布団を干すエレーヌ。 1983‐85年頃、世田谷・池ノ上の借家で。 |
(Masaki SURUGA)
エレーヌの知人だったピアニストのひとりに時どき会うが、おそらく心の目に映じるのだろう、エレーヌさんが出てきたわ、昨日はこんなふうだった、と言われることがある。カフェで話していても、「あ、エレーヌさんが今そこに来たわ」などとふいに言ったりする。
その人によれば、最近見えるエレーヌは、亡くなった頃のような白髪ではなく、ぐっと若返って、髪もすっかり栗色になって…ということらしい。屈託なく、楽しげにしているような雰囲気だという。あの世にいって、もう5年になろうとするのだから、そりゃそうでしょう、むこうにもすっかり慣れて、仲間もできて楽しくやっているでしょう、と話がはずむことになる。
エレーヌが亡くなった2010年の夏もものすごく暑く、彼女は8月末まで入院していて、あの大変な暑さを経験しないで済んだが、入院中の彼女の世話をする私や数人の彼女の友人たちは、ずいぶん苦しめられた。病院の最寄駅は駒沢大学駅だったが、そこから15分ほどは歩かなければならない。途中で買い物をし、それを持って炎天下を歩いて行くのは、数日置きとしても楽ではなかった。美しい夏雲が出ていたり、つよい日差しがビルのガラスに反射したりしている日など、それを見ながら、こんな光景を後になって思い出すんだろうな、とよく思った。
退院してから9月に世田谷区代田の自宅に戻って療養が始まることになったが、生涯を通じてエアコンを嫌い、一度も家に設置したことのなかったエレーヌのために、さすがに大病中ということでエアコンを設置しなければと思い、8月半ばからひとりで東京中の大型電気店を駆けまわった。記録的な猛暑の夏ということで、たいていの店でエアコンが足りない状態になっており、かろうじてある店で確保し、退院の数日前に設置できた。
設置工事のために、もちろんエレーヌの家に行って待っていなければならず、請負業者からは午前か午後かしか指定できないと言われて、数時間無為のままにエレーヌの家で待って、設置工事に立ち会った。エアコンのない家は、いくら窓を開け放っても途方もない暑さで、扇風機にあたりながら、こちらはこちらで差し迫った仕事をいくつも持っていたので、本を読んだりメモを取ったりを続けた。エレーヌという主のいない家にそうしてひとりでいると、しかし、なかなか集中などできず、あっちを片づけたりこっちを整理したり、彼女はこんな本を最近見ていたのかとか、こんなノートを取っていたのかとか、いろいろと気が散ってならなかった。
エレーヌの家とはいうものの、そこは私の家であり、私の名義で借り続けていた。11年前まで私もそこに住んでいたので、すべてを知り尽くしていた。だいたい、なにかが壊れたり、エレーヌの手に余るようなことが起こったり、電球のひとつを取り換えるのでさえ、私が来て作業をし続けていた。
どうして私がエレーヌと離れて暮らすことになったのか、このことについてはいろいろと詮索され、噂され、中には不愉快な忖度をされている場合もあったようだが、非常に簡単なことで、50代も終わりに近づいたエレーヌが、ひとりの空間を持ちたがったからだった。最後の10年間ほどを彼女はプルーストやデュラスなどの読解に集中し、神秘主義の多様な読書にもさらに打ち込み、日々のヨガの練習を朝や夜にある程度長い時間を取って続けたがった。いっしょに暮らしていた私がそれらを邪魔したことはないが、広くもない家にふたりでいると、朝から夜までなにかと障りになるのは事実だった。
私は5分ほどのところに書斎を持っていたので、そちらに住むことにし、多くの場合、夕飯の料理は私がし、仕事帰りのエレーヌが私の書斎に寄って食べ、彼女が家に帰ってから私が皿洗いをするというようなかたちになった。エレーヌは自宅で魚を焼くようなことは絶対にしなかったが、サンマやブリの塩焼きなどは大好きで、秋には私が毎日のようにそれを作って食べさせた。外で会食があるような時は別だったが、それでもちょっと私のところによって、本当に外ではろくなものが食べられないなどとこぼして、コーヒーを飲んだり、大学やカルチャーセンターでの授業での問題を相談してきたりした。
