2016/01/08

エレーヌの元婚約者のことなど


  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA) 


  エレーヌと暮らしていた頃、元日は、近くの下北沢や渋谷に歩きに出たりした。
  しかし、今と違って元日には店の多くは休んでいて、ちょっとなにか外で食べるにも苦労するし、ろくな喫茶店もないしで、結局、日が暮れてからロッテリアあたりに入って、つまらないものを食べることがあった。ハンバーガーを食べるが、これが旨くない。コーヒーも不味くて、「ピピ・ド・シャ」だと、よくエレーヌは言った。これは「猫のおしっこ」という意味で、不味い飲み物のことを言う。
 まわりを見まわすと、金まわりの悪そうな若者たちばかりで、なんだかなァ、と思った。私も若かったし、もちろん裕福でもなかったけれど、元日ぐらいは、もう少しまともな店でコーヒーを飲みたいと思った。しかし、当時は元日というと、本当に、まともな店はみな休んでいるので、チープな内装のファーストフードぐらいしか選択肢がなかったのだ
 エレーヌはしかし、こういう気取らない休息が気に入っていた。クリスマスにも、よく、ケンタッキーでディナーをした。店に入って、から揚げをひとり宛二三本買い、ガレットみたいなパンを買い、コーヒーを買って、クリスマス・ディナーとする。ビニールシートのイスに座り、クリスマスの曲が流れ続ける中で、似たようにシンプルな気取らない夕食を好む他の若い客たちに交じって、いつもと同じように、文学のことや哲学のこと、神秘主義やオカルトのことを話し続ける。
 食べ終わると、これもいつものように、彼女は煙草のゴロワーズかジタンを出し、何本も吸い始める。当時は禁煙などというものはなかったから、ケンタッキーであろうとロッテリアであろうと、ミスター・ドーナッツであろうと、誰もが平気で煙草を吸っていた。
 クリスマス・ディナーは、下北沢のロッテリアでやったこともある。確か、彼女が、フランス語を教えている金持ちのマダムたちのクリスマス会を断って帰ってきた時で、お金持ちのマダムたちといっしょに仕事以外の時にもつき合うのは疲れる、と早々に帰ってきたのだった。その人たちとのつき合いはその後も長く続いたし、雰囲気は悪くなかったはずだが、それでもこんな小さな我儘さがエレーヌの持ち味でもあった。
 ロッテリアではハンバーガーを食べて、コーヒーをもちろん取って、その後はなにかデザートを取ったのではないかと思う。どれもろくなものではないし、たいして旨くはないのだが、ふたりでこんなものを食べながらクリスマスを過ごすというのが楽しかった。世間ではもっとちゃんとしたものを食べたりするのに、ロッテリアで、こんなものを食べてさ、ひどいもんだよね、僕らは、というのが楽しかった。私以上に、なによりエレーヌがこれを楽しんでいた。

 晩年にいっそうはっきりしていくことになったが、彼女には粗衣趣味というようなものがあって、女物を着るのを嫌い、高価なものを着るのを嫌った。もっとも、その頃はまだイッセイ・ミヤケやアニエスb.を好んで着ていたので、この趣味はさほど強く発現してはいなかった。フランスのチベットと言われるロゼール県の山奥の町で生まれ育った、裕福でない家庭の出ということが、こうした好みの根底にはあったのかもしれない。
しかし、いったんパリに出て大学生になってからは、彼女には金持ちの男たちが集まった。19歳の時には、地中海に島をいくつか持ち、城もいくつか持っている初老の男から結婚を申し込まれ、カフェでダイヤの指輪や金のネックレスを差し出された。他の金持ちの老人は、やはりエレーヌに結婚を持ちかけ、金銭面では将来なんの不如意も味あわせない、が、いつも髪を完璧な金髪に染めるのだけは受け入れてくれ、と頼んだという。エレーヌの性格の強さは、自分が愛していない男は全く受け入れないという態度で現われ、その後、たくさんの男たちが拒絶されていくことになる。
そんな中で婚約者になりかけたベトナム人は、よほど素敵な男だったのだろうか。医学部を終え、医師免許を取って、すでにパリでインターンになっており、いずれはベトナムに帰って開業するつもりの若い医師だった。それはそれで悪くなかっただろうが、ベトナム人の習俗がエレーヌには問題だった。ベトナム人はつねに大家族で行動する。結婚したら、エレーヌはベトナムの家族の中に入らねばならず、夫の母や祖母や姉妹たちの中でうまくやらねばならない。それはどうしても受け入れられないということで、彼とは別れることにした。家族のしがらみだけは、彼女にとって、なにがあっても受け入れられない障壁だった。
その後、ベトナム人の後輩のフランス人医学生と知り合い、つき合うようになった。エレーヌはパリ大学在学中、プーシキン研究で修士を取ったり、その後、日本語研究に進んでも、医学部の学食で食事を取ることが多かったようだが、それは、この医学生やその友人たちと食べる機会があったためらしい。

