2014/05/11

生きること、魂によって生きること


(立教大学名誉教授加藤武氏の退職記念文集のため、「先生への深い問いかけを」と依頼された際のエレーヌの小文)

1984,5年頃、池ノ上の自宅で。



  エレーヌ・グルナック
    Hélène GRNAC


 先生への深い問いかけを、という依頼を受けたのですが、考えてみれば、これはじつに難しい依頼です。
 なぜかというと、本当の問いかけは、魂によって生きられたものでなければ無駄なものになってしまうからです。
 しかしながら、魂とは本当はなんなのでしょうか。
 そして、魂によって生きるとはなんなのでしょうか。
 そもそも、魂って実在するのでしょうか。それとも幻想に過ぎないのでしょうか。
 いずれにせよ、存在へのあまりに直接な切り込みには違いありませんから、私たちは日々、不安をかきたてるこれらの困難な質問から逃げて、生き続けているようです。
 しかし、自分にこうした問いかけをするのでなければ、存在者としてはなんの価値がありましょう。この問いかけの瞬間にこそ、生命そのものは私たちの心を揺さぶり、存在全体に溢れ出るのではなかったでしょうか。そして、各瞬間ごとに私たちは異なった新しい存在者となり……。
 このことについての先生との次の「討議」は、さあ、いつにいたしましょうか?




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解題

 駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)


 上の括弧内に記したように、親交のあった立教大学教授加藤武氏の退職を記念する文集のためにエレーヌが書いた小文である。「先生への深い問いかけを」と依頼され、それに答えてのものだった。依頼字数が決められていたため、本文には改行はないが、今回、改行と字句訂正を施してここに再録した。
 
 大学の哲学教員でアウグスチヌスの研究者だった加藤武氏の哲学の授業は、哲学史や哲学テーマの厳しい追及をするようなものではなく、どちらかというと美学方面に傾いたさまざまなテーマやテキストを使いながら学生たちの印象や感想、意見などを引き出していく柔軟なやり方を特色としていた。哲学の知識や関心の度合いにばらつきのある学生たちを集めての教養課程の授業においては、これもひとつのあり方であっただろう。授業外に研究室で森有正などの著作の読書会を継続し、一部の学生たちにはとても人気があった。学年や年齢の差をこえて加藤氏の下に集った学生たちは卒業後も関わりを持ち続け、大学における師弟と広い意味での教育や人間関係のあり方のひとつの理想を体現したといえよう。学生たちとともに近郊の観光地や展覧会などにも出かけ、彼らのあいだに新たな出会いを醸成する役わりも果たし続けた。
 1977年に留学で日本を訪れ、数年後に和光大学や立教大学で教えるようになったエレーヌにとっても、加藤氏は日本での人間関係の重要な軸となった。加藤氏は、日本滞在の初期のエレーヌの保証人でもあった。エレーヌは晩年まで、加藤氏がアウグスチヌスの論文をフランス語訳する際や、フランス語で手紙を書く必要がある場合に校閲や修正を請け負い続けた。

 ここに再録した「生きること、魂によって生きること」は、エレーヌがまずフランス語で書き、それを私が日本語訳したものである。ただ日本語訳しただけでなく、日本語をうまくは書けないエレーヌの口ぶりをいくらか残すように、いくらかたどたどしさを演出しておいた。エレーヌ自身がそう望み、あえてヘタな日本語にしておいてもらいたいと言われたのだが、退職記念の文集にあからさまにヘタな文を出すのもどうかということで、ヘタさ加減の調整にはけっこう手間取ったのを覚えている。
いま読み直すと、かなりニュートラルな文になっており、エレーヌの望みに抗って、結局、かなり普通の日本語文にしてしまったのがわかる。もちろん、エレーヌが書いた元のフランス語文はちゃんとした文なので、今にして思えば、むしろ、この訳文は原文のニュアンスを伝えていてよかった、ということになるかもしれない。

 原文のニュアンスを伝えるという以上に、この文は、エレーヌの考え方をとてもよく伝えている。プルーストやデュラスやカミュなどといった知的対象についてでなく、直接に、生きることや魂について触れているため、ものを感じたり考えたりする際のエレーヌの姿勢が非常にはっきり出ている。
 エレーヌは、だれかに「深い問いかけ」をするのは難しい、なぜなら、「本当の問いかけは、魂によって生きられたものでなければ無駄なものになってしまう」と始めているのだが、彼女はこの時、「魂」についての十全な定義が自分においてできていないことを知っており、「魂とは本当はなんなのでしょうか」と問う。ふつうなら、ここでしばらく留まって、過去の哲学者のもろもろの定義を思い出し、列挙し、共通点や差異などを指摘し、検討して…等々していくのが、もっともらしい考察の素振りをするということになるわけだが、エレーヌの特徴として、すぐに「そして、魂によって生きるとはなんなのでしょうか」という別の問いに踏み込んでいく。慎重な思索を求めようとするならば、これは、性急過ぎる危険な問いの積み上げとも、横滑りとも言われる他ないだろう。
そればかりではない。続けてすぐに「そもそも、魂って実在するのでしょうか。それとも幻想に過ぎないのでしょうか」と問う。これは、主語の属性を問うていた第一の問いを、主語の存在への問いに強引に変更する行為であり、現代の哲学科の思索においては許されない手続きであろう。問いの質が異なっているのだから、同じ思索の中で同列に扱うことはできない。
 もちろん、「魂」という問題をカフカにおける「城」のように、しかも、ドゥルーズやガタリが言うように「多数の入口」がある対象として見るならば(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『カフカ―マイナー文学のために』)、エレーヌはこの文で「魂」への複数の「入口」の存在を示唆しようとしたとも思われ、それらはどれも「入口」であることによって、エレーヌにとってはどれも同列でしかなかったとも捉えられうる。だからこそ、すぐに続けて「いずれにせよ」と思考の変換がなされ、提示されたいずれの問いにも深入りしていくのを回避しつつ、「不安をかきたてるこれらの困難な質問」への問いかけの重要さの確認こそへと舵が切られていくのである。

