駿河昌樹
Masaki SURUGA
2015年。
エレーヌ・グルナックが亡くなって5年目ということになる。
それぞれに親交のあった友だちや生徒たちには、どのような5年だっただろう。
その人たちの生は、いま、どのように続いているだろう。
エレーヌが来て暮らした日本が、やはり特別な時期だったのだと、年毎にくっきりとしてくるように思える。
まだ、あれほどの原発事故は起こっておらず、関東・東北の空気や水や食が核物質に汚染されておらず、ナチスへの親和をあからさまにほのめかしたり発言したりし、憲法から基本的人権さえ削除しようという反動与党の動きも明らかではなかった。生活格差を拡大させて国内で奴隷階級を作り出そうという動きはすでにあったが、いまほどあからさまではなかった。社会保障をさまざまな面で低下させ、高齢者や病人の健康維持を困難にしようという政策も、国民の貯蓄をなんとかして放出させようという政策も、まだ曖昧なままだった。
日本では外国人の立場ながら、社会での平等や自由にきわめて敏感で、興奮して怒ることの多かったエレーヌが、こうした現代の日本の動きに無関心でいられたわけはない。すべてを曖昧にいい加減に水に流し、なんでも「しかたがない」で済まし、忘却が得意で、選挙にも参加しようとせず、日々の小さな安逸のなかに閉じ籠ろうとし続ける、沈黙の羊たちさながらの日本人の社会で、晴れることのない不愉快な気分を持ち続けることになったに違いない。
フランス大統領選挙のたびに、広尾の大使館に投票に行く前、忙しい生活にもかかわらず、雑誌をいくつも読み込んで自分なりに検討し、投票対象を決めていた律儀なエレーヌが思い出される。
エレーヌが、じつは、日本の見えない守りになっていたかもしれない。彼女が卵巣や腹膜に抱え込んでいたガンは、2011年以降に爆発的に露呈することになった日本の汚れやおぞましさであったかもしれない。エレーヌという防壁、浄化場所を失って、日本はそれを自らかぶることになったのかもしれない。
あるいは、もうエレーヌには耐えられない、つき合いきれない日本の時代が到来するのを全霊で予感して、先に去って行ったのだろうか。
いまになるとくっきりとしてくることのひとつに、エレーヌの逝きかたが、鮮やかなまでにさっぱりしていたこともある。
たしかに、病中から亡くなった後まで、私をはじめ数人の友人たちにかなりの負担がかかったが、それでも、住居や最低限の物品、生きているかぎり続く数々の手続きなどの渦のなかで、エレーヌは可能な限り軽く生きていたことは確かだった。彼女の死後、私は自分の多忙な生活のかたわら、彼女の住居を借り続けたまま10か月かけて家財や遺品の整理をし、諸手続きを終わらしていき、その当時は疲労困憊し切っていたものだったが、それでも、ひとりの人が重病に見舞われて亡くなっていく場合としては、かなりシンプルなものだった。
だれであれ、かりに自分がいま急死したとしたら、死の時まで保持せざるをえない自分の住居や、その中を埋めている厖大な物品や、記念写真や思い出品の数々や、銀行から不動産、クレジットカードや携帯電話の契約に到るまでのすべてを、だれが、自らの生活時間を削りながら、どのように動いて、ひとつひとつ処理し、整理し、売却し、廃棄し、解約し、ゼロに戻してくれるかを想像してみれば、ひとりの人の死というものがどれほど大変なことか、わかるだろう。死に伴うそういう作業において、エレーヌの場合は、まだ、かなり軽いほうだったといえる。
衰弱が進んでいたとはいえ、2010年10月31日の朝のエレーヌの死は、急死といえる。
本人としては、10月になって、ますます、生き続ける意志を強めていたためだ。
死の直前の10月29日に、私の住まいにほど近い新居への引っ越しを遂行したのは異様に見えるかもしれないが、よりよい医療と療養環境に移るための方策だった。
結果的に、死の直前のこの引っ越しが、その後10か月におよぶ私のあらゆる整理作業をある程度簡易化し、スムーズにした。歩いて10分ほどで行けるエレーヌの新居は、仕事帰りにも買い物の前後にも、また休日にも深夜にも寄るのが楽で、空いた時間を見つけては通い続けて、さまざまな家財や遺品の整理を少しずつ行い続けることができた。これがもし、世田谷区代田の旧居にあり続けていたならば、私の家からは短くても片道1時間半はかかるため、必要とされる時間や労力、交通費などの点で、整理作業はとんでもなく困難な作業になったに違いない。逝くにあたって、物質界に残り続ける私に、エレーヌが与えてくれた配慮だっただろうと思う。
偶然とみえるようでも、物事がこのように整っていき、その後の成り行きが多少なりとも楽になっていくような出来事は、エレーヌの病気と死をめぐって、他にもいろいろと起こった。死にまつわる時期やさまざまな事情というものが、どうやら偶然ではなく、見えないなにかによって整えられているという思いを、以後、つよく持つようになった。
5年間という数字上の区切りを大げさに考える必要はないだろうし、5年経ってエレーヌが遠ざかったとも全く思えないが、それでも5年間…というと、どこかちょっと特別な思いになるようなところもある。
そういう思いに素直であってもよいのだろう。
少なくとも、年下だった人たちはエレーヌに5歳近づき、年上だった人たちはエレーヌがさらに5歳年下になったわけで、こんなことを考えながら湧き起こってくる思いを楽しんでもよいのかもしれない。
逝ってしまった人であっても、ふり返るたびに、無限の思いや感情がこちらの心には生まれ続ける。
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