2013/04/14

2010年7月9日のエレーヌ

(エレーヌ・グルナック こんなこと 9)


愛猫ミミ。ベッドがわりの座布団の上で。1994年。


      

  駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)


  入院中の201079日のエレーヌをとらえた短い映像をアップした。駒沢公園わきの東京医療センターの病室である。

 ちょうど衰弱のひどかった頃で、すでに抗がん剤治療はストップし、他の補完的な治療も停止していた。いつ死んでもおかしくないと見えた。せめて、わずかでも映像に残しておこうと思い、撮った。

 数週間前までは、瀬田クリニックでの免疫治療や健康増進クリニックでの高濃度ビタミンC治療などにタクシーで出かけていたが、まったく歩行ができなくなり、しかも、静脈注射をくりかえしてきていた血管が扁平になって、注射針が入りづらくなってしまっていた。
 溜まり続ける多量の腹水を毎日のようにとり(日に2000から3000ccほどとることが多かった)、胸水も溜まりはじめていた。治療めいたものとしては、かろうじてアルブミン点滴だけ。それで、腹水を抑えようとしていた。

 痛々しい映像ではあるが、すでに3年が経とうとしていて、エレーヌのことに興味をもつ人びともそろそろ減ってきた頃あいだろうと考えてのアップである。

 いまだにネットを検索して、わざわざエレーヌについて何ごとかをさがし続けようという人びとにのみ、この映像は向けられている。
そういう人びとにとっては、エレーヌにかかわるすべてが、彼女をさらに知る上での貴重な資料ともなり、じぶんと彼女とのかかわりを考え直すためのよすがともなりうるだろう。また、彼女のことを忘れはしないながらも、闘病や死の生々しさはさすがに薄れた頃だろうから、これまで出さなかったものを、今になっていくらか提供していこうかと考えた。
変動のはげしい時代に入っているので、こちらが保存しているデータ類も、いつ失われるか知れない。ネット上にアップしたり、少しずつでもクラウドに移したりしておくべき頃あいだろうと考えている。

 エレーヌはフランスの中央山塊に生れたひとりの女だったが、そういう彼女が、流れ着くようにしてやってきた東京で、フランス語やフランス文学を教え続けて死んでいった。そうしたひとつの生き方を見直し、検討していこうとの考えから、このブログは、じつは設けられた。彼女を偲び、記念し、思い出を集めていこうとの意図は、はじめからカモフラージュにすぎなかった。
すでに没後3年が経とうとする現在、エレーヌは社会的にも単なるひとりの人間であるのをやめて、始点と終点を持つひとつの人生の物語として扱われるべき対象となった、と考えている。

エレーヌへの思いの薄い人びと、興味本位だけの人びと、にもかかわらず、死に際してなにかと自己主張してくるような人びとがまつわりついてくるのを、3年という時間の経過によって削ぎ落そうとした。

彼女の死後、しばらくは、われこそがエレーヌの理解者、われこそがエレーヌの友と自称するたくさんの人びとによって不快な思いをさせられた。人びとにそう思わせる魔力のようなものが、エレーヌにはあったらしい。
いま、そういった人びとはどこへ行ってしまったか。けっきょく、彼らはなにをしたのか、しなかったのか。
 そういう人びとのひとりひとりの言動の蒐集も、エレーヌ研究の一部だった。3年間、黙って彼らの言動も集め続けた。彼らがしたこと、しなかったこと、そのすべてが、厖大な資料として、今、手もとにある。

 彼女の闘病中も、死の時も、ついに一度として来日せず、なにもしなかったフランスの血縁者たちについては、とりわけ、検討し直し、書くべきことが多いだろう。
故郷の墓地への遺骨移送の際、みずから労をとってくれた在東京フランス領事フィリップ・マルタン氏でさえ、エレーヌの血縁者たちについて、「ほんとうにフランスの恥です」と語ったものだったが、エレーヌ物語の登場人物たちであるそういう血縁者たちひとりひとりを検討し直すのは、率直にいって、なかなか楽しい作業だと言っておきたい。

フィクションは一切交ぜないが、エレーヌをめぐる物語世界にいっそう踏み込んでいくということになろう。




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