 「自分にこうして問いかけをするのでなければ、存在者としてはなんの価値がありましょう。この問いかけの瞬間にこそ、生命そのものは私たちの心を揺さぶり、存在全体に溢れ出るのではなかったでしょうか。そして、各瞬間ごとに私たちは異なった新しい存在者となり……」と、生や存在そのものをさえ変容させるかのような「問いかけ」の特権的な価値を称揚していくエレーヌの記述の高揚ぶりは、意地悪くいえば、ある種の俗流哲学の安手の「問いかけ」礼賛に通じていないでもなく、別の言い方をすれば、やはり安手の文学っぽさに通じていなくもない。エレーヌの思考にそうした俗流の部分があったのを私はよく知っているが、(…しかし、誰が「俗流」からすっかり脱し切っていられようか?なにかのテーマに時間を費やして深めた者は、そのゆえに他のテーマについては無知に留まらざるをえないし、全くの無知を脱するがために専門外のテーマについての概説書を読んでにわか勉強をすれば、つまりは「俗流」になるということである…)、俗流になり切っているわけでもなかったとも私は知っている。というのも、「問いかけ」という知的作業なしでも生や存在は展開し続けるはずであること(植物状態の人間に生や存在はなくなっているのか?等々)にエレーヌは意識的だったし、多量の神秘主義の書物やアントナン・アルトーの著作などの飽くなき継続的な読書から、意識なき生、知性や思考なき存在、さらには生や存在なき非〈無〉について、つねづね思い続けていたからである。

 「このことについての先生との次の『討議』は、さあ、いつにいたしましょうか?」
この結び方はいかにもエレーヌらしいし、たしかこの短い文において、エレーヌがいちばんこだわったところだった。「魂」や「存在」についての「問いかけ」を語る部分よりも、エレーヌにとってはこれこそ重要だったといっても大げさではないかもしれない。
彼女の多くの友人や学生たちが、このような口ぶりで「今度はいつ…?」とエレーヌに言われたことだろう。こう言う時のエレーヌの頭にあったのは、もちろん喫茶店やカフェで、ということで、彼女は、誰とであれ、とにかく喫茶店やカフェで、コーヒーを前にしながら「また」話す、「ふたたび」おしゃべりする、という思いを持つのを好んだし、大事にした。 
 場所を喫茶店やカフェに想定し、「次の『討議』は、さあ、いつにいたしましょうか?」という時、おそらく、エレーヌはいつも最高度の具体的かつ抽象的な自由を満喫していた。他人の家に行くのではなく、自分の家に他人を呼ぶのでもなく、誰の領域でもないカフェ、誰の権力圏でもありえないカフェほど、エレーヌにとって重要なトポスはなかった。カフェは、彼女にとって強いられた生の外部でもあれば、彼女自身の生そのものの甦る場所でもあった。
 こうしたカフェ好きは、パリ住まいの人々には共有されうるものだろう。パリの住人の多くが、カフェを重要な人生の場所として生活に組み込んでいる。その点では、エレーヌは10代最後から40歳頃までのパリ生活の核心部分を東京生活に持ち込んだとも言えるだろう。

彼女は日本を好んだが、しかし、日本びいきの外国人がよく陥るような日本趣味にならず、日本的な文物を集めて日本的に生活するということも全くしなかった。じつは、日本に留学してきた1977年から78年頃、はやくも彼女は日本語の系統的学習や練習を放棄し、日本をひどく懐かしく思うという不思議な強い感情を抱いたり、日本のある種の文物や事象(梅雨、豆腐、納豆、紫陽花、苔や湿った暗い庭など)に強い愛着を覚える一方、社会学的・制度的な研究対象としての日本にはさほど興味を持てないといった相反する自己の内的状態に苦しむことになる。パリに住もうとも東京に住もうとも、自分は自分を生きるにすぎないといった巧妙な合理化は日本留学の当初のエレーヌにはできず、日本にわざわざ来ている理由づけに悩み続けた。そんな彼女を救ったもののひとつに東京のあちこちの喫茶店があったのだが(その頃は、まだ「カフェ」というものは東京にはなかった)、たとえば毎日曜日の午前、住まいに近い井の頭線の池ノ上駅わきの喫茶店などに通い続けて読書し続けながら、しだいに内なるパリ暮らしを回復していったことが、その後30年に渡る東京暮らしを支える土台となったことなど、エレーヌについて今なお興味を持つ人たちは今さらながらに思い出しておいてもいいだろうと思う。



2014/05/04

2003年度の上智大学の学生たちの色紙

(エレーヌ・グルナックこんなこと 12)


 駿河 昌樹
   (Masaki SURUGA)


 エレーヌの蔵書の重要なものは、いまでも私がトランクルームに保持している。亡くなった翌年の2011年、取捨選択してなんとか30箱ほどにまとめた。
 箱詰めして以来開けたことのなかったそのうちの一箱を、先日4年ぶりに開けてみたら、彼女が2009年まで勤め続けてきた上智大学の学生たちからの色紙が見つかった。
 2003年度のフランス語科のフランス語口頭表現クラスの学生たちによるもので、作成されたのは2004年の1月の授業終了時期だろう。真ん中に、直訳すれば、「2003年にあなたの学生だったことはとても大きな喜びでした!」といったことが書かれていて、まわりには、学生ひとりひとりの感謝の言葉が書かれている。




 この色紙がエレーヌに贈られてから10年が経っているので、この時の学生たちももう30歳前後になっているだろう。どんな人生を歩んでいるだろうか、と思う。エレーヌが生きていれば、彼らと再会するのをずいぶん楽しんだに違いない。彼女は今年73歳になるはずだったので、定年で大学は退職しているわけだが、自分も学生たちもともに大学を離れて、ようやく本当に“友”として接することができると考えたのではないかと思う。
 このクラスの学生たちは、エレーヌが、この色紙を贈られた6年後の2010年に亡くなったことを知らないだろう。それでいいと思うし、できればあと20年ほど、そんな状態が続けばいいと思う。あの人のことだから、まだ元気だろうとか、なんとかやっているだろうとか、そんなふうに思い続けるというのも素晴らしい。