エレーヌのこの新しい恋人、ジャン‐フランソワ・ジュランは、後に、特に心臓を得意とする内科医となる。裕福な家の出身で優秀だったし、パリから遠くない町で開業できる見通しもすでに立っていて、彼はエレーヌを妻に迎えて、地方都市の医師として順風満帆の人生を送って行けるものと思っていた。エレーヌにとっても、悪い環境ではない。医師の奥様として、とりあえずは不足のない人生が保証されていた。ジャン‐フランソワの母とも関係は良好で、威圧的な風を吹かすような姑ではなかった。彼らは婚約し、ヴァカンスにはいっしょに、世界のさまざまなところへ旅に出た。1970年、大阪で万国博覧会が催された時には来日し、万博だけでなく、日本中を旅してまわった。
しかし、ジャン‐フランソワが医師免許を取り、いよいよ開業もして、後は結婚するばかりとなった時、エレーヌは婚約を破棄した。この理由を、機会あるたびに私は聞いたが、どうしても地方の医者の妻に収まるという人生が受け入れられなかった、とエレーヌは言っていた。医師の妻がどういう生活を送るものか、60年代のフランスでは一定のイメージがあった。ブランド品を持って、町の名士の妻に恥じないよう品よく振舞い、家を切り盛りし、夫を助け、子供たちのよき母であること。多くの女たちには願ったりのイメージであるはずだが、エレーヌにはこれが地獄だった。彼女は左翼思想に固まってはいなかったが、それでもこのブルジョワの典型のような人生にだけは嵌りたくなかったらしい。五月革命前後のパリにいて、活動家などでは全くなかったが、一部始終を見続けたような経験が、やはり影響したものだろうか。医師の妻として、平穏に生きていくという道が始まろうとするところで、彼女は自分からその可能性を断ち切ったのだった。
ジャン‐フランソワは、この婚約破棄を受けて、エレーヌに見せしめをするように、すぐに他の女と結婚をした。前から仲睦まじかったのではなかったらしく、衝動的なところのあるものだったらしい。妻となったその女を愛してはいなかったので、数年もしないうちに、クリニックで働く看護婦と不倫関係に陥る。婚姻関係は維持したものの、家庭生活は苦しいものとなった。やがて別居し、彼は看護婦との再婚を望んだが、妻はそれを妨害すべく、離婚に応じようとはしなかった。60歳も過ぎた頃の彼が日本に来る時、私はエレーヌに頼まれて、何度か彼のためにホテルの手配をしたことがある。その頃でも、そろそろ妻が離婚に応じてくれるかもしれない、といった状態だった。ジュラン医師は、医者としては成功したものの、結婚生活はずっと暗雲の中だった。

そんなジャン‐フランソワの相談事を時どき聞きながら、エレーヌはパリで図書館員として働き、ロシア語、英語、ドイツ語、アラビア語、日本語などを学び続けた。1977年、パリ東洋語学校教授ジャン‐ジャック・オリガスJean-Jacques Origasの強い推薦を受け、東京に留学させられることになった。駒場の東大教養学部脇にある留学生会館に住むことになったが、そこに滞在できるのは一年間だったので、翌年には他の住まいを見つける必要があった。他のふたりのフランス女性とともに三人で、池ノ上の一軒家を借りることができ、そこの二階に住み始めた。
 エレーヌの留学目的は、一応、二葉亭四迷研究だったが、東京に来るとすぐに、彼女はこれに研究上の興味を失った。留学生会館の自室にいたある日、彼女は、身のまわりのすべてがホワイトアウトのようになる強烈な光の経験をする。神秘体験と呼ぶべきもので、この瞬間に、二葉亭四迷研究も、日本語の勉強も、日本研究も、すべてが興味から消滅してしまった。元々、彼女の本当の関心は神秘主義やオカルティズムにあったので、それが津波のように押し寄せてきて、意識の前面を領するようになったとも言える。
 とはいえ、二葉亭四迷などについても、本当は、興味を失ったとは言えないだろう。パリに居た時に講義や本だけの情報から研究対象と決めた二葉亭四迷のまわりに、あまりに多くの日本の現実の文物が押し寄せたため、興味の対象が急激に増加し拡大し過ぎたのに違いない。日本の梅雨や湿り気、暑さ、四季、豆腐や納豆などの食べ物と接するうち、かつて自分がこの風土の中にいたことがあると確信するに到り、彼女は奇妙な文化的眩暈の中に入り込むことにもなった。

 この頃から2年ほど経った後、1980年頃、私は初めて、偶然にエレーヌに出会った。しかし、しばらく話した程度で、継続的に会ったりすることもなかった。電話番号だけは聞いていた。
 1983年の春先のある朝のこと、目覚めると、私の頭の中にふいに、「エレーヌさんに電話しろ」という男の声がはっきりと響いた。もちろん、私は訝った。何年も連絡さえ取らなかった外国人にそのような電話をする必要はなかったし、夢を見ているのでもない目覚めた頭の中で、異様な声が響いてきて命令してくるなど、そのまま受け止められるようなことではなかった。この奇妙な命令の通りに行動するわけにも、もちろん、いかなかった。
 しかし、私はすぐに電話した。異常な時の異常な行動だと、今では思う。
 電話にエレーヌが出たので、数年前に会ったことがあるが覚えていますか、と聞くと、覚えていると思います、と言った。誰とでもカフェで話すのが好きだったエレーヌは、それでは、3月18日の夕方なら大丈夫ですから、と言った。
 1983年3月18日、16時に、新宿通りの旧紀伊国屋書店1階で待ちあわせた。
 暖かい日で、私は白いセーターだけで行った。16時よりはやく着き、紀伊国屋ビルの地下にあるトイレに先に寄っておこうと思いながらビルに近づいて行くと、エレーヌが表のエスカレーターを昇って行くのが背後から見えた。まだ時間があるので、洋書の階に行って、少し見てくるつもりだろうか、と思った。

 その時から33年になろうとする。
 昨年12月、新宿通りの紀伊国屋書店に久しぶりに二度行く機会があった。最近は南口の高島屋のほうの店舗に行くことが多く、旧館にはほとんど行かない。店の様子はずいぶん変わったようだが、基本的な構造は昔通りだった。地下のトイレに寄ってみると、少し内装は変わったが、33年前と同じ配置で、特に洗面台の位置や様子は全く変わっていなかった。
 33年前、この洗面台の前に立って、鏡を見ながら、たぶん、髪を直したりしたはずだろう。そうして、16時になろうとする少し前に出て、急いで一階の正面に向かって行ったはずだ。
 長い時間が過ぎた後の紀伊国屋書店で、手洗いから出て、誰と待ち合わせしているのでもない一階の正面に出て行ってみたが、もちろん、エレーヌはいない。見知らぬ人たちが数人立っていて、誰かを待っている。ちょうど互いを見つけ合ったばかりらしい人たちもいて、お辞儀をし合っていた。
 33年前、あの場所であんなふうにしていた私とエレーヌを、傍から、今私がいるあたりから見た人もいたかもしれない。
その時の傍観者はどちらのほうへ歩いていったものだろう。あの後の私とエレーヌの物語など、もちろん、追いもしないで。私のことはともかく、幸福にならないというわけでもなかったはずの結婚を破棄して、わざわざ極東にまで来て、その後2010年まで生きて、東京で死んでいったひとりのフランス女の物語の全容を、全く知りもせずに。
1983年3月18日、41歳のエレーヌ・セシル・グルナック。まだ若い、しかし、同時に、人生のすべてをやり直すにはもう若くない、そんな意識で新宿の紀伊国屋書店の一階正面にやって来ようとする彼女を、見えるわけもないのに、あるいは、見え尽している気でいるのに、私は見出し直そうとして、しばらく佇んだ。



