ともに故郷のローゼル県、サン=シェリー・ダプシェ近郊の山中で。 ブルーベリーやラズベリーを摘みに。 |
ついでに… エレーヌによく似た聖アンナ像 (レオナルド・ダ・ヴィンチ画) |
駿河昌樹
(Masaki SURUGA)
フランスには、ふつう、個人の記念日がふたつある。誕生日と名の祝いの日だが、後者は、名付けに用いられた聖人の記念日である。
子どもの誕生日を祝うのはもちろんだが、大の大人たちの場合でも、歳をとってさえ、家族や友人たちが集まってお祝いの食事会を続けるのがごくふつうのフランスの生活で、このあいだ誰かの祝いが済んだと思っていたら、今度はこっちの人の…というふうに、なにかと忙しい。なにを買って持って行こうか悩まされるので、楽しいような、面倒なような、というのが、けっこう本音ではないだろうか。
エレーヌの名前の日、聖エレーヌの記念日が近づいている。8月18日がその日、Sainte Hélèneだ。
「エレーヌ」という名は、ギリシア語のhelêから来ており、温かさや熱を意味する。名前としては、紀元前9世紀、ホメーロスの『イーリアッド』に初出。よく知られるように、ゼウスとレダの娘の名で、ギリシア神話上の重要な名前であり、世界で最も美しい女性を意味する。20世紀には、よく用いられる名前50のうちの16位となった。
8月18日が記念日とされる聖エレーヌは、ローマ皇帝コンスタンチヌスの母で、寛大で気前がよいので知られ、キリスト教の聖所を保護するために大聖堂を三つも建築させたことで知られる。
さて、名前としての「エレーヌ」、その性格面は、…まぁ、このあたりは通俗的な占いに似て眉唾ものだとしても、夢見がちで理想主義者が多い、ということになっているらしい。皮膚の表面までぴりぴりと敏感で、世の残酷さや不条理に我慢がならない。こうした面の感情が激しいので、自分を守るためにしばしば象牙の塔に籠りがちになる。誇り高い振る舞いが近づきがたく見せるが、美しさの裏には、往々にして、恥ずかしがりな性格が隠されている。ひとたび心の壁を乗り越えてきた相手には、「エレーヌ」という名を持つ女性は、もう、何ひとつ隠し立てはしない。自発的で、人間味に溢れている彼女は、愛する相手を助ける機会を逸することはない。友情や愛情は長く続き、「エレーヌ」という名を持つ女性は、近くにいる人たちに、いつまでも誠実で献身的であろう…
こういった記述が、フランス版の名前の占い辞典的なものにはいっぱい見つかる。
話半分にこうした記述を読んでみていると、それでも、我らがエレーヌ・グルナックは、けっこうこれを体現した人物に近かったような気になってくる。ふしぎなもので、通俗な占い本などが、案外と馬鹿にできない気にさせられる。
ここでは、くわえて、エレーヌがいつも暗唱していた祈りを紹介しておこう。
最初の写真は、エレーヌの自筆で、聖母マリアへの祈りと、父なる神への祈りが書かれている紙片を撮ったもの。どちらもカトリックの伝統的な祈り方で、内容的には、エレーヌ独自のものではない。
「 聖母マリアへの祈り
マリア様、あなたを讃えます。
聖寵の女神よ。
神はあなたとともにおられ、イエス様はあなたの祝福された胎の実り。
聖なる処女マリア様、神の母よ、哀れな罪人であるわれら(私)を憐れみたまえ。
アメン」
「われらの父なる神への祈り
天にまします我らが父よ、
御名が尊ばれんことを。
御国が到来し、
天と同じく地にも御意志が為されますように。
今日われらに日々の糧をお与えください。
われらの非礼をお許しください。
われらがわれらに非礼を働く者を許すごとく。
われらが誘惑に屈するがままになさらず、
われらを悪から解き放ってください。
アメン」
それぞれの教会の訳があるが、 ここではフランス語に近い訳を掲げておいた。
これは、エレーヌの遺骨をフランスに送る際、引き取りに来たフランス領事フィリップ・マルタン氏の前でも唱えたが、さすがに、あらゆるフランス人が暗唱している祈りで、いっしょに唱和してもらえたのを覚えている。
カトリックにしろ、プロテスタントにしろ、エレーヌはキリスト教徒ではなく、むしろ、宗教としてのキリスト教にはきびしく批判的だった。しかし、幼時からのフランス社会とのふつうのつき合いの過程で、もちろんキリスト教にはつねに接しており、キリスト教の神秘主義には格段の関心と熱意を持っていた。マイスター・エックハルトをはじめ、さまざまなキリスト教神秘主義の書籍を耽読し、今も私の手元に多くの本が残されている。
非キリスト教徒として、しかし、霊性探求の求道者として、直接にイエスや聖母マリアに繋がる道をエレーヌは選んでいた。まとめて言うと、キリスト教の地上の権力組織の闇と澱みを避けて、じかに聖性にアクセスする試みが、エレーヌにおける対キリスト教課題だった。
