に寄る際には、ひさしぶりに会って食事をすることもあった。私自身が手配して、渋谷駅のエクセルホテル東急を準備して泊まらせたこともあった。
 奇妙なことながら、エレーヌの闘病中、この元婚約者のほうも心臓疾患で危険な状態に陥っていたことがあった。
 エレーヌの病状や治療に関して、私自身、彼には頻繁にメールで連絡をし、東京での治療のあり方は順当と思われる、との返信を得ていた。エレーヌの死後、「今だから言うが、あの病状では回復が困難なのは、医師としてはわかっていた…」とのメールも貰った。
東京の友人たちにも裕福な人は多く、エレーヌに朝日カルチャーセンターの授業を譲ったフリージャーナリストのエレーヌ・コルヌヴァンなどは、金融取引の仕事をしていた夫のおかげで、新宿の大きな豪邸を借りて住んでいた時期があった。何度か訪ねたが、家賃が月200万以上する豪邸には、苔の美しい大きな中庭を中心に廊下が四角くめぐらされ、フットライトが高級な料亭のように渋い木の床を照らして、個人の住まいというより、特別なしつらえの大きな旅館にでも来たようだった。イギリス人の夫チャールズは、帰宅して一緒に夕食の席についても、たびたび電話で世界中に株取引の指示を出し続けていて安まる時がなかった。この豪邸のわきに、東京のどこでも見るようなごく普通のアパートが建っていたが、コルヌヴァンはそれを指して、よく私たちに「ああいう汚い建物を壊してもらわないと、不快でしょうがない。本当にひどい光景よね」と言って、カラカラ笑っていた。アフリカで奴隷を使ったプランテーションや貿易で儲けてきた家系の娘で、当時気運の高まりつつあった南アフリカの黒人差別撤廃の運動に心底反対していた。「私たちが歴史の中で築いてきた財産をどうしてくれるの?差別撤廃なんて、本当に人類はどうかしている」という説を、さんざん聞かされたものだった。楽天的で快活で、親切ないい人だけに、こういう思想上の落差はいっそう衝撃的だった。
こうした友人たちや知人たちの考えや感受性を、じつは全く受け入れずに、エレーヌは平然として話を聞いてやっていたものだった。エレーヌが人の話を聞いたり、それを楽しんでみせたりするのは、相手の立場や思想を受け入れているのとは違う。じつはそこに、多くの人が騙された。騙すつもりはなくとも、ただ話を聞くというだけのことなのだが、すぐに相手に反論したりする話し方の多いフランス人の中では、これは珍しく、エレーヌが重宝された理由でもあり、人に好まれた理由でもあった。





                  2

2年目の命日にあたり、2010年10月のエレーヌの死の前後の出来事をかいつまんで振り返っておこうと思う。私や、世話を続けた数名の人たちのあいだではよくわかっていることなのだが、それ以外の人たちには未知のことも多いかもしれない。厖大な内容のうち、本当にわずかのことをメモしておきたい。

◆エレーヌは8月末の退院以降自宅療養をしていたが、10月に入ってからは衰弱してきていた。10/18時点の様子を見て、在宅はすでに困難と判断。10/19に医療センターの医師に電話し、10/20の入院を手配。20日朝に病院に連れて行った。
 
◆同日夜、病院で夕食や寝る準備のあいだ付き添ったが、ひとりでは起き上がる力がなく、トイレに腰を下ろす力もなくなっていた。ビタミンの貴重な摂取源のミカンやトマトの味を受けつけなくなり、食事からのビタミンCの補給が不可能に。

10/24、長年続いてきたエレーヌの手帳への日録記入がこの日で終わった。ペンをとって文字を書く力がなくなった。
後で聞いた話では、30年ほど通った馴染みの美容師さんがこの夜、「元気になった!」とエレーヌが言いに来たというリアルな夢を見ている。