2015/12/13

抗がん剤が実は発がん物質であるらしいこと

  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 エレーヌの闘病、また、ガンによる死去からは、個人的には少なからぬ教訓が得られた。

 そのうちのひとつが、エレーヌの死後にとみに話題になるようになった“ガン治療の嘘”がある。
 ネットで様々な情報が見られるようになった現在、細かいことをここで述べる必要はないだろう。興味のある方は、自分で情報の錯綜したネットの森に分け入り、自分の理性と勘にのみ頼って真偽を探っていったらよい。なにが正しく、なにが間違っているか。それは、自分の頭と体で突きつめていくしかない。
 医療に関わることでもあり、ひとりひとりの自己判断に任されるべきことであるため、これについては私はなにも書かないが、以下に引用するような情報を多量に渉猟した結果として、私個人としては、仮に自分がガンになった場合にも、断じて抗がん剤は使わない決意をするようになった(白血病などの場合は有効のようだし、周囲に実際の成功例を見ている)。

 当時、私自身にも、まだ医師を多少は信じる部分が残っていたため、エレーヌにこうした見地からの助言をつよくできなかったのが残念である。

 ガンが発見された時点で、医師はエレーヌに余命3か月を告げた。
 こうした宣告の内容(つねに「余命3か月」だったり「半年」だったりする)が本当だったとすれば、心身の不快を強め、苦しみを募らせるばかりの抗がん剤投与は、そもそも避けるべきはずだが、抗がん剤投与を行った医師の判断にはじつは大きな矛盾があった。
 この時点で、ガンをめぐる日本の医師たちの曖昧さや悪意を読み取るべきだったが、そこまで冷酷に医師たちを判定することを私は怠ってしまった。

 日本の医師たちだけではない。エレーヌのかつての婚約者である(彼女と同世代の)医師も、彼女に施された抗がん剤治療や手術が妥当だと言っていたので、フランスでも事態はそう変わらなかっただろう。
 つまりは、彼女のかつての婚約者もありきたりの並の医師に過ぎなかったということで、そんな人物がエレーヌの治療に少なからぬ影響を与えてしまったのを、今にすれば、やはり残念に思う。


 [以下、引用]
http://cancer-treatment-with-diet-cure.doorblog.jp/archives/47146544.html

 WHO の発表 抗がん剤が実は発がん物質だった!
 

   癌と食養 自然療法による癌治療
    WHOの公式発表による、癌の原因となる「116種類の要因」
    【「116の一覧」の中に「抗がん剤」がいくつも入っています!「抗がん剤」が癌の原因になる証拠!】


 WHO(世界保健機関)が「癌の原因」となる「116種類の要因」を公式に発表したようです。
 この「116の一覧」の中には、何と「抗がん剤」がいくつも入っています。
 「抗がん剤」は、それ自体が発癌性物質と言い切ってるように思えますね。
 WHOが正式に発表したとなると、なお一層、現実味を帯びて生々しく響いてきます。

 『癌患者の癌を癌患者に悟られないように増癌させ、癌がどうにもならなくなるように仕向け、
  こうしてズルズルと、無知な癌患者から高額医療費を請求しなければ、病院は黒字にならない。

 ということでしょう。

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 癌患者が「抗がん剤」をやった結果、癌が治らなくなってどうにもならなくなり、
 苦しもうが、泣き叫ぼうが、地獄を見ようが、病院はお金が入れば、それで OK です。

 それが証拠に、ほとんどのガン専門医は、この「抗がん剤の正体」をよく知っているため、
 自分や家族が癌になった時には「抗がん剤」などまず使用しません。

 『ガンの特効薬』であるはずの「抗がん剤」が、実は「ガンを増幅させて」います。
 つまり「抗がん剤」は「ガンを悪化させるために投与されている」のです。
 初期癌を末期癌に変えるために投与されているのです。
 ステージ1のガンを、ステージ4のガンに変えるために投与されているのです。

 「抗がん剤」は、最初から「ガン患者を殺す為に開発され、実際に大勢の人を殺してきた」のです。
 ガンを『恐怖の難病死病』とカン違いさせるために!
 その努力があって、日本人の多くはガンを『恐怖の難病死病』と信じ込んでいます。


 全員が全員、このような医者ではないでしょうが、病院も企業です。
 毎月、各学部長が集まり、会議があります。
 何の会議かと言うと、ドラマの様な症例報告でもなく、カンファレンスでもなく、
 「営業報告会議」、または「収支報告会議」です。

 『え~っ! 循環器科、○○ 円、先月に引き続き、○○○ の赤字‥、
  学部長、来月から、もっと検査入院・検査カテーテルを増やすように!

 と、事務長からお叱りとアドバイスを頂きます。

 そして、部下に伝達が渡り、
 来月から、必要なのか必要でないのか意味不明な患者様がぞくぞくと不安な顔で検査に参ります。
 心臓カテーテル検査がどんなものか想像できますか?