 大学でのエレーヌがどんな先生だったかは、クラスごとにも違うようだし、学校ごとにも違うようだし、なにより、時期によってもずいぶん違うように思える。とても厳しい、怒りっぽい先生だった時もあったらしいし、ユーモアに溢れた親しみやすい先生と映った時もあったらしい。
 教室でのエレーヌを私は見たことはないが、それでも脇から見ていたかぎりでは、1980年代や90年代のエレーヌは、ユーモアや包容力に溢れている一方、かなり厳しい先生のようだった。遅刻には厳格だったし、怠け者の学生には手厳しかった。会話練習の時に小さな声で答えるような学生や黙ってしまう学生を非常に嫌った。「日本人は内気なんだよ」と私が言うと、「聞こえないような小さな声で答えたり、黙っているのは失礼です。日本人だからといって、そんなことは許されない」と苛立っていた。外国人教師たちを一様に苛立たせる日本人ならではのコミュニケーション下手や曖昧さを、エレーヌも本当に嫌悪していた。
 フランス語が下手でも大きな声ではっきり答えてくるような学生のほうが、エレーヌには嬉しかったらしい。わかっているのかどうか、発音のぐあいはどうか、それがとにかくもはっきり教師側に伝わるからで、確かに、これがなくては語学教育のベースは整わない。
 逆に、エレーヌがいちばん嫌ったのは、いわゆる帰国子女のうちのフランス語口語がけっこうできる学生たちだった。他の学生が太刀打ちできないほどペラペラしゃべることができるものの、ていねいで正確なフランス語でしゃべることはできず、書くこともできないし、ましてや頭を使う必要のある文学作品や論説文をちゃんと読解することも十分にはできない。それなのに、フランス語については何も学ぶ必要はないと思い込んでいる。正面から「あなたのフランス語はぜんぜんダメです」と叱った学生も何人もいたらしい。授業を終えてきたエレーヌが、こうした学生たちに苛立っていつまでも怒っているさまを、私は何度も目にしている。

 21世紀に入ってからの10年ほどはずいぶん優しいユーモラスな先生になったようだったが、これには、じつは私が諄々と諭し続けた成果もあったのではないかとひそかに思っている(べつに、そんなことで自慢めいた気分に浸りたいわけではもちろんないが…)。
 世紀が変わる頃から、学生たちの質がどこの大学でもはっきりと低下し始めたとエレーヌは言っていた。態度も崩れたし、勉強もしなくなった。いろいろな学生がいるというような話では収まらないような、奇妙な変化が日本中で起こっているとエレーヌは感じとっていた。教育には非常にまじめで、それゆえに厳しかった彼女は、これまで通りの指導のしかたではあまりにうまく行かな過ぎると感じていた。大学の授業で感じる学生相手の大小のズレに悩むことが多くなったし、非常にやる気のある社会人たちとプルーストなどを読み続けるカルチャーセンターだけが救いだと、よく聞かされた。
 私がエレーヌに勧めたのは、もっと大学の授業を楽なモードでやるようにすれば?ということだった。日本人ならともかく、エレーヌは外国人なのだし、非常勤講師なのだし、日本の若者の生活指導や根性の叩き直しを大学で受けあう必要などない。日本の若者の雰囲気は、その親たちや小中高の指導によって大きく変えられてしまったのでもあるし、そもそも生活や学習の態度について規制力の働きづらい大学という場所で彼女ひとり孤軍奮闘する必要はない。出席も足りず、やる気も足りず、学力も十分でない学生なのに、就職が決まったからなんとか単位をやってくださいと大学が頼んでくるような社会になってしまった中では、教員は根本的にやり方を変える他ないと思うよ。そう勧め続けたのだった。
 日本人の教授たちや助教授たちには、適当に学生対応をして、適当に単位を出して茶を濁している者が多い。外国人教員たちは、自国での勉強の厳しさや受ける評価の厳しさを経験してきているから、基本的には学生たちに厳しく対応する。ここのギャップから苦しむ外国人教師たちは多かった。エレーヌの同僚や知りあいたちの意見も聞く機会があったが、外国人教師たちの誰もが、こんなことでは日本の将来は大変なことになるんじゃないか、と言っていた。確かに、大変なことになってきた…そう言っていいように思う。

 私は上智大学に関わりがないが、今年の4月、桜の満開の頃、この大学の脇の線路沿いの土手を歩いて花見をしてきた。ちょうどいい機会なので、上智大学の教会や大学構内にも立ち寄ってみた。
 この大学はずいぶんと小さいので、構内全体をまわるのには苦労しなかったが、ここに毎週エレーヌは通い続けたのか、門から入って、おそらくこの棟に入って、…と思いながら、ゆっくり見てまわった。
 大学の門を出てからも、駅までの距離を漠然と目測したり、信号待ちをしてみたりして、エレーヌの中に染み込んでいた風景を、また新たに取り入れようとしてみていた。





2013/10/27

エレーヌ・グルナック逝って3年




パリで

故郷サン=シェリー・ダプシェの家族の墓の前で。
エレーヌ自身の遺骨もここに埋葬された。





 駿河 昌樹 
 (MasakiSURUGA)                                   



 エレーヌ・グルナックが逝って、今年20131031日でちょうど3年が経つことになる。


 仏教的な「三回忌」という言い方は、あえて、しないでおきたい。
日本人は「三回忌」というような表現に慣れていて、うっかり口に出しがちだし、エレーヌも仏教にはとても興味があったが(死ぬ間際まで、道元や空海に関心があった)、しかし、あまりに多くの宗教や心霊関係のさまざまに興味があり過ぎたがために、仏教だけを選ぶということはできなかったし、日本のほうがフランスなどより遥かに肌に合っていたとはいえ(だいたい、彼女は最後の10年ほどをフランスに帰らなかったし、文学や思想や芸術面を除いて、フランスへの興味を完全に失っていた…)、日本人的なあり方にぴったり自分を重ねようともしなかったので、「3年目だ」とか、「もう3年が経つのか」とか、そんなシンプルな言い方のほうがよいように感じる。日本ふうの言い方や仏教ふうの言い方を避けるというわけではなく、そうした表現を受け入れた瞬間に他のものにむけて思いを閉じてしまう感じ、特定のかたちを成して他のものをそれとなく排除してしまうような雰囲気、そういったものをエレーヌがことのほか嫌ったことを忘れないでおこうと思うのだ。


2011年も2012年も、1031日には、エレーヌゆかりの散歩をしてみた。彼女が亡くなった東京医療センター(目黒区だが、駒沢公園のすぐ隣り)の産婦人科病棟に行って、そこから三軒茶屋まで歩き、さらに代田1-7-14の彼女の家まで歩く。そうして、エレーヌがよく行った近くのガストでなにか食べてみる。あるいは、三軒茶屋で食べてみる。そんなふうにして、エレーヌの最後の10年ほどのあいだの時間に戻って、思い出の湧くのに任せてみようとした。
今年2013年は、10月末から11月まで個人的に忙しいので、こうしたエレーヌ散歩ができないが、ちょっと日をずらして、同じようなエレーヌ巡礼を、やはり、やってみようと思っている。


