(立教大学名誉教授加藤武氏の退職記念文集のため、「先生への深い問いかけを」と依頼された際のエレーヌの小文)
1984,5年頃、池ノ上の自宅で。 |
エレーヌ・グルナック
Hélène GRNAC
先生への深い問いかけを、という依頼を受けたのですが、考えてみれば、これはじつに難しい依頼です。
なぜかというと、本当の問いかけは、魂によって生きられたものでなければ無駄なものになってしまうからです。
しかしながら、魂とは本当はなんなのでしょうか。
そして、魂によって生きるとはなんなのでしょうか。
そもそも、魂って実在するのでしょうか。それとも幻想に過ぎないのでしょうか。
いずれにせよ、存在へのあまりに直接な切り込みには違いありませんから、私たちは日々、不安をかきたてるこれらの困難な質問から逃げて、生き続けているようです。
しかし、自分にこうした問いかけをするのでなければ、存在者としてはなんの価値がありましょう。この問いかけの瞬間にこそ、生命そのものは私たちの心を揺さぶり、存在全体に溢れ出るのではなかったでしょうか。そして、各瞬間ごとに私たちは異なった新しい存在者となり……。
このことについての先生との次の「討議」は、さあ、いつにいたしましょうか?
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解題
駿河 昌樹
(Masaki SURUGA)
上の括弧内に記したように、親交のあった立教大学教授加藤武氏の退職を記念する文集のためにエレーヌが書いた小文である。「先生への深い問いかけを」と依頼され、それに答えてのものだった。依頼字数が決められていたため、本文には改行はないが、今回、改行と字句訂正を施してここに再録した。
大学の哲学教員でアウグスチヌスの研究者だった加藤武氏の哲学の授業は、哲学史や哲学テーマの厳しい追及をするようなものではなく、どちらかというと美学方面に傾いたさまざまなテーマやテキストを使いながら学生たちの印象や感想、意見などを引き出していく柔軟なやり方を特色としていた。哲学の知識や関心の度合いにばらつきのある学生たちを集めての教養課程の授業においては、これもひとつのあり方であっただろう。授業外に研究室で森有正などの著作の読書会を継続し、一部の学生たちにはとても人気があった。学年や年齢の差をこえて加藤氏の下に集った学生たちは卒業後も関わりを持ち続け、大学における師弟と広い意味での教育や人間関係のあり方のひとつの理想を体現したといえよう。学生たちとともに近郊の観光地や展覧会などにも出かけ、彼らのあいだに新たな出会いを醸成する役わりも果たし続けた。
1977年に留学で日本を訪れ、数年後に和光大学や立教大学で教えるようになったエレーヌにとっても、加藤氏は日本での人間関係の重要な軸となった。加藤氏は、日本滞在の初期のエレーヌの保証人でもあった。エレーヌは晩年まで、加藤氏がアウグスチヌスの論文をフランス語訳する際や、フランス語で手紙を書く必要がある場合に校閲や修正を請け負い続けた。
ここに再録した「生きること、魂によって生きること」は、エレーヌがまずフランス語で書き、それを私が日本語訳したものである。ただ日本語訳しただけでなく、日本語をうまくは書けないエレーヌの口ぶりをいくらか残すように、いくらかたどたどしさを演出しておいた。エレーヌ自身がそう望み、あえてヘタな日本語にしておいてもらいたいと言われたのだが、退職記念の文集にあからさまにヘタな文を出すのもどうかということで、ヘタさ加減の調整にはけっこう手間取ったのを覚えている。
いま読み直すと、かなりニュートラルな文になっており、エレーヌの望みに抗って、結局、かなり普通の日本語文にしてしまったのがわかる。もちろん、エレーヌが書いた元のフランス語文はちゃんとした文なので、今にして思えば、むしろ、この訳文は原文のニュアンスを伝えていてよかった、ということになるかもしれない。
原文のニュアンスを伝えるという以上に、この文は、エレーヌの考え方をとてもよく伝えている。プルーストやデュラスやカミュなどといった知的対象についてでなく、直接に、生きることや魂について触れているため、ものを感じたり考えたりする際のエレーヌの姿勢が非常にはっきり出ている。
エレーヌは、だれかに「深い問いかけ」をするのは難しい、なぜなら、「本当の問いかけは、魂によって生きられたものでなければ無駄なものになってしまう」と始めているのだが、彼女はこの時、「魂」についての十全な定義が自分においてできていないことを知っており、「魂とは本当はなんなのでしょうか」と問う。ふつうなら、ここでしばらく留まって、過去の哲学者のもろもろの定義を思い出し、列挙し、共通点や差異などを指摘し、検討して…等々していくのが、もっともらしい考察の素振りをするということになるわけだが、エレーヌの特徴として、すぐに「そして、魂によって生きるとはなんなのでしょうか」という別の問いに踏み込んでいく。慎重な思索を求めようとするならば、これは、性急過ぎる危険な問いの積み上げとも、横滑りとも言われる他ないだろう。
そればかりではない。続けてすぐに「そもそも、魂って実在するのでしょうか。それとも幻想に過ぎないのでしょうか」と問う。これは、主語の属性を問うていた第一の問いを、主語の存在への問いに強引に変更する行為であり、現代の哲学科の思索においては許されない手続きであろう。問いの質が異なっているのだから、同じ思索の中で同列に扱うことはできない。