 まず、太ももの付け根から太ーいカテーテルを突き刺し、心臓まで管を通し検査するんですけど。
 文字にすると簡単に聞こえますね。
 けぇ~ど、足の付け根からふっとい注射をさされ、心臓をいじくりまわされるんです。
 それも、本当に病気なのか分からないのに。

 医者から「心臓の機能が問題あるかも」と言われたら、誰でも不安になりますよね。
 「先生、お願いします」になります。
 けど、私は「セカンド・オピニオン」をおススメします。
 そういう営業の医者は結構な、いや、大多数いると考えてもいいです。
 みな、本来、そういう医者ではないと思いますが、なんせ(病院・医療機関とは)強烈な縦社会の白い巨塔。

 風邪で受診しても、頼んでもないのに大量の薬。
 「これだけでいいです」と言うと(医者の)露骨な嫌な態度。
 いや、そんなのマシかもしれませんね。

 医者の言うことは話半分で聞き、「セカンド・オピニオン」をおススメします。
 まぁ、「セカンド・オピニオン」も同じ可能性もありますが‥。


 「抗がん剤治療」も、営業です。
 「最低、何クールするのですか?」、それだけ(その癌患者を)病院にとどめて置くことができます。
 長期になり、さらに(その癌患者の癌の)状態が悪化してくれたら、もっと高価な薬や治療もすることができます。
 一般の人は「ドラマみたい~」と思いましょうが、真実なんです。

 元看護師の独り言でした。


2015/12/12

エレーヌとの年末年始一景









          (パンの写真はルヴァンのHPより借用)



  駿河昌樹
 (Masaki SURUGA)


 1980年代、正月には無農薬の食材や無添加の食品を買うことにしている店が閉まってしまうので、エレーヌと私にとって、年末の買い出しはそれなりに忙しかった。
 私たちが夕食で食べるのは、山盛りのサラダ、ほとんど味なしの根菜類蒸し(ほとんど水を加えずに、密閉した鍋の中で野菜から出る水分だけで蒸すもの。食べる時はそこに塩や胡椒をかける)、白身魚やササミに簡単に熱を加えたもの、さらに、玄米や蕎麦粒、ハト麦、インディアンの食べるワイルド・ライスなどだったが、昼食や勤め先に持って行くランチとしては、全粒粉を使って焼いた重く固い角パン、パン・ド・カンパーニュ、ライ麦パンなどが多く、これらはたいてい、下北沢のナチュラルハウスで買っていた。たしか、ルヴァンという製パン所から入荷するものが中心だった。やはり下北沢にあった、サン・ジェルマンのパン・コンプレも定番だった。
 1980年代の正月頃は、商店街の店が3日も4日も休んでしまうのがふつうで、店が始まっても商品が揃わないことも多い。私たちが食べていた欧風のパンは、大量生産でないこともあって、年明け一週間ほどしても、まだ入荷しないこともあった。
 そのため、年末の30日や31日には、これらのパンをたくさん買い集めるのが大事になる。生産は29日頃で終わるので、30日頃にだいたいは手に入れ、31日には売れ残りを予備のために買い集めるという感じだった。
 なにぶん品数が少ないので、クリスマス前には予約を入れておく。だいたい、ふたりで一日250グラムから300グラムを食べる計算で、1500グラムぐらいの分量以上を買っておく必要があった。そうすると、当時一般的だった250グラムの塊を6袋は買っておく必要があり、これが、他の買い物と合わせるとなかなか嵩張った。下北沢で買い物をすると、池ノ上に住んでいた私たちは、買い物袋を提げて15分から20分ほどかけて歩いて帰って行ったものだが、年末の買い物でなくとも、レジ袋の取っ手が細く捩じれて掌に食い込むほど重い量を提げて帰っていくことは多かった。
 正月の食事も、私とエレーヌの場合、いつも通りでほとんど変わらなかった。一年を通じて、朝はフルーツ、ヨーグルト、コーヒー、全粒粉パン、ソビエトやオーストラリアやニュージーランドの蜂蜜、値段の高めの輸入ジャムなどだったが、正月も同じで、雑煮やおせちが加わることはなかった。
 エレーヌは確かに、豆腐や納豆などの日本食が大好きだったが、実際に自宅で食べる様式は、けっして日本式ではなかった。白米は嫌いではないが、家には一切なかったし、味噌汁は好きだったが、作らなかったし、そもそも味噌を買わなかった。焼魚は好きだったが、私が焼いてやらないかぎり自分では作らなかった。漬物は食べなかった。懐石料理も天ぷらも好まなかったし、日本風の洋食も好まなかったし、鰻は嫌いではなかったが、あの脂っこさが苦手で、半分も食べれば十分だったし、だいたい御飯のあの量には辟易していた。
 こんなふうにふり返ると、エレーヌの日本食好きは、じつは豆腐や納豆、少量の蕎麦、魚料理などに限られていたのがわかる。それらを、サラダや蒸し野菜、全粒粉のパンに合わせて食べるのを好んだのだから、全体としては日本食とは言えない、エレーヌ流の無国籍な食べ方になっていた。
 2000年以降、エレーヌが肉食やカレー、ファミレスの料理などを意外と好んでいた、と言う友人たちがいる。私は疑わしく思っている。というのも、そうした外食の後、エレーヌは私に、「たまに外食する時は悪いものも食べます」などと言っていたからで、あくまで相手に合わせてのことだったからだ。不機嫌な顔を惜しげもなく見せられる私のような相手と食べる時、エレーヌは食べるものの内容にうるさく、脂ぎったものや栄養価の低いものを極力避けようとした。いっしょに旅行する時にはこれがよく難儀の元となったし、都内でちょっと買い物に出たり、映画やコンサートの帰りなどに食べる際にも問題となり、どこのレストランに入るのも嫌がるので、私のほうが怒って、もういいから、食べないで帰ろう、などとなることもたびたびだった。ガン宣告をされる頃まで、これは変わらなかった。そのため、同じ時期に、他の友人たちと洋食ふうのレストランに平気で入っているエレーヌの話は、私にはほとんどフィクションのようにしか受けとめられなかった。
 とても際立った、はっきりした個性の持ち主であるエレーヌだったが、ずいぶんと自己を殺して相手に合わせる部分も大きく、食事ひとつにもこんな演技を続けていたということなのか、と思う。
 2000年に入ってから、別に住むことにしたエレーヌの家の寝室の奥に、ワインやビール缶などがたくさん貯め込まれるようになったのに気づき、エレーヌに理由を聞いたことがある。ワインにしてもビールにしても、エレーヌはせいぜいレストランで、その場の雰囲気上のつき合いで、ひとくち口をつける程度で、家でひとりで飲もうとまで思うようなことは一度もなかったからだ。家に来る友だちがビールやワインが好きなので、用意しておいている、その人たちの家に行く時には持って行く、とエレーヌは言っていた。
 そこまで、まわりの“お友だち”に合わせないといけないほど、日本社会の中でひとりきりになるのを恐れているのか、そんな必要はないのに、と私は思ったが、こういうのがエレーヌでもあった。

