駿河昌樹
(Masaki SURUGA)
今日、2017年10月29日、東京は接近中の台風の影響で大雨になっている。明日30日は台風の通過で荒れ模様になるという。
エレーヌの逝った2010年10月31日(日)の前の日、30日(土)にも台風14号が来ていた。体調が悪化していた彼女には、台風にともなう気圧の変動は響いたのだろう。病棟では朝食は取ったらしいが、その後は眠り続け、昼食や夕食の時にも起きてはいたらしいが、食は進まなかったらしい。臨床医学で言うところの傾眠の状態にあった、と後に医師は語った。
土曜日ということで、見舞いに行こうとしていた人たちもいたが、東京の天候は荒れ、交通機関はひどく乱れていた。よほどの用事があるのでもないかぎり、外出は避けたほうが賢明だった。エレーヌの最期の日、誰も見舞いには行かなかった。
エレーヌ死後、ちょうど7年目にあたる今年、まったく同じように10月29日から30日に東京に台風が来る意味を、ちょっと考えてしまう。偶然の一致に過ぎないだろうが、エレーヌが逝ったあの年と同じサイクルが、ひさしぶりに戻って来たのか、とも少し思ったりする。
もしそうなら、これは少し気がかりなことで、エレーヌ死後の5ヶ月後に、あの東日本大震災と原発事故が起こったのが思い出されてくる。
2010年の10月30日の場合、夕方には台風が去ったが、その後は強風となった。私は家に残ることに決めたが、交通機関はあいかわらず乱れ続けたので、病院の面会時間の終わりまでに駆けつけようとたところで、やはりうまくはいかなかったに違いない。
私の場合、台風でなくても、30日は休んでいたい事情があった。
前日の29日(金)に、エレーヌ宅の引越しを行い、朝早くから夜18時半まで引越し業者たちとぶっ通しで作業をし続けたので、30日はくたくたになっていた。エレーヌが長く住んだ世田谷代田1丁目の家から、王子神谷のURの11階へと荷物を運び、荷解きをする作業は、その前段階の荷造り作業や旧居の後片付け、新居の鍵の受け取りや、トラックの搬入用の共用地の解錠なども含め、神経衰弱になるような大変な労働で、数人のエレーヌのお友だちに手伝ってはもらったものの、全体を指揮したり細かな注意を張り巡らすのは私の仕事だったため、精神的にも疲労困憊していた。
エレーヌはむろん衰弱していて、引越し作業には加われない。もしエレーヌが現場にいたら、こんなことやあんなことに注意したり配慮したりするだろう、とエレーヌの気持ちを想像して、家具の取り払われた旧居の後を見直した。新居に荷物が運び込まれて引っ越し業者も帰ってしまった後は、その晩のうちに、退院後のエレーヌが使いやすいようにと考えて、家具の配置や急いで使うものの取り出しを開始した。衰弱しているとはいっても、すぐに回復して新居住まいを始めるかもしれないと、本当に思ってもいた。
エレーヌが衰弱しているのに引越しを行うとは、なんと異常なことかと、事情を知らない人なら思うに違いない。
もちろん、引越しを決めて、諸々の手配を行った時点では、エレーヌの回復の様は順調と見えていた。
彼女は春から夏に瀕死の状態に陥ったが、夏に奇跡的な回復を遂げて、リハビリもやり遂げ、約5カ月の入院を経て、8月の末に退院した。ガン治療で効果を上げていた駒込病院に治療拠点を移すことを決め、それを長期的に計画して、前年に北区に先行隊として引越しをしておいた私と妻の住まいにごく近いURに彼女の新居を決定した。
なにより、エレーヌが住み続けていた世田谷区代田は陸の孤島のような場所で、健康ならばともかく、歩くのも難儀するような状態の病人には交通の点で不便過ぎ、見舞いやなにかの世話に行く人たちにも不便で、その場所から一挙に交通上便利な場所へと移してしまう必要を感じていた。旧居は環七が近いので、車での移動には便利なようだが、タクシーが意外と来ない場所で、いざという時には驚くほど時間を浪費してしまう。とにかく交通の便利な地域へエレーヌを移動させるというのが、エレーヌが大病に罹ってから一年半かけて、少しずつ見極めながら、準備してきた案件のひとつだった。
10月はじめには引越しも決定していて、10日には引越し業者との打ち合わせも済み、引越しにむけての様々な手続きなどが始まっていた。
電気、水道、ガス、電話などの住所変更に加え、銀行や郵便局のそれ、介護サービスも使っていたから、その変更のために世田谷区役所にも北区役所にも出向き、介護事業所にもいちいち電話をくり返し、勤めの暇を縫って、ひとりで駆けまわっていた。