エレーヌのことを、彼女の馴染んだ地を訪ねながら思い出したいと思っている人には、エレーヌが長く住んだ世田谷区代田、よく買い物に出た下北沢、三軒茶屋、道としては代田から下北沢までの道や途中の北沢川緑道(春は桜がすばらしいので、エレーヌは桜道と呼んでいた)、三軒茶屋から代田までの茶沢通りや、代沢十字路のサミットを曲がって家に到るまでの淡島通りあたりが、もっともエレーヌらしい場所としておススメできる。
もちろん、10年ほど住んだ世田谷区北沢1124の池ノ上の二階建ての住まいや、なにかといえば歩きまわった渋谷、それも特に東急プラザの紀伊国屋書店や若林折返所行きのバス停、同じように新宿の到るところ、特に新旧の紀伊国屋書店、新宿郵便局近くのかつてのフランス図書あたり、野良猫の保護などで馴染みになった豪徳寺あたり、長いことフランス語やフランス文学を講じた横浜朝日カルチャーセンター、新宿朝日カルチャーセンター、藤沢の慶應大学SFC、四ツ谷の上智大学、池袋の立教大学、駒場の東京大学、少し古いところでは、鶴川の和光大学や品川の旧東京水産大学などもある。映画館に到っては…、彼女が出没しなかったところはない。ロードショー館ばかりか、たいていの名画座にも通っていたので、エレーヌより先に逝ってしまった映画館もいっぱいだ。
エレーヌがヨガを指導していた大船(と藤沢のあいだ)の長福寺も、エレーヌ自身の霊にとってなじみ深いところだろう。


逝った人を思い出すのには、心の中だけで十分という考え方もある。もっともだと思うが、実際の場所というのが、やはり、思い出しの強力なスイッチの役割をするのも事実だ。あそこをあんなふうにして歩いていた、あそこに凭れかかっていた、あそこでなにか食べていた、などという記憶が、場所によってつよく呼び起されることも多い。場所には、過ぎ去った(と一般には思い込まれがちな)時間のあれこれもぴったりとこびり付いていて、そこに行くと、それらが立ち上がってくる。過ぎ去ってなどいない現在そのもののように。時間をどう考えるか、これもさまざまだが、過去や現在や未来という便宜上の区分けはどうやら正しいわけでもないと、そんな時には思わされる。


逝った人を思い出し供養するのが望ましいし、そうするのは当然のことだという考え方は、日本人には馴染みがあるものの、いや、思い出す必要はない、生きている人は生きている自分の生活に集中すればいいのだ、という考え方もある。
そう考える人が、エレーヌについてのこの文を見ることは殆どないだろうが、そういう考え方もありだろうと思う。さびしい態度でもないし、合理的かもしれない。むしろ、正確でもあるかもしれない。というのも、死者を思い出すといっても、思いの中に現われるのはこちらの持っている記憶や好みから作り上げられたイメージなので、けっして死者自身でなどないのだから。勝手なイメージを作り出したり、保とうとし続けたりするほうが、よほど死者とのつながりを妨げるのかもしれない。だいたい、死者は死を経て、すでに生前の性格や方向性から解放されているはずなのだ。生前のイメージや生前の情報から得られた“その人らしさ”に死者を固定し続けることほどの冒涜は、本当はないのかもしれない。
しかも、古今東西の宗教的思考のうちでも、最高峰のものがつねに提示してくるように、けっきょく、生も死もたいしたことではない、それらに縛られるな、といった助言を思い出せば、死者を「死んだ」と思うことさえ、大いに間違った態度かもしれない。
少なくとも、エレーヌ自身は、これに近い考え方をしていた。


以前にも少し書いたと思うが、エレーヌが死んだ時、わたしに言い残されたエレーヌの遺言めいた言葉に、あえて従わなかった部分が、じつはある。
ひとつは、誰にも死を教えないでほしいということ。
また、葬式をしないでほしいということ。小さな葬式をしたとしても、誰も呼ばないでほしいということ。
また、墓はいらないということ。どこか「そのへんに」骨を捨ててほしいということ…
葬儀をしない?誰にも死を伝えない?
…とんでもない、とわたしは思った。エレーヌがそこそこ幸せに日本で生きられたのは、彼女の友だちや学生たち、同僚たちがいてくれたからだし、まさしく日本人的に親切に接してくれたからではないか。北原白秋の『からたちの花』の歌詞ではないが、エレーヌを取り巻いていた日本人たちは、「みんなみんなやさしかったよ」なのではないか。死の時に臨んで、そういう人びとにちゃんと報告し、できれば別れに出向いてもらって、それなりのけじめをつけるべきではないか。
こう判断したので、わたしはこの点について、エレーヌの遺志を修正した。なんでも故人の遺志を尊重するというわけにはいかないのだ。けっきょく、わたしはなるべく多くの人に死を知らせることにし、葬儀の日時も知らせようと努めたし、葬式は小さなものどころか、100人以上が集ったそれなりの規模のものになりもした。
墓はいらないから「そのへんに」骨を…という要望も、エレーヌの身勝手な妄想からきているものと判断して、無視した。だいたい、「そのへんに」という要望とともにエレーヌが望んだ提案は、できればエベレストの上に骨を撒いてほしいとか、それが無理ならアルプス山系のどこかとか、ロッキーとか、富士山の頂上でもいいとかいうもので、ずいぶんとトンデモな要求ばかりだった。エレーヌにこういう突飛なところがあったのは、そろそろ、知人たちに知らせてもかわまないだろうと思う。
わたしとしては、都内や近辺に墓を作ったり、うちの墓に入れたりしようとも考えたが、彼女の死後4カ月して、まるで日本の守りがエレーヌの旅立ちとともに壊れたかのように東北の大地震と福島原発事故が起こったため、都内にエレーヌの墓を作ったりしたら、将来、放射能汚染のために墓参りにさえ来れなくなるのではないかと危ぶんだ。そのため、フランスの故郷の家族の墓地に送るほうがよいだろうと思うようになったが、ちょうど、故郷の妹が遺骨の返還を強行に要求してきてもいたので、(エレーヌの病気や死に関してなにもしなかったこの妹が…という思いに、当時はずいぶん苛立たされたが…)、これ幸いとばかりに、フランス領事を通じて移送した。
こんな後日談も、まだ語り尽くしていないエピソードもいっぱいあるが、忙しさの合間を見つけて、今後、記せる時には記しておきたいものと思う。