2015/12/06

人づきあいもガンの理由

     
末期ガン宣告の前の桜の頃。
いま見れば、存在の希薄化が感じられるような。


1999年、フランスのトゥール近くの田舎道で。
生涯、自転車はあまり乗れず、水泳もできないできた。
ここで自転車を教え、はじめて長く乗ることができた。

  
 駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)
 

  生まれつき体の丈夫だったエレーヌがガンにかかった理由は、いくつか考えられる。
 なにより、健康への本人の過信。
 そこから来る過労。
 睡眠不足。
 低めの体温。
 体内でひそかに進行していた卵巣の異常。
 すぐに寝つけなくなるような神経質さと過敏さ。
 怒りやすさ。
 他人は気づきづらかったが、けっこう恨みがちで、内に溜め込む性質。
 人づきあい。
 そうして、意外かもしれないが、次々と終わりのない猫たちの世話。

 これらについては、以前からメモしておきたいと思ってきたが、時間がないので書けないでいる。
 それでも、少しずつ書いてみておこう。

 「人づきあい」については、意外に思われるかもしれない。
それが原因?、と。
 しかし、心身の深い休息のためには、すっかりひとりになる時間を十分持つことが大事だというのは、最近の研究で明らかになった。
 気の合う人としゃべりながら寛ぐのでは、いけない。どんなに仲のよい人が相手であっても、神経は刺激を受けたままになる。完全にひとりになって、対人的な刺激をすべてシャットアウトしなければいけない。そういう時間を、毎日、十分にとらなければならない。毎日が無理でも、週の中で見つけてとらなければいけない。
 エレーヌは、フランス語を教える仕事の場では、たくさんの人たちに会い続けていた。それ自体は問題ない。仕事なので、あたり前のことでもある。オフタイムに、ひとりになる時間を十分にとれさえすれば、かまわない。
 ところが、帰宅後や休日、エレーヌはひとりになる時間が少な過ぎた。
 エレーヌが帰宅すると、なにが起こったか。
フランスや日本の友人たちから電話がひっきりなしにかかってきた。夜には、近所の猫仲間との交流もあった。近所の猫たちにエサをやってまわったり、病気の猫たちを病院に連れて行ったりした。
事務的な電話は短いから、べつにかまわない。しかし、エレーヌには、人生相談の電話のかかってくることが多かった。彼女は精度の高い占い能力を持っていたので、それを知っている友人たちがいろいろな人生上の問題をもちかけてきた。ついでに話をすれば、ひとり相手の電話はすぐに30分を超過する。ひとりが終わると、次がかかってくる。また30分、40分と経つ。電話が終わると、猫の世話に外出したり、帰宅すると、2時や3時頃まで、頼まれた問題の占いに時間を割く。それでいて、朝から仕事に出ないといけないことが多かったので、7時頃には起き出る。そうして、ヨガをやる…
結局、毎日の睡眠時間は3、4時間というのがふつうだった。
なんとなく、かかってくる電話や人づきあいを受け入れ過ぎてしまう。エレーヌにはそんなところがあった。これ以上は無理、と拒否することができない性質だった。
ガンで衰弱して、病院で寝たきりになった時でさえ、フランスの友人や家族から電話が携帯電話にかかり、誰もがエレーヌの心配をして、病状を聞きながらも、30分ぐらいは平気でしゃべり続ける。私がそれを阻止して、病状は私のほうに聞いてきてくれ、と壁を作った時には紛糾した。結局、友人や家族たちはエレーヌにじかにかけ続け、エレーヌを衰弱させ続けた。「電話をかけてくること自体が、私を弱らせるのに、誰もそれがわかっていない」とエレーヌは私に言うのだったが、ならば出なければいいのに、と助言しても、電話に出てしまうエレーヌがいた。

こと、フランス人の友人については、エレーヌは恵まれなかった。フランスにも日本にも、ろくな友人がいなかった。
忙しい日々を送っている彼女に、夜な夜な電話をかけてきて、体力も時間も費やす占いを頼むような友人が、よい友人だろうか。
大病で憔悴している時に、長々と電話をしてくる友人や血縁が、はたしてよき人々だろうか。
こういう点で、どうしようもない友人や血縁にエレーヌは取り囲まれていた。頼られるのを好んでしまうところが、エレーヌにはあったのも事実だろう。いつわりの友情やつながりを、いまひとつ見抜けなかった。エレーヌの弱さが、ここにあった。

