(Masaki SURUGA)
2010年10月終わり頃の、死の直前のエレーヌよりの携帯メールを時系列に並べながら、最後の二週間ほどを、私の立場から振り返っておく。
(このブログの2012年10月27日《2度目の命日にあたって》の2章にも関連記事があるので、参照されたい。)
8月末の退院以降、エレーヌの調子は比較的よく、食事療法と適切な運動の組み合わせによる療養が目指されていた。長い入院の後での筋力の衰えのため、きびきびと動くことはできないが、最低限の家事や短い散歩などをしていた。
いっぽう、10月末に北区への引っ越しを決定していたので、引越業者とのやりとりや、旧居の不動産との交渉、新居のUR事務所での手続き、区役所での手続き、固定電話の移転などを進めていた。
食事療法については、野菜や果実などの新鮮なジュースを毎日作って飲むように勧めていたが、めんどくさがって本人は消極的だった。血中アルブミンの欠乏による浮腫に5か月も苦しめられてきたことから、魚や鶏肉などを摂取してタンパク質を摂るように促したが、食道から胃の不快感のために食は進まなかった。
10月12日(火)
エレーヌから、歩行や起き上がりの困難を聞く。浮腫や硬直のため。病院でリハビリの運動として教えられたストレッチの手抜きや、足の運動のやり過ぎのためか、と考える。
10月13日(水)
エレーヌ宅に介護ベッド搬入。
10月18日(月)
勤めの後、夜に、渋谷からバスでエレーヌ宅へ。足湯をして温めたりし、マッサージをしてやる。しかし、動くことが困難になっており、病院への再入院が必要と判断する。すでに夜遅いため、明日の朝にアクションを起こすことに。
エレーヌによれば、日中には古い友人らが来ていたそうだが、その人たちが、急を要するエレーヌの異常を全く見てとらなかったことに驚かされた。固定電話を解約して携帯電話だけにしたほうがどれだけ安くなるかとか、ガンの治療には巨費が必要なのにエレーヌにはどれだけ銀行に残額があるのか、あまり残額がなければもう助からないだろう、といった話だけをして帰ったという。病気で弱まって療養している人のところに来て、長々とこんな話をして帰っていくのが「友だち」なのか?、とエレーヌは私に聞く。
10月19日(火)
妻が東京医療センターの担当医に電話し、緊急入院の準備をしてもらうことに。世田谷区と北区の介護施設と連絡。フランスのエレーヌの親族たちや友人たち宛てに、緊急入院のことをメールで伝える。
エレーヌ宅では、友人の中島慶子さんが泊まって、エレーヌに付き添う。
10月20日(水)
朝、エレーヌは東京医療センターに再入院。アイリス動物病院の“アイリス先生”こと斎藤都さんと中島慶子さんがエレーヌ宅に向かい、斉藤さんの車で病院に搬送。病院では、妻が迎える。
私は勤めの後で、夕方、病院へ。エレーヌの入院用の品物を途中で買い揃えて、向かう。
エレーヌは食事に出たミカンやトマトを食べず、(酸っぱさに耐えられなくなっている)、ビタミン類の摂取が決定的に欠如してきている。カプセル入りのビタミン剤のようなものを買う必要を覚える。
10月21日(木)
病院に行けなかったため、16時55分にエレーヌから次のメールで報告が来る。
おやつにナシとヨーグルトを食べたこと、朝食+昼食+おやつの三食を食べたこと、8時間かけて点滴をしたこと、慶子さんにロイヤルミルクティーを買って来てくれるように頼んだこと、などが書かれている。
4月に衰弱がひどくなってから、エレーヌは濃厚なミルクティーを好むようになった。生涯に一度もなかったことだが、タンパク質のアルブミンの低下を補おうとする体の欲求かもしれない。(アルブミンが欠乏すると、細胞膜の目が粗くなり、水分や栄養素が漏れ出てしまう。それが浮腫を引き起こしてしまう。)
仕事のため、病院に行けない。エレーヌからは、二通メールが来る。
一通は、病院に持って行く本について。エレーヌと話していて、ドゥルーズとガタリの『ミル・プラトー』を読んだらどうかと思い、勧めたら、読みたいと言っていた。
もう一通は、作家・文芸評論家のモーリス・ブランショ『火の部分』について。舌の病気になった仏文学者の篠沢秀夫がブランショにとても影響された話を聞いて、この本を読みたいと。ブランショは私がほとんど持っているので、次に病院に来る時に持ってきてほしい、と。