彼女は死の時まで、あらゆる宗教や心霊関係の蔵書を手放さなかったが、晩年の2年ほどの間、宗教的な関心としては、お馴染のクリシュナムルティ、空海、道元、イスラム神秘主義、キリスト教神秘主義、中国の宗教思想、シャーマニズム、ネイティヴ・アメリカンの宗教・世界観、女性魔術師や女性神秘家などに主に向かっていた。これらに関しての多量の本は、今もわたしの手もとに残されている。
他方、日々の“信仰”的行為としては、日本神道の感謝礼拝をするのを旨としていた。毎日、水を供えて天照大御神に礼拝し、また、線香を焚いて先祖への感謝礼拝をしていた。これはわたしが勧めたものだが、一切の頼みごとをせず、ただ〈在ること〉への感謝だけをする神道の礼拝のしかたを最上のものとして受け入れていた。
キリスト教的な枠組みから外れたかたちで、イエスと聖母マリアに親しんでもいた。2009年から2010年、とりわけ死の近い頃によく聞かされたのは、イエスとマリアがたびたびエレーヌを見舞ったという話だ。病院に見舞いに行った際、エレーヌとふたりだけになると、彼女は入院中の病室のカーテンの隙間を指さして、「昨夜、イエスがそこに来て、黙ってわたしを見続けていた」といった話をよくした。ふつうには妄想とか幻想とのみ受け取られるたぐいの話だろうが、30年間をいっしょに神秘修行に費やしてきたわたしとエレーヌの間では、十分に意味のある話だった。
もちろん、重病のさなかのエレーヌが見た幻想にすぎないのでは、という疑いを挟まなかったわけではないが、マリア像の不可思議な移動現象がこの頃実際に起こっていたり、わたし自身の力でエレーヌの腹水を心霊治療し得たことなどもあって、世間一般の心霊現象否定の立場を採らずに、わたしはエレーヌの病気と死に関するいろいろな現象を今でも再考し続けている。


エレーヌの遺骨はフランスの故郷ロゼール県に送られ、サン=シェリー・ダプシェの墓地のグルナック家の墓に埋葬された。
が、重要部分の骨は、じつは都内のわたしの手もとに安置されており、毎日礼拝を欠かさないでいる。エレーヌ自身から手渡された髪の毛も、同様に手もとにある。
エレーヌが物質的にすっかり日本を離れてしまったと思っている人には、だから、思いを改めてもらってよい。


エレーヌは、生きていれば71歳になる。1122日の誕生日には72歳になるはずだった。
しかし、70を越えた身体で生き続けるのを望んだとは、やはり思えない。なにごとにも軽さと簡素さを望んだ彼女のことだし、なによりも健康維持を求めていたのを思えば、老いていく身体や病んだ身体から早々に去るのは彼女らしい選択だったとも思える。最後の2年ほどを重病とともに生きたとはいえ、なんといってもそれまでの66年ほどの間、まったく病気らしい病気もせずに、わがままに身体を酷使し続けた生涯だったのだ。



1983年頃、池ノ上の自宅で。

ブルターニュの小さな教会で。







2013/10/19

10月20日前後とエレーヌ

                            

   (エレーヌ・グルナック こんなこと 11)








 
 駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)


 10月に入ると、エレーヌ・グルナックのことがいっそう多く思われる。今生で長いつきあいだったので、どの季節も思い出でいっぱいだし、晩年の2年ほどの闘病期間だけが浮かんでくるわけではもちろんないのだが、1031日に亡くなる前のひと月ほどのあいだは、やはりたくさんのことが凝縮して押し寄せてきていた。
このところ、エレーヌをめぐる文章をここに掲載しなくなっているが、どれほどひとつのテーマを絞って短く書こうとしても、他のいろいろな事柄にたちまち思いも記述も広がっていくので、纏めるのに窮するためだ。軽く短く書けばいいとは思いつつ、短くも軽くもなってくれない。
病中だけでなく、誰よりも健康だった頃のエレーヌの数十年の無数の姿やエピソードの数々も、切れ目もなく際限なく押し寄せ続けるので、なにか一言言ったり書き記したりしようものなら、まとまりがつかなくなる。


 すでになんども書いたが、2010年の1020日(水)にエレーヌ・グルナックは再入院した。末期ガンから来る重度の腹水や浮腫が奇跡的に収まって8月末に退院しており、自宅でリハビリを続けながら療養していたが、10月に入ってから急速な衰弱が襲ってきていた。1012日の私の手帳には「エレーヌ、起き上がりや歩行困難。浮腫や硬直のためか。リハビリのための足の運動のやり過ぎ?ストレッチの手抜きのためか?」とのメモがある。翌日、13日には介護施設より介護ベッドが届いている。
 十日後の30日(土)には台風14号が東京に接近し、交通機関のストップもあって大荒れになり、誰も病院にエレーヌを見舞いに行けなくなった。この日のエレーヌの状態はブログの他のページに記してある。非常な疲れを感じ、傾眠が生じていたらしい。食事はいつも通りに多少とったという。31日の3時頃から意識を失い、710分に亡くなることになったのは周知のとおりである。