日本人のエレーヌの友人たちにも、言いたいことはいっぱいある。
私は、五年間、それをわざと言わないできた。
そろそろ言い始めようと思う。
月曜日から休みなしに金曜日まで働きづめのエレーヌには、完全にひとりになる時間が、誰からも連絡も来ない時間が、もっともっと必要だった。私はそれをわかっていたので、エレーヌから電話がこなければ放ったらかしておくことが多かった。このブログにも時々書いたが、1983年以降、日本でのエレーヌという人間の演出は、私がすべて行ってきた。演出家が俳優を放ったらかしておくのも、本当にそれが、空白を持つことが必要だとわかっていたからだ。
猫に全く関わらない時間を、ちゃんと確保してもらいたかった。
帰宅してからは、夜、就寝までひとりで、なにもしゃべらずに暮らしてほしかった。
土曜日にヨガを教えに遠出などしないでほしかった。
これが私の本音で、エレーヌが元気な頃から、時々、本人に言ってきていたことだった。
世田谷から神奈川までヨガをやりに行くのが、一週間働きづめの体にとって、どれほど負担になるか。もちろん、エレーヌ自身が理性的に判断すべきことだったが、残念なことには、彼女はそういう点で理性的ではなかった。

猫にかまけたり、遠出してヨガを教えたりするのもいいが、その前に心身を十分休める時間を取ってほしい。
ずっとエレーヌにこう勧めてきたが、彼女は体の耐久度を甘く見ていた。
猫の世話をもっと減らすように勧める私を、心ない冷たい人間だと言うこともあった。猫たちの世話をやめたら、野良猫たちはどうするのか?とエレーヌはよく私を批判した。
「でも、いずれ歳を取ったり、病気になったりして、あなたは、月に何万円も費やすような猫の世話を続けられなくなる。その時、猫たちはどうするの?今のあなたの生活のしかたでは、そういう時が来る可能性がある。未来のその時点での猫たちは、どうするの?今、あなたがもっと世話を縮小して、あなた自身が健康を維持して、少しずつ世話をしていくのだって、悪くないじゃないの?」
 私のこんな反論には、エレーヌはもちろんうまく答えられなかった。
ヨガについては、それをやらない私には理解できない、と言い張った。
とんでもない。80年代、ふたりの住まいをアシュラムのようにして、毎日エレーヌとヨガをやり続けた私が、理解できないはずはない。ヨガもけっこう。でも、たったひとりで、誰もいないところでやったらいいだろう。ヨガはそういう時こそ、本当に聖性を帯びてくる。
私は、エレーヌが続けていたような西海岸ふうの精神世界の流儀を離れて、菜食主義を捨て、ヨガを捨て、ヒッピーふうの共同生活志向を捨て、「なにを飲み、なにを食おうと、思い煩うな」というイエスの教えに、むしろ徹底して素直に従って、全く別の修行に入っていたに過ぎない。繁華な都市のさなかを歩いていても、うるさい工事現場にいても、さまざまな邪念の渦巻く歓楽街にいても、なんの損害も受けない魂にならなければいけない。静かな清浄なところでのみ何者かでありうるような、脆弱な過敏症行者では意味がないのだ。
2000年以降、エレーヌには、ヨガよりもむしろ、歳をとるにつれていっそう必要になる筋肉をつけるトレーニングを勧め、それによって体を温めるのを勧めたが、エレーヌはまじめに受けとらず、やらなかった。ヨガに打ち込んで菜食になった人たちは、まず長生きしない。生物としての人体の条件や本質をもう一度見直すように、というのが私の勧めだった。『バガバッド・ギータ』で、戦争で人を殺すことなど恐れるな、とアルジュナに説いたクリシュナ神のような思いがあった。もちろん、なにをしようと、どう生きようと、どのくらい生き長らえようと、すべては悦ばしき空無にすぎないという前提で、生などはじめから終りまで冗談にすぎないと見越した上でだったが。





2015/11/01

エレーヌ、最後の二週間とその時期の携帯メール

 駿河昌樹
 (Masaki SURUGA)


 2010年10月終わり頃の、死の直前のエレーヌよりの携帯メールを時系列に並べながら、最後の二週間ほどを、私の立場から振り返っておく。
 (このブログの2012年10月27日《2度目の命日にあたって》の2章にも関連記事があるので、参照されたい。)

 8月末の退院以降、エレーヌの調子は比較的よく、食事療法と適切な運動の組み合わせによる療養が目指されていた。長い入院の後での筋力の衰えのため、きびきびと動くことはできないが、最低限の家事や短い散歩などをしていた。
 いっぽう、10月末に北区への引っ越しを決定していたので、引越業者とのやりとりや、旧居の不動産との交渉、新居のUR事務所での手続き、区役所での手続き、固定電話の移転などを進めていた。
 食事療法については、野菜や果実などの新鮮なジュースを毎日作って飲むように勧めていたが、めんどくさがって本人は消極的だった。血中アルブミンの欠乏による浮腫に5か月も苦しめられてきたことから、魚や鶏肉などを摂取してタンパク質を摂るように促したが、食道から胃の不快感のために食は進まなかった。
 
 10月12日(火)
  エレーヌから、歩行や起き上がりの困難を聞く。浮腫や硬直のため。病院でリハビリの運動として教えられたストレッチの手抜きや、足の運動のやり過ぎのためか、と考える。

 10月13日(水)
  エレーヌ宅に介護ベッド搬入。
 
 10月18日(月)
  勤めの後、夜に、渋谷からバスでエレーヌ宅へ。足湯をして温めたりし、マッサージをしてやる。しかし、動くことが困難になっており、病院への再入院が必要と判断する。すでに夜遅いため、明日の朝にアクションを起こすことに。
 エレーヌによれば、日中には古い友人らが来ていたそうだが、その人たちが、急を要するエレーヌの異常を全く見てとらなかったことに驚かされた。固定電話を解約して携帯電話だけにしたほうがどれだけ安くなるかとか、ガンの治療には巨費が必要なのにエレーヌにはどれだけ銀行に残額があるのか、あまり残額がなければもう助からないだろう、といった話だけをして帰ったという。病気で弱まって療養している人のところに来て、長々とこんな話をして帰っていくのが「友だち」なのか?、とエレーヌは私に聞く。 