エレーヌは極度の秘密主義者だったので、こうした私事は誰にも語らなかったし、語ったとしてもかなり断片的に、しかも歪曲して語っていたらしかった。病気になってから、彼女の話に出てくる人物たちの幾人かと出会うことになったが、そうしたエレーヌの秘密主義から生じた誤解や不審の念を通して、そういう人たちが私を見ているのをつよく感じた。エレーヌは、多くのフランス人たちのように、表面的には非常に友好的でも、本心はすさまじく批判的な見方をあらゆる人々にしていたので、こちらに語られる辛口のそうした話を通してエレーヌ世界の人物たちの像を作っていた私も、初めのうちは、かなりの偏見を通して彼らと接する他なかった。私はそういうことをあまり表に出さないように注意しながら接したつもりだが、エレーヌの病中と死後、こうした事柄はいちばん私が苦しんだことのひとつだった。
エレーヌの生徒だった何人かの年配の婦人からは、「なぜエレーヌさんと結婚しなかったんですか?」と詰問されるように問われたものだが、私にしてみれば、それはむしろエレーヌ自身に向けられるべき質問ですよ、と言いたかった。1980年代、私が結婚を望んだのに、エレーヌは拒み続けた。サルトルとボーボワールのようなamisの関係を望んだのは彼女だった。国家に書類を提出する結婚なるものへの嫌悪は、エレーヌには強かった。ふたりの関係は、ふたりがわかっていればいいだけのことで、外的形式を取るべきでもないし、他人に言うべきでもないし、すべてはふたりだけの秘密だというのがエレーヌの考え方だった。それは、若かった私にも魅力的と映らないこともなかった。
だから、私からすれば、「なぜエレーヌさんと結婚しなかったんですか?」と質問してくるような人というのは、エレーヌからそれだけの開示しかされていなかった人だと見えた。エレーヌと私の関係は、ごく数人のフランス人だけが知っていた。日本人の生徒や学生には一切明かされていなかった。そこにエレーヌという人間の謎もあれば、ある種の残酷さもあった。人間関係の彼女なりの徹底した管理ぶりがあった。病気になったり亡くなった後は、私がその被害を蒙った。この点では、じつは、私はずいぶん亡きエレーヌを責めた。もう少し私のことを話しておいてくれれば、いろいろなことがうまく行ったのに、と思った。
フランスの故郷のエレーヌの妹と私の関係は、エレーヌの死後、完全に崩れたが、これもエレーヌの説明不足のためだった。もともと理解力に偏りのある人物で、さほどの信者でもないながら、いざとなるとカトリックの倫理感や価値観に縋る人で、生前のエレーヌはこの妹を愛してはいたが、精神面ではどうにもならない人物として扱っていた。故郷に帰った時など、物珍しさから楽しんでいる私と違って、エレーヌは翌日から「もう発ちましょう、私は我慢できない、息ができなくなる」と、故郷の田舎町の雰囲気や、この妹の家族を嫌った。それでいて、誰に対しても、妹を悪くは言わないし、おそらく日本の自分の生徒たちには、故郷に行って楽しかった、などと話していたに違いない。これがエレーヌだった。私だけが、エレーヌのすべての面を見、あらゆる場面につきあい続けた。
故郷のこの妹、マリ=テレーズを、私たちはマリテと呼んでいたが、彼女は私がエレーヌと結婚しないことについて、ひどく恨みがましいことを言い続けた。エレーヌにも、どうして結婚しないの?と聞き続けていたらしいが、エレーヌは、私の自由を束縛したくないから、とかいろいろな理由を語り、結局、本音を語ることはなかったらしい。結婚もできずに、日本で孤独に死んでいくことになったエレーヌ、その原因は私にある…という理解にマリテの頭の中ではなったらしく、エレーヌ死後のいろいろな電話でのやりとりにおいて、私は非常に不愉快な会話を余儀なくされた。