そうした事務手続きに奔走していると、エレーヌの家に行く時間はなくなる。月曜日から金曜日まで休みなしの勤めもある身には、どこへ体を運ぶにしても、一刻も暇のない日々が続いていた。
プロバイダーへの手続き事項の確認などのために、18日には、どうしても代田のエレーヌ宅へ行く必要ができた。
その際、数日前には見られなかったような衰弱がエレーヌに現われているのに気づいた。すでに、12日にはエレーヌからの報告で、歩行や起き上がりの困難が始まっているのを聞いていたが、本人も私も、頑張りすぎてやっているリハビリのせいで、足の筋肉の硬直が起こっているのではないか、と思っていた。必要なストレッチも十分にしていなかったようなので、そのせいもあると推測していた。
18日は、私には夜まで用事があって、それが済んでから遠いエレーヌの代田の家まで行くのは苦しかった。勤め先からエレーヌの家や病院に向かうには、私自身の家への帰路とは完全に逆方向へ向かって、45分以上かけて行かなければならない。エレーヌ宅から帰る時には、最終バスに乗って渋谷まで出て、そこから私の自宅への帰路となるので、帰り着くのは深夜の0時を過ぎた。翌日もはやくから勤めに出る身には、これは相当な負担で、こんなことがもう、一年半も続いていた。睡眠時間は4、5時間も取れればいいほうで、家で時どき放心状態になってしまう私を見続けた妻は、なんの手助けもしようとしないエレーヌのフランスの親族たちに対し、知り合いの国際弁護士を通じてアクションを起こそうとしたほどだった。
ともかくも18日、疲れを我慢しながらも少しでも寄ろうと考え、夜遅くにエレーヌの家に着く。彼女の足をマッサージして温めてやったりしたが、ここでようやく、エレーヌの衰弱が看過できないほどになってきているのを知った。
エレーヌの家に寄って、私自身の目でこの状態が確認できたのは幸いだった。
帰宅後、このことを妻に告げると、彼女は病院への連絡などを一手に引き受けてくれ、20日の朝には病院への再入院が可能になった。妻と、エレーヌの友だちの中島慶子さん、アイリス動物病院院長の斉藤都さんが、斉藤さんの車でエレーヌを病院へ運び込んでくれた。
私は勤めの後、夕方に、病院の最寄駅近くのスーパーやホームセンターや100円ショップなどをまわって、入院に必要なものを買い集め、夕食頃の面会時間に病院に着いた。
エレーヌが再入院した20日、朝の起床間際の夢で、私は天使たちや病院のことを見た。
たくさんの天使たちが、いっぱい並べられた太鼓のようなものの間を忙しく行き来しながら、たち働いている。私は天使たちに、仕事を任せるように言われ、これからはそうしようと決めて、彼らに分担してもらうことにした。
続けて見た大きな白い病院の夢では、私は屋上に近い階の窓から庭を見下ろしている。庭には女医さんたちがいて、楽しげに働いている。それを見ながら、私は下に降りて行って、女医さんたちにいろいろ頼んでおこう、と思う。
そんな夢だった。
今から思い返すと、現実の下の深い層ではすでに、十日後のエレーヌの死去が準備されていたもののように思えてくる。
写真は、亡くなった直後のエレーヌが着ていたユニクロ製のロイ・リキテンシュタインのTシャツ。私が買ってあったものを、入院中のエレーヌのために持って行ってあった。
31日の午前3頃から危篤状態に入ったエレーヌは、その時点で失禁したため、着ていた寝間着やカーディガンを看護師たちが脱がせて、かわりにこのTシャツを臨時に着せたらしい。エレーヌは、これを着たまま、午前7時10分に息を引きとったので、駆けつけた私たちが見たのは、このTシャツを着て、胸で手を組んだエレーヌの姿だった。この軽いデザインは、最期のエレーヌには、けっこう似合っていたかもしれない。絵が、彼女の好きだったドトールコーヒーのジャーマンドックにも似ているし。
当直の医師の電話連絡の不手際から、臨終に間に合った者は誰もおらず、いちばん近くの於保好美さんでさえ、間に合わなかった。
遺体を棺に収めた後、エレーヌにはお気に入りの黒いTシャツなどを着せたので、その際に脱がしたこのTシャツは、今でも私の手元にある。
汚れたわけでもないので、古びたとはいえ、今でも使い続けている。
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