2010年10月24日まで記された手帳

記入されることのなかった25日以降のページ
 
10/27、飲みやすい経口ビタミンCを買って病院に。エレーヌの衰弱は激しく、食事もほとんど摂らず。個人的に、生前のエレーヌと会った最後の日となった。

亡くなる5日前、2010年10月27日のエレーヌ。
東京医療センター1F、〈エクセルシオール・カフェ〉わきのサロンで。衰弱しているとはいえ、アルブミン点滴をしつつ、車椅子でカフェにも出かけてきていた。冷えないように首に巻いた手ぬぐいの締め具合を調節している。
ブルーのバンダナをしているが、最期ちかく、黒でも白でもなく、この色を好んだ。

亡くなる5日前、東京医療センター産婦人科病棟で。
2010年10月27日の夕食時。
勧めても、多くもない量の食事にほとんど手をつけなかった。
弱ってはいたが、同時に強さがあり、強さを保とうとも努め、会話を続けた。
窓際のこのベッドに寝たまま、10月31日未明に意識を失った。


同じく、亡くなる5日前、東京医療センター産婦人科病棟で。
2010年10月27日の夕食時。
顔の写真としては、生前に撮られた最後のもの。

10/28、引っ越し先の新居のカギを受け取り、新居に入って掃除や整理。
(医療機関の変更も含め、今後のよりよい療養のために、私の住居近くに越すことが計画されてきており、それが実行段階に入っていた。そういう最中での急激な身体の衰弱の進行が起こっていた。もちろん、引越し計画の中止も検討し、エレーヌ本人にも何度も聞き直したが、彼女はそのまま引越しを遂行したがった。病気に負ける気は全くなく、療養を続けるために、住んだことのない土地に越して新たな人生を始めるという、強い意志があった。身体状況と精神状況のはっきりした乖離が起こっていた。)
夜に、家の電話機が30分おきに電子音を鳴らし続ける。誰かが電話機のボタンを押さないと鳴らない音が、まるで、そこに人がいて押しているように鳴る。異常な現象だったが、エレーヌの霊が来てなにかを告げて鳴らしている、と思うのがごく自然に感じられた。

10/29、朝9時より引っ越し開始。
入院中で衰弱しているにもかかわらず、エレーヌは自ら引っ越しに来て采配を揮うつもりだったらしく、どうして自分を連れに来ないのかと言っていたらしい。
引っ越し中に、エレーヌから奇妙なメール。ひとつは読めない文字の羅列。もうひとつは「お元気ですか?たまにはお会いしましょう」という奇妙な挨拶定型文メール。
 新居に手伝いに来ていた友人たちが、帰途、医療センターのエレーヌを見舞ったが、これが、友人たちがエレーヌに会った最後となった。

10/30()、台風14号のため、朝から風雨。夕方以降は強風。見舞いにいこうと思っていた誰もが、電車の不通や混乱などもあり、明日以降に病院に行こうと考えて、この日は諦めることに。
午前8時の回診記録では、意識に変わりなく、食欲もあったとのこと。
午後2時52分、「疲れる…」と洩らしていたとの記録。
午後4時57分、「大変…」と看護師に言っていたとの記録。
看護師たちによれば、時間によって、眠りがちだったり、起きていたりをくり返していた。亡くなる前に現われることの多い傾眠現象が始まっていたらしい。

10/31()、午前3時に意識レベル低下。回診の看護師が声をかけたが、反応がなかったとのこと。傾眠を超えた状態に入ったことになる。個室に移し、処置の開始へ。
午前4時57分、血圧低下始まる。
午前7時10分、亡くなる。
当直医師側の不手際で、私の家の固定電話に連絡が来なかったため、異常を知ったのは6時過ぎだった。この時点で数名に連絡したが、誰も臨終には間に合わず、最も近い友人も間に合わなかった。
私が到着したのも7時40分だった。
ベッドの上のエレーヌに呼びかけると、エレーヌの目から涙が流れ出た。死の直後の遺体が見せる現象に過ぎないだろうが、こちらの声に反応したのか、と思いたかった。