さらに、いいものがあれば、果物も持ってきてほしい、と。この時期、よくブドウを買って持って行った。
やはり、仕事のため、病院に行けない。
朝、エレーヌの体内のガンを、なんとカネヨのクレンザーで洗い落とす、というリアルな夢を見る。
じつは、エレーヌについて、夏以来、私はいくらか心霊治療を試みていて、効果を確認していた。この夢には、エレーヌの霊体に侵入して、積極的に病巣を洗い落すべきだという発想を与えられる。このことをエレーヌにメールで告げたら、私のヴィジョンを信頼する、心霊治療をやってもらいたい、どのようなことも可能だから、と返事が来た。点滴を続けている、とも書いてある。
病院で介護保険証が見当たらなくなったと連絡を受け、それを探しにエレーヌ宅へ。重要な書類や証書、物品などをエレーヌがなくすということが頻発していた。
行ってみると、エレーヌ宅には中島慶子さんと斎藤都さんも居り、エレーヌの着替えなどを取りに来たとのこと。このように、数人がエレーヌのためにつねに動いているというのが普通だった。
介護保険証は家には見つからず。たびたび起こったように、やはり病院にあるはず。
斉藤さんの車で、代田のエレーヌ宅から駒沢の病院に向う。徒歩+バス+電車でこの行程を辿ると、いったん渋谷にバスで戻ってから駒沢大学に電車で向かうか、三軒茶屋に徒歩で向かってからバスか電車で駒沢大学に向かうかするしか方法がないため、大変な時間がかかるので、助かった。代田のエレーヌの住まいは、こういう点で交通上の僻地にあった。急ぐ場合はタクシーで行くことになるが、タクシーもなかなか捕まらないことが多かった。こうした交通上の不便さも、引越しの理由のひとつだった。
病院に着くと、エレーヌは1Fのカフェ《エクセルシオーネ》でコーヒーを飲んでいた。ろくに物も食べず、衰弱していても、車椅子を押してもらって病院内のこのカフェに行ってコーヒーを飲む、というエレーヌの姿勢は顕著だった。少なくとも27日までは、私自身がこれを目にしている。28日と29日についてはわからないが、行った可能性もある。30日は傾眠状態に入っていたので、病室から出なかったと思われる。
カフェ《エクセルシオーネ》から、固定電話の引っ越し手続きを、エレーヌ自身の声で確認を取らせ、完了する(本人が行わないと受け入れられない)。
自力で立ち上がったり、座ったりできなくなっているので、トイレを手伝ったり、ベッドに寝かしたりする。
なお、この日、30年近く書き続けられてきたエレーヌの手帳の記述が終わっている。翌日25日以降は、手帳は白紙のままとなり、二度と記入されることはなかった。
さらに、この日、長く通っていた下北沢の美容室《ガッツ》の担当美容師カンさんは、病気から回復して元気になったエレーヌの姿を夢で見ている。
10月25日(月)
仕事のため、病院に行けない。
10月26日(火)
やはり、仕事のため、病院に行けない。
11月2日(火)の欠勤届を事前に出す。29日の引越しの後、荷物整理に数日かかるのを予想し、休みを取っておこうとしたもの。しかし、奇しくも現実には、11月2日(火)はエレーヌの葬儀が行われることになる。もちろん予期などしていなかったのに、葬儀のための欠勤をあらかじめ取ったことになる。
この日の夜に来たメールには、リハビリをやったこと、今後の日々もそれが続くこと、アルブミン点滴を三本やったこと、担当医が「駒込」のことについて私と話したがっていることが書かれている。「駒込」というのはガン治療で有名な北区の駒込病院のことで、そこへの紹介状を書いてもらうことになっていた。新しい引越し先からは駒込病院へは15分から20分ほどで着く距離であり、そうしたことすべて含めて、私は一年前からエレーヌのための引越し計画を少しずつ進めていた。
もっとも、この日、担当医が私に話したかったのは、エレーヌの衰弱が進行しており、病院を替わるのは困難ではないかということだった。
27日(水):勤めの後、夕方に東京医療センターに向かい、エレーヌを見舞う。少しでもエレーヌにタンパク質を摂らせようと考え、途中でやきとり風弁当やサラダなど買っていく(病院の食事はひどいもので、ご飯や甘いヨーグルト、おひたし、固い焼き魚のようなもののみ。しかも、病種に関係なく、同じ食事)。ビタミンCのカプセルも買っていく。しかし、衰弱がひどく、食欲がない。
