(Hisayo TATEUCHI)
タイマー撮影でいっしょに |
先ず始めに、日本滞在中のエレーヌさんに長年あらゆる方面からご支援されておりました昌樹さんに、心から敬意を表したいと思います。
2010年6月4日のことですが、卵巣がんを患い東京医療センターにて入院治療を受けていることをエレーヌさんご本人からの電話で知りました。
「面会には来ないで欲しい」とエレーヌさんご自身より強い希望があり、お見舞いに行けないまま訃報が届き、とても残念でなりませんでした。
昌樹さまからご連絡をいただき、闘病中のお話を伺いましたが、心安らかに旅立たれたことが私にとってなによりの救いになりました。
しかし…ご逝去されて1年が経とうとしていますが、私はエレーヌさんが居ないことを、いまだに受け入れられていないような気がします。
エレーヌさんの闘病生活と最期の時を、この目で見ていないからかもしれません。
エレーヌさんと初めてお会いした1996年当時、私はまだ23歳でした。
猫を通じて、お互いのことを話すようになり、私が若林から引っ越してからは主に電話や手紙、都合の良い日にはエレーヌさんに会いに行くという交際を続けていました。
エレーヌさんは大学やカルチャーセンターでフランス語の講師をされておりましたので、大学の試験や入試前は試験問題作成等で、とてもご多忙な日々を過ごされていました。
ですので、ほとんど母国フランスには帰国されませんでしたが、ヴァカンスが許された年にパリのお姉さまのところに戻られていました。
パリから離れた、たくさんのキノコが生息している森に行ったこと等、旅先からお便りが何通か届いたことも懐かしい思い出です。
フランス語講師の合間に、藤沢のお寺で瞑想を...そしてヨガを...また東洋医学にも興味をお持ちでしたので足ツボを学んだりと、エレーヌさんにとっては睡眠よりもご自身のやりたいことを優先的に実行させるのが大事なことで、それは彼女の自然な姿であるのが理解できました。
とくに、お昼間より夜の方が好きだったと思います。
エレーヌさんが夕食を作ってくださった時など、二人でゆったりと、とてもとても楽しい時間を過ごしたこともありました。
チーズとサラダ菜、大根と人参に麺を入れ椎茸ダシで煮たもの、ライ麦パン…
その時エレーヌさんは「私は納豆も好き」と言って、納豆も美味しくいただきました。
食後に葡萄を....「フランス人は葡萄の皮も種も食べる」と言いながら丈夫な歯で葡萄の種も食べていました。
私もエレーヌさんに教えられてから、葡萄の皮も種も食べるようになりました。
食卓。死まで33年間使い続けられた皿が見える。 奥の棚、テーブルも、留学生として日本に来た時に貰い受けて以来、 33年間使い続けることになった。 卓上右端のオレンジは、知り合いの占い師から入手した エネルギー増幅器の上に置かれている。この上になま物を置くと、 いつまで経っても腐らず、生き生きとしていた。 |
食卓 |
1996年にご逝去された私の好きな作家: 遠藤周作氏と対談されたことがあると聞いた時は、凄く羨ましく思いました。
ある日は「コンピュータのE-mailがよくわからない」とのことでエレーヌさんのパソコンを起動させ、メールについてやフランス語文字入力の説明をしました。
「これで覚えたからフランスの友人にもメールできます」と喜んでいただけたことが嬉しかったです。
書斎風景。使わない時、パソコンにはいつも布をかけていた。 プルーストの肖像画がその前に置かれている。 脇には、使い続けていた古いワープロも見える。 右奥、少し蔭になっている座布団は愛猫ミミの定席。 ミミはいつもそこで眠っていた。 |
最愛の子『ミミちゃん』が旅立った時、エレーヌさんは悲しみを抑えきれず電話口で嗚咽をもらしていました。
まるで心の支えを失ったかのようでした。
通話中は、ミミちゃんは口の中が痛くて食べられなかったけれどヨーグルトは好んで食べていたお話や、近所の野良猫さん達の避妊手術や病気の子の通院のことなど、お互いの近況をお話している中、私の体調のことまで気遣ってくださいました。
(私は1998年10月に、日本ではあまり認知されていなく欧米諸国に患者数の多い疾患にかかりましたので、エレーヌさんに罹患した旨を伝えた際は、すぐに病気への理解と身体の心配をしてくださりました...ご自身が卵巣がんで闘病中の時までも....)
私はエレーヌさんと巡り会えたことを素晴らしいことと思っております。
もう二度と、エレーヌさんのあの温かな声を聴くことのできなくなった今も、エレーヌさんのことを想う時間が毎日訪れています。
元気な時のエレーヌさんしか私の中には存在していないのです。
永遠の眠りの地が日本ではなくなってしまいましたが、長い年月を日本で過ごされたエレーヌさんが多くの人々に与えたものは、それぞれの人々の胸に刻まれ残されているのではないでしょうか。
猫さん達へ大きな愛情を注いでいた優しく自由なエレーヌさん、誰にも縛られずご自身の世界観の中で生き続けていたエレーヌさんの生前の姿だけを胸に閉まっておくことができました。
エレーヌさんは、みなさんの心の中で、みなさんと一緒に生き続けることでしょう。
もちろん私もそうです。
台所で |
家の前の道で。代田1丁目6と7のあいだ。 |
家の前の道で。代田1丁目6と7のあいだ。 |
家の前の道で。代田1丁目6と7のあいだ。 |
代田1丁目21、児童館公園のベンチで。 |
代田1丁目21、児童館公園のベンチで。 |
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昌樹さんのメールにて、最期の最後まで頑張り続けていたのを知り、エレーヌさんらしさをとても強く感じました。
「古い体を捨てて、清々している」エレーヌさんを誰よりも一番理解している昌樹さんのお言葉、きっとエレーヌさんはそう思っているのではないかと私も同じ気持ちでいます。
そして今日も二人の大好きなチョコレートを食べ、猫達と戯れます…エレーヌさんを想いながら。
エレーヌが猫たちに餌をやっていた代田1丁目21の児童館公園 |
児童館公園のベンチ。ここに毎晩猫たちが集まって、餌をねだった。 |
児童館公園の木々。 |
児童館公園前の道路。猫たちの通路でもあり、 下北沢へ向かうエレーヌの毎日の通路でもあった。 |
同じく児童館公園前の道路 |
(2011年 10月30日)
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