 死去の年の一年前、2009年の1020日(火)のことも思い出しておこう。この日には、公証役場でエレーヌの遺言公正証書を作成し終えている。
この年の6月に末期ガン宣告をされたものの、抗がん剤が一応(表面的にも)功を奏して驚異的な回復をし、仕事もそのまま継続していた頃である。遺言状作成は、手術を前にしての万が一のための準備のためだった。
公証役場では一悶着あった。
エレーヌは複数の銀行に生活資金の預金を置いていたが、万が一の場合それらを私が相続し、整理や支払いなどを担うことになる。しかし、三菱UFJ銀行の場合だけは相続手続きが極めて困難で、日本人の家族に対しても三代前からの戸籍確認を求められる。そのため、全国で紛争が起こっているとの情報を、特別に公証人が教えてくれた。エレーヌの場合、両親がチェコやポーランドからフランスに移住した家族であり、すでに両親が死去していて、長兄や長姉も他界していて祖父母の関係について知る者が皆無となっている以上、三代前まで遡るのは至難のわざである。まして、第二次大戦の戦禍で祖父母の地の家族情報はすっかり失われたか、混乱したままになってしまっている。不可能ではないまでも、チェコ語やポーランド語で私が戸籍を取りよせなければならなくなるのか、と思うと、気が遠くなるようだった。
公証人は好意からこの点を教えてくれ、できればUFJからは預金を早急に移動させたほうがよいとアドバイスしてくれた。
これに対して、エレーヌが激怒したのである。公証人や、来てもらった証人ふたりを前にして、エレーヌは、遺言証書に署名などしないと突っぱねた。預金してあるのは自分のお金だというのに、それを自由に使わせないような理不尽な銀行を野放しにしておく日本という国は何なのだ、と怒った。そうして、なんでそういう情報をもっとはやく言ってくれないのか、と公証人をなじった。
30分ほどは膠着状態となり、私はエレーヌの説得にかかりきりになった。遺言証書への署名を拒むことで損をするのはエレーヌ自身であること、さらに言えば、UFJの預金も動かせないまま、一切の整理や処理をせざるをえなくなる私こそが最大の被害者となること等などを言い聞かせ、ようやく署名させたものの、公証役場を出るまで、エレーヌはもうニコリともせず、公証人に目も合わせず、挨拶さえしなかった。「性格もあるし、重病で気分も疲れているのもあるので、あんな態度で申し訳ない」と公証人に私が頭を下げ続けたが、公証人もさばけた人で、「いやあ、実際、ひどい銀行なんですよ。それにこの国もひどい。怒るのは当然です。でも、怒っても現実というのは動かせないから…」といったことを言ってくれた。


公証役場でのこのような出来事は、じつは日常茶飯事だった。エレーヌは本当に年中怒っている人間で、いっしょにいる時には、私はたびたび仲介役をやらざるを得なかった。亡くなってから、葬儀などの場面でお会いしたエレーヌの生徒さんたちや、お茶友だちだったような人たちには見えていない場合が多かったようだが。
闘病の際に手伝ってくれた人たちは、さすがに、エレーヌのこうした面にも付き合わざるをえなかった。タクシーで医療機関などに出向く際など、いろいろな人たちがエレーヌに付き添ってくれたが、道のよくわからないタクシー運転手や煙草くさいタクシーには癇癪が爆発することが少なくなかったし、ブツブツと不平や批判を言い続けることもあった。「タクシーはいっぱいあるから、それじゃ、降りよう。次に来るのに乗ろう」ときつくエレーヌに言うと、目が覚めたようにようやくハッとなって、「私が言い過ぎた」と静かになった。


ついでに1979年の1021日のことも思い出しておきたい。
34年前のこの日、私ははじめてエレーヌと出会った。ある哲学教授と学生たちが集まって、秋の一日、鎌倉散歩を行ったことがあったが、エレーヌは、他のフランス人とともに、そこにひょいとやってきたのだった。
背の低い、鼻のやけに高いフランス人女性だと思っただけで、特別な印象は受けなかった。ただ、政治や平和問題について話した時に、核軍備は絶対に必要であると主張し、アメリカの核の傘の下にいる日本が平和国家を自称するのは矛盾していておかしいと、この「エレーヌさん」は言っていた。当時、やはり日本の右傾化が危険視され、その問題にも思うところ多かった私は、小さなフランス女のこうした発言にあまり心穏やかではなかった。
この時の初対面の印象はこれだけで、エレーヌに特別関心もわかず、4年間はなんの音沙汰もなく過ぎることになる。


言っても誰も信じないだろうし、信じられない人たちといまさら付き合う気もないが、1983年の3月のある日、目が覚めようとしていた時、半醒半夢の中で、私は突然、「エレーヌさんに電話しろ」という男の声を聞いた。
エレーヌのことなど、まるまる4年間は忘却していたので、なにより私自身が不思議でもあり、不審にも思った。下らない夢を見たものだともちろん思ったが、そういえば「エレーヌさん」の電話など控えていたっけ?と思い、4年前の手帳のページを繰ると、どういうわけか、メモがあった。まだ日本にいるのだろうか、どうしているんだろう、などと思い、電話だけでもしてみるかと、家の黒電話でダイヤルした(当時は、子機などなく、携帯電話もスマホもなかった)。
なにを話すでもなく、それでは喫茶店で雑談でもしましょうか、ということで、4月のある日、新宿の紀伊国屋で待ちあわせをすることを決めたが、そこから互いの人生が変わるすべてが始まることになったものだった。








2013/07/20

エレーヌの闘病を記録したフォトサイト

   (エレーヌ・グルナック こんなこと 10)



le 23 juillet 2010


 駿河 昌樹
  (Masaki SURUGA)

  
   2009年から2010年、エレーヌの闘病中、フランスの親族に状況を伝える一環として、ネット上のフォトサイトPhotobucketにある程度の数の写真を掲載し続けた。

 当時、エレーヌとどこの医療機関に行くにもカメラを携えて動き、それ自体なかなか面倒な作業となったが、彼女の親族に現状を伝えて、しかるべき行動を促すためには必要な措置であると考えていた。

 この時に使用していたPhotobucketへのリンクをここに載せておく。日本のエレーヌの友人たちにも、病中のエレーヌの姿をふつうに見てもらってもよい頃になったと考える。
 http://s852.photobucket.com/user/MasakiS/library/?sort=3&page=0

 このフォトサイトの写真は、エレーヌの親族によってかなり熱心に見られていたが、エレーヌの体調が悪化していった時点で、故郷の妹から病気のエレーヌの状態を見たくないとのメールが来た。
  私は自分の生活時間を大きく削って、写真ばかりでなく、数日おきにメールで病状報告をフランスの全親族と友人たちに送り続けていたが、この身勝手なメールには激怒させられた。東京ではエレーヌの友人たちだけが彼女を支えているというのに、血のつながった親族がなにを言うのか。若くない兄や姉妹に対して、遠い日本に来てすべてをやれとまでは望まないにしても、数多いエレーヌの甥や姪のひとりぐらい、様子を見に来てもいいのではないか。