 10月19日(火) 
 妻が東京医療センターの担当医に電話し、緊急入院の準備をしてもらうことに。世田谷区と北区の介護施設と連絡。フランスのエレーヌの親族たちや友人たち宛てに、緊急入院のことをメールで伝える。
 エレーヌ宅では、友人の中島慶子さんが泊まって、エレーヌに付き添う。

 10月20日(水)
 朝、エレーヌは東京医療センターに再入院。アイリス動物病院の“アイリス先生”こと斎藤都さんと中島慶子さんがエレーヌ宅に向かい、斉藤さんの車で病院に搬送。病院では、妻が迎える。 
 私は勤めの後で、夕方、病院へ。エレーヌの入院用の品物を途中で買い揃えて、向かう。
 エレーヌは食事に出たミカンやトマトを食べず、(酸っぱさに耐えられなくなっている)、ビタミン類の摂取が決定的に欠如してきている。カプセル入りのビタミン剤のようなものを買う必要を覚える。

 10月21日(木)
   病院に行けなかったため、16時55分にエレーヌから次のメールで報告が来る。
 おやつにナシとヨーグルトを食べたこと、朝食+昼食+おやつの三食を食べたこと、8時間かけて点滴をしたこと、慶子さんにロイヤルミルクティーを買って来てくれるように頼んだこと、などが書かれている。
 4月に衰弱がひどくなってから、エレーヌは濃厚なミルクティーを好むようになった。生涯に一度もなかったことだが、タンパク質のアルブミンの低下を補おうとする体の欲求かもしれない。(アルブミンが欠乏すると、細胞膜の目が粗くなり、水分や栄養素が漏れ出てしまう。それが浮腫を引き起こしてしまう。)  
 


10月22日(金)
   仕事のため、病院に行けない。エレーヌからは、二通メールが来る。
 一通は、病院に持って行く本について。エレーヌと話していて、ドゥルーズとガタリの『ミル・プラトー』を読んだらどうかと思い、勧めたら、読みたいと言っていた。
 もう一通は、作家・文芸評論家のモーリス・ブランショ『火の部分』について。舌の病気になった仏文学者の篠沢秀夫がブランショにとても影響された話を聞いて、この本を読みたいと。ブランショは私がほとんど持っているので、次に病院に来る時に持ってきてほしい、と。
 さらに、いいものがあれば、果物も持ってきてほしい、と。この時期、よくブドウを買って持って行った。






10月23日(土)
   やはり、仕事のため、病院に行けない。
 朝、エレーヌの体内のガンを、なんとカネヨのクレンザーで洗い落とす、というリアルな夢を見る。
 じつは、エレーヌについて、夏以来、私はいくらか心霊治療を試みていて、効果を確認していた。この夢には、エレーヌの霊体に侵入して、積極的に病巣を洗い落すべきだという発想を与えられる。このことをエレーヌにメールで告げたら、私のヴィジョンを信頼する、心霊治療をやってもらいたい、どのようなことも可能だから、と返事が来た。点滴を続けている、とも書いてある。




10月24日(日)
 病院で介護保険証が見当たらなくなったと連絡を受け、それを探しにエレーヌ宅へ。重要な書類や証書、物品などをエレーヌがなくすということが頻発していた。
 行ってみると、エレーヌ宅には中島慶子さんと斎藤都さんも居り、エレーヌの着替えなどを取りに来たとのこと。このように、数人がエレーヌのためにつねに動いているというのが普通だった。
 介護保険証は家には見つからず。たびたび起こったように、やはり病院にあるはず。
 斉藤さんの車で、代田のエレーヌ宅から駒沢の病院に向う。徒歩+バス+電車でこの行程を辿ると、いったん渋谷にバスで戻ってから駒沢大学に電車で向かうか、三軒茶屋に徒歩で向かってからバスか電車で駒沢大学に向かうかするしか方法がないため、大変な時間がかかるので、助かった。代田のエレーヌの住まいは、こういう点で交通上の僻地にあった。急ぐ場合はタクシーで行くことになるが、タクシーもなかなか捕まらないことが多かった。こうした交通上の不便さも、引越しの理由のひとつだった。
 病院に着くと、エレーヌは1Fのカフェ《エクセルシオーネ》でコーヒーを飲んでいた。ろくに物も食べず、衰弱していても、車椅子を押してもらって病院内のこのカフェに行ってコーヒーを飲む、というエレーヌの姿勢は顕著だった。少なくとも27日までは、私自身がこれを目にしている。28日と29日についてはわからないが、行った可能性もある。30日は傾眠状態に入っていたので、病室から出なかったと思われる。
 カフェ《エクセルシオーネ》から、固定電話の引っ越し手続きを、エレーヌ自身の声で確認を取らせ、完了する(本人が行わないと受け入れられない)。
 自力で立ち上がったり、座ったりできなくなっているので、トイレを手伝ったり、ベッドに寝かしたりする。
 なお、この日、30年近く書き続けられてきたエレーヌの手帳の記述が終わっている。翌日25日以降は、手帳は白紙のままとなり、二度と記入されることはなかった。
 さらに、この日、長く通っていた下北沢の美容室《ガッツ》の担当美容師カンさんは、病気から回復して元気になったエレーヌの姿を夢で見ている。

10月25日(月)
   仕事のため、病院に行けない。

10月26日(火)
   やはり、仕事のため、病院に行けない。
 11月2日(火)の欠勤届を事前に出す。29日の引越しの後、荷物整理に数日かかるのを予想し、休みを取っておこうとしたもの。しかし、奇しくも現実には、11月2日(火)はエレーヌの葬儀が行われることになる。もちろん予期などしていなかったのに、葬儀のための欠勤をあらかじめ取ったことになる。
 この日の夜に来たメールには、リハビリをやったこと、今後の日々もそれが続くこと、アルブミン点滴を三本やったこと、担当医が「駒込」のことについて私と話したがっていることが書かれている。「駒込」というのはガン治療で有名な北区の駒込病院のことで、そこへの紹介状を書いてもらうことになっていた。新しい引越し先からは駒込病院へは15分から20分ほどで着く距離であり、そうしたことすべて含めて、私は一年前からエレーヌのための引越し計画を少しずつ進めていた。
 もっとも、この日、担当医が私に話したかったのは、エレーヌの衰弱が進行しており、病院を替わるのは困難ではないかということだった。
 