彼女の神秘体験の中に、聖母マリアの出現やイエスの出現がたびたびあったことについては、すでにこのブログの他のところでも触れた。それを聞かされるたびに、いちばん厳しい批評者でもあった私は、それは寝ぼけていたのではないか、とか、つよい見神願望が齎した幻覚ではないか、とか言ったものだった。しかし、エレーヌがある段階以上の霊能者であることはよく知っていたので(私自身、人生上の多くの問題について、彼女の霊能力の恩恵に与った)、こうした、一見意地のわるい批判は、エレーヌの実体験に纏わりついてくる幻影や意識内での誤魔化しをいっそうきれいに取り除きたいからこそのものだった。
二つ目の写真には、インドの女性聖者アーナンダマイ・マー*の短い祈りが見られる。生きながらにして、神とじかに繋がり続け、多くの弟子たちに取り巻かれていた有名な聖者で、エレーヌはこの聖者についての書籍も数冊、本が崩れるほど読み込んでいる。
やはりエレーヌ自筆で書かれたこの紙片には、アーナンダマイが弟子たちに与えた、効果的な力強い祈りの文句が記されている。
* (アーナンダマイ・マーについてはウィキペディアにも記されている。
なお、アーナンダという名自体は、もちろん、仏陀の十大弟子のひとり阿難にも関わっている。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Anandamayi_Ma
「アーナンダの祈り
神よ、あなたに完全に私を捧げます。私を、あなたのお気に召すようになさってください。あなたのお望みになるすべてに私が耐えられるように、純粋な喜ばしい力だけをお与えください。」
だいたいこんな内容の祈りで、求道者や信仰家、霊能者たちならすぐにわかる、簡潔で短い見事な祈りとなっている。ここに掲げた訳はとりいそぎの一応のものなので、役立てたいと考える人があれば、自分なりに訳し直して使ってもらいたい。
というのも、よく言霊という言い方がされる通り、祈りや呪術の際の言葉の選択、配列、口調などは、まさに命そのもの、力を発揮できるかできないかのスイッチそのもの、門や扉そのものだからだ。
エレーヌは、占いにおいて、とりわけクリスタルの振り子による手法に秀で、つねに百発百中で予言を行った。その際、質問内容を頭の中で簡潔に言語化するのだが、その言語化の仕方が、驚くほどパフォーマンスに影響する。
たとえば、「8月18日は晴れる」と「8月18日の天気はよい」は、ふつうの生活者にとってはまったく同じ意味だが、振り子は同じようには反応しない。
占いのすべてが、こうした言語配列の妙にかかっているのを、エレーヌのさまざまな占い実践の現場に立ち会った私は実地で見続けた。言葉の選択・配列は概念の選択・配列であり、言葉や概念はそのまま宇宙真理の見えない流れにそのまま繋がっているので、それらの選択・配列をちょっとでも間違うと、真理の別の扉を開けてしまうことになる。
言葉や概念、思い、感情は、それ自体が力であり、鍵であって、用い方や扱い方に注意をしないと、いっこう効果がでないということにもなれば、大変なことにもなる。
こんなふうに、キリスト教の祈りも唱えるかと思えば、同時にインドの聖者の祈りも唱えるというのが、エレーヌだった。
宗教を混淆していたというわけではない。
彼女には、いわば、聖者主義とでもいうところがあった。
霊能者として、見神者として、しっかりした個人的な能力を持った人々だけを尊重し、彼らと直に繋がって(聖者たちには生死の区別も時空の差異もない)、教えや助けを求めるという姿勢がエレーヌには強かった。
あらゆる宗教は、そうした聖者たちの言行を記録し伝承するための器であり、それ以上のものではありえない。聖書も、聖人たちの言行録も、一字一句に拘って読み過ぎれば、かならず誤りに陥り、狂信を生む。信者たちというのは、能力もないのに、元祖の霊能者たちの権威に縋ろうという人々であり、この人々にはそれなりの価値や役割があるにしろ、それを超えることを許すべきではないというところが、自身霊能を持つ神秘家であったエレーヌにはあった。
聖者たちは、どの宗教に属する人であれ、たがいに聖者どうしの直接的な繋がりが可能であり、キリスト教や仏教や神道といった差異を個人の能力において超越している。
大病に罹ってからのエレーヌは、事実、日々の礼拝としては、私が勧めた神道の礼拝を中心的に行っていた。これは、日本列島に居るかぎり、神道のアマテラスオホミカミの名がもっとも強い力を与えてくれるためで、ヨーロッパに行けば、たちまちこのアマテラスの名の力が弱まるのは、霊能のある者ならみな体験している事実である。ヨーロッパでは、聖母マリアの名の強さが絶対である。
このページでは、ふだん隠している神秘主義的な話に踏み入ったが、これこそ、まさに、いかにもエレーヌらしい領域の話ではある。
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