血液の質が急速に落ちており、体内のどこで、いつ致命的な出血が起こってもおかしくない状態になりつつあった。これに対抗するには、積極的なビタミン摂取やタンパク質摂取に努めるしかない。エレーヌにそれを説き、少しでも食べるように勧めたが、ほとんど食べなくなっていた。
私は翌日の午前から引越しの準備に入るため、エレーヌの夕食後にすぐに辞去した。引越し後の30日頃に、また病院に引越しの報告に来る、と告げたが、エレーヌと会ったのはこの日が最後となった。
数枚、この時のエレーヌの写真を載せておく。これが生前の最後の写真となった。
28日(木):引っ越し先の新居のカギを受け取り、新居に入って掃除や整理。
(医療機関の変更も含め、今後のよりよい療養のために、私の住居近くに越すことが計画されてきており、それが実行段階に入っていた。そういう最中、エレーヌの身体は急激な衰弱へ。もちろん、引越し計画の中止を検討、エレーヌ本人に何度も聞き直したが、彼女はそのまま引越しを遂行したがった。病気に負ける気は全くなく、療養を続けるために、住んだことのない土地に越して新たな人生を始めるという、強い意志があった。身体状況と精神状況のはっきりした乖離が起こっていた、とも見えた。)
夕方、家で奇妙な音がしたので、そのことをエレーヌにメールすると、21時34分にエレーヌより返信。しかし、以下の通りの文面で、もはや意味が読み取れない。文字を書く力も気力も欠如してきているのがわかる。
深夜に異常現象。家の電話機が30分おきに電子音を鳴らし続ける。呼び出し音が鳴るのではなく、誰かが電話機のボタンを押さないと鳴らない音がする。まるで、そこに人がいて押しているように鳴る。エレーヌの霊が来てなにかを告げて鳴らしているような感じで。
29日(金):世田谷代田から王子神谷のUR11階への引越し(朝9時より)。入院中のエレーヌは来れないので、すべて私と引越業者とで行った。しかし、エレーヌは自ら引っ越しに来て采配を揮うつもりだったらしく、どうして自分を連れに来ないのかと言っていたという。
世田谷代田の旧居には、比較的近くに住む友人の於保好美さんが掃除手伝いに来てくれた。やはり近くに住む南さんに、粗大ゴミの処理をお願いする。新居のほうには、友人の中島慶子さんと大林律子さんが手伝いに来てくれた。
引越しの最中に、エレーヌから、次のような奇妙なメールが来た。まるで、すでに遠いところに行ってしまっていて、たまの挨拶をしてきたかのようなメールだった。私はこれを見た瞬間、エレーヌはもうダメだ…と思った。
中島慶子さんと大林律子さんは、帰途、医療センターに寄ってエレーヌを見舞った。友人たちがエレーヌに会ったのは、これが最後となった。引越しを無事済ませたことを伝えると、エレーヌは涙を流して喜んでいたという。
私はひとりでエレーヌの新居に残り、夜遅くまで整理を続けた。
30日(土):台風14号接近のため、東京は朝から暴風雨。雨の止んだ後は強風となる。電車の不通や混乱があり、エレーヌの世話をしている人たち皆が見舞いを諦めた。
午前8時の回診記録では、意識に変わりなく、食欲もあったとのこと。
午後2時52分、「疲れる…」と洩らしていたとの記録。
午後4時57分、「大変…」と看護師に言っていたとの記録。
看護師たちによれば、時間によって、眠りがちだったり、起きていたりをくり返していた。亡くなる前に現われることの多い傾眠現象が始まっていたらしい。
31日(日):午前3時に意識レベル低下。回診の看護師が声をかけたが、反応がなかった。傾眠を超えた状態に入ったことになる。個室に移し、処置の開始へ。
午前4時57分、血圧低下始まる。
午前7時10分、亡くなる。
当直医師側の不手際で、私の家の固定電話に連絡が来なかったため、異常を知ったのは6時過ぎだった。この時点で数名に連絡したが、誰も臨終には間に合わず、最も近い友人も間に合わなかった。
私が到着したのも7時40分だった。
ベッドの上のエレーヌに呼びかけると、エレーヌの目から涙が流れ出た。死の直後の遺体が見せる現象だろうが、こちらの声に反応したように見えた。
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