あなたがたの家族主義をエレーヌは嫌悪していたんですよ、と私は言いたかったが、死後の数年間、見栄っ張りというか、少しでも紳士的に振る舞おうと努め過ぎたというか、ついにそう告げないままに済ましてしまった。客観的に見れば、エレーヌの病中にも葬儀にも、死後のさまざまな整理の際にも、ただの一度も、誰ひとりも、日本に来ることのなかった血縁者たちの非礼と非常識は覆い隠しようもない。フランス領事も、エレーヌの血縁者たちに関しては、「本当にフランスの恥です。フランス人として、日本の皆さんにお詫びとお礼を申し上げたい」と私に語ったものだったが、エレーヌの家族については私なりの分析と考察をずっと続けてきたので、いずれ、書き留めておきたいとは思っている。ただし、なかなか複雑で、きれいごとで済まない点が多く、どううまく表現するか、非常に思い悩むところがある。デュラスの世界そのもののような家族でもあり、アニー・エルノーの厳しい書き方がちょうどふさわしいと思うような家族でもある。
ひとつだけ記しておけば、エレーヌの母親は酷かった。エレーヌに勉強する必要はないと告げ、お前は一生私の傍で家事をするように生まれてきた、学校は行かなくていい、と言い続けた人物だった。
エレーヌは、中等教育のリセに入る前に、じつは一年間の空白がある。友だちたち皆に、通うことになるリセから通知が来るのに、エレーヌには来なかった。おかしく思ったエレーヌに、母は、お前は上の学校に行く必要はないから、私が断っておいた、と言う。ショックを受けたエレーヌはこの時、食事を拒否して、衰弱死することを選んだ。状態が本当に酷くなってきたので、父親が、来年から行かせるから、と取り成す。翌年、ロゼール県の県庁所在地のマンドのリセの寄宿寮に行くことになったエレーヌは、この時はじめて、家から離れるという至上の喜びを知ることになり、以後、二度と家に帰ることはなかった。学校が休みになるヴァカンスの時にさえ、家には戻らない場合が多かったという。大学はパリに決め、ごくたまにしか、確信犯的に家族の元には戻らない、徹底した反家族主義者エレーヌが生まれてくることになった。
もし妊娠したら?…という話は1980年代の私たちには、時どき出た話題だった。エレーヌの雰囲気を引く美しいハーフの娘を持つのを私は夢見た。しかし、エレーヌの答えはつねにかたくなで、すぐに中絶します、というものだった。自分が母になるのは絶対に嫌だ、断じて受け入れられない、いい母になる自信はない、私の母みたいになってしまうのではないかと不安だし…というのが理由だった。
一生涯、心の中で母と戦い続けてきた一面がエレーヌにあり、死が近くなっても、私はどうしても母を許せない…と私には語り続けていた。エレーヌがデュラスに没頭したのは、純粋に文学的な興味もあったには違いないが、デュラス世界のあの母親像に自分のそれを重ねていたのも確かだった。もう少し生き続けていれば、エレーヌ自身で自分の物語を紡ぎ出したことだろうと思う。
私だけがはっきりと知っていて、何度となくエレーヌと話しあったこんな話題が、本当にいっぱいある。どうにかうまくまとめたいと思うが、私の忙しすぎる生活の中では、なかなか時間を割くわけにもいかないでいる。
写真も多量にあって、このブログに掲載していないものも多過ぎるほどで、それらをここに出す必要もべつにないのだが、それでもできるだけは…と思いながら、日々が過ぎていく。
今日はひさしぶりに、少し写真を載せ、思うことをそのまま書いてみた。
下の写真は、すでに掲載したものもあるが、どれも1980年代、エレーヌと世田谷の池ノ上に住んでいた頃のものである。エレーヌが写っているということは、つねにそこにいっしょにいて、彼女を見続け、撮り続けていた私がいたということだから、そのまま私の個人史でもある。
今年の10月31日は、エレーヌ没後5年を迎える。
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