もちろん、「魂」という問題をカフカにおける「城」のように、しかも、ドゥルーズやガタリが言うように「多数の入口」がある対象として見るならば(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『カフカ―マイナー文学のために』)、エレーヌはこの文で「魂」への複数の「入口」の存在を示唆しようとしたとも思われ、それらはどれも「入口」であることによって、エレーヌにとってはどれも同列でしかなかったとも捉えられうる。だからこそ、すぐに続けて「いずれにせよ」と思考の変換がなされ、提示されたいずれの問いにも深入りしていくのを回避しつつ、「不安をかきたてるこれらの困難な質問」への問いかけの重要さの確認こそへと舵が切られていくのである。
「自分にこうして問いかけをするのでなければ、存在者としてはなんの価値がありましょう。この問いかけの瞬間にこそ、生命そのものは私たちの心を揺さぶり、存在全体に溢れ出るのではなかったでしょうか。そして、各瞬間ごとに私たちは異なった新しい存在者となり……」と、生や存在そのものをさえ変容させるかのような「問いかけ」の特権的な価値を称揚していくエレーヌの記述の高揚ぶりは、意地悪くいえば、ある種の俗流哲学の安手の「問いかけ」礼賛に通じていないでもなく、別の言い方をすれば、やはり安手の文学っぽさに通じていなくもない。エレーヌの思考にそうした俗流の部分があったのを私はよく知っているが、(…しかし、誰が「俗流」からすっかり脱し切っていられようか?なにかのテーマに時間を費やして深めた者は、そのゆえに他のテーマについては無知に留まらざるをえないし、全くの無知を脱するがために専門外のテーマについての概説書を読んでにわか勉強をすれば、つまりは「俗流」になるということである…)、俗流になり切っているわけでもなかったとも私は知っている。というのも、「問いかけ」という知的作業なしでも生や存在は展開し続けるはずであること(植物状態の人間に生や存在はなくなっているのか?等々)にエレーヌは意識的だったし、多量の神秘主義の書物やアントナン・アルトーの著作などの飽くなき継続的な読書から、意識なき生、知性や思考なき存在、さらには生や存在なき非〈無〉について、つねづね思い続けていたからである。
「このことについての先生との次の『討議』は、さあ、いつにいたしましょうか?」
この結び方はいかにもエレーヌらしいし、たしかこの短い文において、エレーヌがいちばんこだわったところだった。「魂」や「存在」についての「問いかけ」を語る部分よりも、エレーヌにとってはこれこそ重要だったといっても大げさではないかもしれない。
彼女の多くの友人や学生たちが、このような口ぶりで「今度はいつ…?」とエレーヌに言われたことだろう。こう言う時のエレーヌの頭にあったのは、もちろん喫茶店やカフェで、ということで、彼女は、誰とであれ、とにかく喫茶店やカフェで、コーヒーを前にしながら「また」話す、「ふたたび」おしゃべりする、という思いを持つのを好んだし、大事にした。
場所を喫茶店やカフェに想定し、「次の『討議』は、さあ、いつにいたしましょうか?」という時、おそらく、エレーヌはいつも最高度の具体的かつ抽象的な自由を満喫していた。他人の家に行くのではなく、自分の家に他人を呼ぶのでもなく、誰の領域でもないカフェ、誰の権力圏でもありえないカフェほど、エレーヌにとって重要なトポスはなかった。カフェは、彼女にとって強いられた生の外部でもあれば、彼女自身の生そのものの甦る場所でもあった。
こうしたカフェ好きは、パリ住まいの人々には共有されうるものだろう。パリの住人の多くが、カフェを重要な人生の場所として生活に組み込んでいる。その点では、エレーヌは10代最後から40歳頃までのパリ生活の核心部分を東京生活に持ち込んだとも言えるだろう。
彼女は日本を好んだが、しかし、日本びいきの外国人がよく陥るような日本趣味にならず、日本的な文物を集めて日本的に生活するということも全くしなかった。じつは、日本に留学してきた1977年から78年頃、はやくも彼女は日本語の系統的学習や練習を放棄し、日本をひどく懐かしく思うという不思議な強い感情を抱いたり、日本のある種の文物や事象(梅雨、豆腐、納豆、紫陽花、苔や湿った暗い庭など)に強い愛着を覚える一方、社会学的・制度的な研究対象としての日本にはさほど興味を持てないといった相反する自己の内的状態に苦しむことになる。パリに住もうとも東京に住もうとも、自分は自分を生きるにすぎないといった巧妙な合理化は日本留学の当初のエレーヌにはできず、日本にわざわざ来ている理由づけに悩み続けた。そんな彼女を救ったもののひとつに東京のあちこちの喫茶店があったのだが(その頃は、まだ「カフェ」というものは東京にはなかった)、たとえば毎日曜日の午前、住まいに近い井の頭線の池ノ上駅わきの喫茶店などに通い続けて読書し続けながら、しだいに内なるパリ暮らしを回復していったことが、その後30年に渡る東京暮らしを支える土台となったことなど、エレーヌについて今なお興味を持つ人たちは今さらながらに思い出しておいてもいいだろうと思う。
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