 病気のエレーヌの精神状態にあまり影響を与えないように、こういう親族たちをそのまま「泳がす」ことにしたが、妹からのこの発言を機会に、私は病状報告や写真の掲載をあえて減らすことにした。エレーヌの病気の現状からは目をそらし、それでいてエレーヌ自身には「元気になって。わかっているだろうけれど、誰よりも愛しているから」との電話をしてくるような親族たちについての私の認識も、彼らへの対応も、これを境に、大きな変化を強いられることになった。

 フランスの親族は、ついに闘病中も、葬儀にも、死後のさまざまな整理の間にも来日しなかった。現在の私は、彼らになんの困惑も怒りも感じず、人間というものの多様な振舞いかたの一例を思わされるばかりである。

 彼らのひとりひとりをよく知っている私としては、他ならぬ私に、エレーヌのすべてを先ずは任せるのが最良、との考えを彼らが持っていただろうと思う一方、そういう考えをたくみに隠れ蓑として利用しつつ、面倒なことは他人にしっかり押しつけるという見事な振舞いかたをしたのだとも思う。
 はじめから彼らのこうした目算をほぼ見抜いていて、ひたすら「泳が」せ、人間の醜さをいつもながらに観察するのを楽しんだ人間喜劇好きの私も、それなりの振舞いかたをしたことにはなるかもしれないが…

 エレーヌの親族のような振舞いはどこの国でも見られる人間模様で、こういう振舞いかたに秀でた人間には事欠かないのがこの世というものには違いないが、それにしてもフランス人には、ことの他こういう者たちが多いナァ、…
 …とここで呟いてしまえば、はたして、言い過ぎということになるだろうか…

 在東京フランス領事は、エレーヌの親族について、このように私に語ったものだった。
 「フランスの代表としてお伝えしたいのですが、日本の友人の方々には本当にお世話になりました。この親族というのは…、まったくフランスの恥です…」

 これを思い出せば、もちろん、フランス人全般に話をひろげて考えるべきではないだろうとは思われるのだが…

 






2013/04/14

2010年7月9日のエレーヌ

(エレーヌ・グルナック こんなこと 9)


愛猫ミミ。ベッドがわりの座布団の上で。1994年。


      

  駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)


  入院中の201079日のエレーヌをとらえた短い映像をアップした。駒沢公園わきの東京医療センターの病室である。

 ちょうど衰弱のひどかった頃で、すでに抗がん剤治療はストップし、他の補完的な治療も停止していた。いつ死んでもおかしくないと見えた。せめて、わずかでも映像に残しておこうと思い、撮った。

 数週間前までは、瀬田クリニックでの免疫治療や健康増進クリニックでの高濃度ビタミンC治療などにタクシーで出かけていたが、まったく歩行ができなくなり、しかも、静脈注射をくりかえしてきていた血管が扁平になって、注射針が入りづらくなってしまっていた。
 溜まり続ける多量の腹水を毎日のようにとり(日に2000から3000ccほどとることが多かった)、胸水も溜まりはじめていた。治療めいたものとしては、かろうじてアルブミン点滴だけ。それで、腹水を抑えようとしていた。

 痛々しい映像ではあるが、すでに3年が経とうとしていて、エレーヌのことに興味をもつ人びともそろそろ減ってきた頃あいだろうと考えてのアップである。

 いまだにネットを検索して、わざわざエレーヌについて何ごとかをさがし続けようという人びとにのみ、この映像は向けられている。
そういう人びとにとっては、エレーヌにかかわるすべてが、彼女をさらに知る上での貴重な資料ともなり、じぶんと彼女とのかかわりを考え直すためのよすがともなりうるだろう。また、彼女のことを忘れはしないながらも、闘病や死の生々しさはさすがに薄れた頃だろうから、これまで出さなかったものを、今になっていくらか提供していこうかと考えた。
変動のはげしい時代に入っているので、こちらが保存しているデータ類も、いつ失われるか知れない。ネット上にアップしたり、少しずつでもクラウドに移したりしておくべき頃あいだろうと考えている。

 エレーヌはフランスの中央山塊に生れたひとりの女だったが、そういう彼女が、流れ着くようにしてやってきた東京で、フランス語やフランス文学を教え続けて死んでいった。そうしたひとつの生き方を見直し、検討していこうとの考えから、このブログは、じつは設けられた。彼女を偲び、記念し、思い出を集めていこうとの意図は、はじめからカモフラージュにすぎなかった。
すでに没後3年が経とうとする現在、エレーヌは社会的にも単なるひとりの人間であるのをやめて、始点と終点を持つひとつの人生の物語として扱われるべき対象となった、と考えている。

エレーヌへの思いの薄い人びと、興味本位だけの人びと、にもかかわらず、死に際してなにかと自己主張してくるような人びとがまつわりついてくるのを、3年という時間の経過によって削ぎ落そうとした。

彼女の死後、しばらくは、われこそがエレーヌの理解者、われこそがエレーヌの友と自称するたくさんの人びとによって不快な思いをさせられた。人びとにそう思わせる魔力のようなものが、エレーヌにはあったらしい。
いま、そういった人びとはどこへ行ってしまったか。けっきょく、彼らはなにをしたのか、しなかったのか。
 そういう人びとのひとりひとりの言動の蒐集も、エレーヌ研究の一部だった。3年間、黙って彼らの言動も集め続けた。彼らがしたこと、しなかったこと、そのすべてが、厖大な資料として、今、手もとにある。

 彼女の闘病中も、死の時も、ついに一度として来日せず、なにもしなかったフランスの血縁者たちについては、とりわけ、検討し直し、書くべきことが多いだろう。
故郷の墓地への遺骨移送の際、みずから労をとってくれた在東京フランス領事フィリップ・マルタン氏でさえ、エレーヌの血縁者たちについて、「ほんとうにフランスの恥です」と語ったものだったが、エレーヌ物語の登場人物たちであるそういう血縁者たちひとりひとりを検討し直すのは、率直にいって、なかなか楽しい作業だと言っておきたい。

フィクションは一切交ぜないが、エレーヌをめぐる物語世界にいっそう踏み込んでいくということになろう。




動画のエレーヌをYouTubeに

(エレーヌ・グルナック こんなこと 8)


愛猫ミミ。定位置の窓際の座布団の上で。1998年。

                         
                                   
  駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)



 2009年6月7日のエレーヌ。
 その姿をとらえた短いビデオをアップした。



 はじめて抗がん剤治療を受ける前夜、持っていた小さなデジカメで撮影したビデオだ。生前のエレーヌを動画でとらえた貴重な映像となった。

 抗がん剤治療による副作用は、エレーヌの場合意外に少なかったが、それでも髪の毛はほとんど失うことになった。後で生え直し出してきたものの、すっかり元に戻る前に亡くなったので、ふつうに髪のある状態の最後の頃の姿でもある。
  ずいぶん黒い髪をしているが、これは、発病直前に本人が望んで美容室で染めた色だった。もともとブラウンの色の髪のエレーヌは、年齢とともに白髪になったが、黒く染めたことは生涯に一度もなかった。美容室で勧められでもしたのかと思ったが、亡くなった後、行きつけだった美容室で聞くと、エレーヌ自身が染料を持ちこんで染めたものだったという。発病前には、すこし奇異な行動がいくつか見られたが、そのうちのひとつと言えるかもしれない。

 
 エレーヌはビデオで撮られるのを嫌ったので、撮れた映像は、ほんの少しの短いものにすぎない。ビデオの中で、現に、撮らないでほしい、とこちらに言っている。
 しかし、末期ガンと宣告されており、治療をしないと3カ月しか余命がないとも告げられていたので、こちらとしては全く映さないというわけにもいかない気持ちになっていた。
 それまで30年近くにわたってエレーヌを写真に記録してきたが、それとはべつの思いで写真に残すようにもなった。
 悲観視ばかりしていたわけでもない。
 誰よりも頑健だったエレーヌのことなので、ガンの治療など乗り切るだろうとも思えた。彼女の治療と療養がうまくいったら、その時には、大変だった頃の思い出として本人に見てもらおうとも思っていた。

 このビデオには、エレーヌの当時の家の中の一部の様子も撮影されている。勉強や調べもの、さらには毎日のヨガをするのに使った書斎がわりの6畳部屋。そして台所の様子が収められている。
 本や書類などで雑然とした書斎部屋の様子は、エレーヌ宅の特徴をなすものだった。
 家の中を小ぎれいに整えて、そこで生活を楽しむといった考えを全くもっておらず、その時々に興味のあるテーマを中心とした書籍、ビデオ、DVDなどが積み重ねられ、仕事関係の書類やテキストがそのわきに積み重ねられるというぐあいだった。家というより、仕事場や学び続ける学生の下宿に一生涯住み続けたようなところがある。
 ヨガの指導もしていたエレーヌだが、彼女自身の日々のヨガは、すべて、台所から入ってすぐの場所の、この部屋のわずかな畳スペースの上でのみ行われていた。

 家の中が、どうしてこのように、雑然としたままにされていたのか。 

 ふつうの家庭に見られるような居間の整え方を、エレーヌが嫌っていたということもある。
 友人や知りあいの家に行った際、小ぎれいな居間のしつらえを見ると、エレーヌはよく、窒息するような思いに苛まれた。
 家庭や家族というものにすっかり幽閉され、その中での妻や母という位置づけに安住した女性のありかたを本心から哀れんでいた。もちろん、彼女はそんなことを相手には言わない。すてきな家だ、きれいなサロンだ、と褒めて帰って来る。しかし、エレーヌが、内心、どれほど家族や家庭に関するすべてを忌み嫌っていたか、これは、ほとんど激越と言えるほどのレベルだった。
 かといって、エレーヌは、大学の研究室や廊下などに見られるような味気ないグレーや白の冷たいコンクリート空間も嫌った。どんな場合にも、彼女がもっとも嫌悪するのが役所という空間だったが、少しでもそれに通じる雰囲気のある場所については、いつも、顔をしかめながら語ったものだった。
 
 映像の中で、パソコンの後ろの書棚に、桜の風呂敷のかかったものが置かれているのが見られる。これは、平成16年に死んだ愛猫ミミの遺骨である。いずれ、自然の野山のどこかに埋めにいくか、ペットの墓でも作って安置しようかなどと考えながら、なかなか決められないまま、エレーヌ自身の死まで、7年もこのように書架に置かれ続けることになった。
 書斎の奥の窓際には、猫のための座布団が置かれている。ミミが生きていた頃の定席だったが、死んでからは他の猫がここで寝るようになった。エレーヌが病気になった頃は、「マリちゃん」というふくよかな丸々したきれいな外猫が夜にここに戻ってきて、寝るようになっていた。
 テレビの後ろの壁には、私の友だった歌人、書家の坂本久美から購入した書が二点かかっている。この友も、2009年時点ではすでにガンで死去していた。
 映像の終わり近くには台所の様子が見られるが、ガス台の上にはタオルが吊るされ、ガス台はものを置く台のようになっている。エレーヌらしい懐かしい情景だが、むしろ、これこそがエレーヌだった、とさえ言えそうに思う。最後の数年はあまり料理をせず、ガス台はまれにしか使っていなかった。ガスの真上にタオルをかけてあるのは、それをよく示している。お湯も電気自動湯沸かし器で作っていた。

 これを撮影してからすでに4年近く経ち、エレーヌ自身はもちろんだが、この映像に見られるエレーヌの家の中の情景もすっかり消滅してしまっている。あたりまえのことで、これについて特別な感慨があるわけではない。しかし、見るたびにいろいろな思いが湧き、思い出す中での発見というものもある。

 エレーヌが亡くなってからは3年になろうとしており、今年の10月31日でいわゆる三回忌となる。
 エレーヌのことを思い出す人たちも、もう、少なくなってきただろうか。
 ネット上でエレーヌ自身に興味をむける人たちも、そろそろ減っていく頃あいだろうか。
 エレーヌという人格はだんだんと個人性を失い、さらに失い続け、ネットでこのサイトを偶然に目にした人がいたとしても、こんな人もいたのかという程度の扱いをされる時期に入ってきているかもしれない。
 これは、しかし、エレーヌのことを思い出し続ける人びとにとっては、よい時期に入ってきたとも言えそうに思える。彼女がどんどん忘れられていけば、むしろ、いっそう個人的な話や資料が公然とネット上に保管されることが可能になる。
 エレーヌとは誰だったのか、何だったのかとの、さらに多面的な検討に、いよいよ入っていけるように思う。