この日は午後、死亡届や埋葬・火葬許可書取得のために大忙しになる。世田谷区役所に行ったが、死亡した区が病院のある目黒区のため、目黒区か、転居先の北区に行くように言われた。
一方、エレーヌの住民票は世田谷区からすでに抜いてあり、北区にはまだ入れていなかったために、問い合わせても、どの役所も戸惑うという事態となった。
結局、法務省に問い合わせ、埋葬許可書については目黒区で取るということに。
葬儀先を神奈川の長福寺としたため、火葬も神奈川となるので、その点も混乱の原因に。

11/2(火)、10時より11時頃まで大船の長福寺で告別式。参会者は100名ほど。もし翌日の祝日に行えば、もっと人数は増えたと思われた。
11時45分頃より火葬。
13時30分集骨。


長福寺での告別式風景。本堂脇の山小屋ふうの趣のある集会場で。
すぐ向こうの森から、読経の最中もたえず小鳥たちの鳴き声が聞こえてきていた。
自然とつながった雰囲気のある、かた苦しさの少ない稀有の葬儀だった。
読経の続く中、ひとりひとり焼香。手前に棺。写真は40代後半のもの。
告別式が済み、棺を花で埋めて、最後のお別れ。


◆エレーヌのいないその後の日々は、エレーヌに関わりつつも、いわば私個人だけの物語の日々となった。
フランス大使館での戸籍への死亡記入をはじめ、(そのためには、世田谷・目黒区役所での複数の書類が必要なため、多忙を極めた…)様々な届け出に追われたり、一年ちかくかかることになった遺品整理などが襲ってきた。
死後のすべての作業は負うつもりだったし、エレーヌにも告げてあったが、フランスの親族が一切なにも行わず、来日もしなかったため、私ひとりに本当にすべてがかぶさってきた。さすがに親族側からのなんらかの援助ぐらいは得られると期待していたので、いろいろな意味でショックは大きかった。この後1年に及ぶ残務整理に個人的な生活は翻弄され続けた。




                   3

エレーヌが亡くなってから4カ月後の大震災と原発事故、その後のさまざまな日本のごたごたを見るにつけ、エレーヌはまさに、高度成長期以後の日本の平和安定期のみを経験して生きたのだ、と思わされる。
 彼女の病状の変化を見続けてきた私には、あのひどい腹水や浮腫の症状によって、じつはエレーヌが日本の崩壊を最後のぎりぎりのところで止め続けていたのではないか…という突飛な思いさえ湧く時がある。エレーヌのような人たちがいたことで保たれていたものがあったのではないか、そうした人たちが去ったり逝ったことで、急に日本は崩れ始めたのではないか、と…
 いくらか関連することとして、10年ほど前からエレーヌが言っていたのは、日本人たちの顔が急にひどく悪くなってきた、なにかおかしい、この国は悪い方向に進んでいる…ということだった。すでに長く日本に滞在し、日本人を見続けてきた外国人としての感慨だった。今になって、思い出されることのひとつである。

  居住地でいえば、目黒区の駒場、世田谷区の池の上と代田にしか住まず、下北沢や三軒茶屋を中心として暮らし、渋谷や新宿、横浜、池袋、湘南台、四谷あたりを主な仕事場とした後半生だった。

 エレーヌというと「世田谷」との結びつきが思われるが、日本での彼女のはじめての住所は、目黒区駒場の東大わきの留学生会館(いまの国際交流会館)だった。

 20101031日の暮れがた、埋葬・火葬許可書をその日のうちに取るために、はやくも照明をほとんど落とした閉館後の目黒区役所で長く待ちながら、エレーヌはどうして目黒区の病院なんかで死ぬことになったものか…と考えたりした。
そして急に気づいたのは、目黒区に住むことから始まったエレーヌの日本滞在が、やはり目黒区で終わる事になったのだ、ということだった。
目黒区から日本の生活に入り、目黒区から去っていったのが、エレーヌという人だった。

なかなか気づかないような、なんでもないようなこんな小さな符号のようなものが、エレーヌの亡くなる頃にはたくさん見出され、そのたびに驚かされたものだった。







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