 27日(水):勤めの後、夕方に東京医療センターに向かい、エレーヌを見舞う。少しでもエレーヌにタンパク質を摂らせようと考え、途中でやきとり風弁当やサラダなど買っていく(病院の食事はひどいもので、ご飯や甘いヨーグルト、おひたし、固い焼き魚のようなもののみ。しかも、病種に関係なく、同じ食事)。ビタミンCのカプセルも買っていく。しかし、衰弱がひどく、食欲がない。
 血液の質が急速に落ちており、体内のどこで、いつ致命的な出血が起こってもおかしくない状態になりつつあった。これに対抗するには、積極的なビタミン摂取やタンパク質摂取に努めるしかない。エレーヌにそれを説き、少しでも食べるように勧めたが、ほとんど食べなくなっていた。
 私は翌日の午前から引越しの準備に入るため、エレーヌの夕食後にすぐに辞去した。引越し後の30日頃に、また病院に引越しの報告に来る、と告げたが、エレーヌと会ったのはこの日が最後となった。
 数枚、この時のエレーヌの写真を載せておく。これが生前の最後の写真となった。






 28日(木):引っ越し先の新居のカギを受け取り、新居に入って掃除や整理。
 (医療機関の変更も含め、今後のよりよい療養のために、私の住居近くに越すことが計画されてきており、それが実行段階に入っていた。そういう最中、エレーヌの身体は急激な衰弱へ。もちろん、引越し計画の中止を検討、エレーヌ本人に何度も聞き直したが、彼女はそのまま引越しを遂行したがった。病気に負ける気は全くなく、療養を続けるために、住んだことのない土地に越して新たな人生を始めるという、強い意志があった。身体状況と精神状況のはっきりした乖離が起こっていた、とも見えた。)
夕方、家で奇妙な音がしたので、そのことをエレーヌにメールすると、21時34分にエレーヌより返信。しかし、以下の通りの文面で、もはや意味が読み取れない。文字を書く力も気力も欠如してきているのがわかる。
深夜に異常現象。家の電話機が30分おきに電子音を鳴らし続ける。呼び出し音が鳴るのではなく、誰かが電話機のボタンを押さないと鳴らない音がする。まるで、そこに人がいて押しているように鳴る。エレーヌの霊が来てなにかを告げて鳴らしているような感じで。




 29日(金):世田谷代田から王子神谷のUR11階への引越し(朝9時より)。入院中のエレーヌは来れないので、すべて私と引越業者とで行った。しかし、エレーヌは自ら引っ越しに来て采配を揮うつもりだったらしく、どうして自分を連れに来ないのかと言っていたという。
世田谷代田の旧居には、比較的近くに住む友人の於保好美さんが掃除手伝いに来てくれた。やはり近くに住む南さんに、粗大ゴミの処理をお願いする。新居のほうには、友人の中島慶子さんと大林律子さんが手伝いに来てくれた。
 引越しの最中に、エレーヌから、次のような奇妙なメールが来た。まるで、すでに遠いところに行ってしまっていて、たまの挨拶をしてきたかのようなメールだった。私はこれを見た瞬間、エレーヌはもうダメだ…と思った。
 中島慶子さんと大林律子さんは、帰途、医療センターに寄ってエレーヌを見舞った。友人たちがエレーヌに会ったのは、これが最後となった。引越しを無事済ませたことを伝えると、エレーヌは涙を流して喜んでいたという。
 私はひとりでエレーヌの新居に残り、夜遅くまで整理を続けた。




 30日(土):台風14号接近のため、東京は朝から暴風雨。雨の止んだ後は強風となる。電車の不通や混乱があり、エレーヌの世話をしている人たち皆が見舞いを諦めた。
午前8時の回診記録では、意識に変わりなく、食欲もあったとのこと。
午後2時52分、「疲れる…」と洩らしていたとの記録。
午後4時57分、「大変…」と看護師に言っていたとの記録。
看護師たちによれば、時間によって、眠りがちだったり、起きていたりをくり返していた。亡くなる前に現われることの多い傾眠現象が始まっていたらしい。

 31日(日)午前3時に意識レベル低下。回診の看護師が声をかけたが、反応がなかった。傾眠を超えた状態に入ったことになる。個室に移し、処置の開始へ。
午前4時57分、血圧低下始まる。
午前7時10分、亡くなる。
当直医師側の不手際で、私の家の固定電話に連絡が来なかったため、異常を知ったのは6時過ぎだった。この時点で数名に連絡したが、誰も臨終には間に合わず、最も近い友人も間に合わなかった。
私が到着したのも7時40分だった。
ベッドの上のエレーヌに呼びかけると、エレーヌの目から涙が流れ出た。死の直後の遺体が見せる現象だろうが、こちらの声に反応したように見えた。













2015/10/31

エレーヌ、5年目の命日

 駿河 昌樹
  (Masaki SURUGA)


 2010年10月31日日曜日、ハローウィンの日、午前7時10分、駒沢公園脇にある入院先の東京医療センターで、エレーヌ・セシル・グルナックは68歳で亡くなった。
 暦の情報めいたことを記しておけば、小潮、月齢23.3、友引、旧9月24日だった。

 ずいぶん時間も経ったので、エレーヌの最期の遺像を目にしても、人びとも、はるかに落ち着いた感情で接してくれるようになっているだろう、と推測する。期間を限定して、亡くなった当日に病院で撮った写真の一部を特別に掲載する。
 一枚はピントがずれて、エレーヌがぼけてしまっているが、今になってみると、このぼけ方も、却って、よかったようにも思える。


2010年10月31日、東京医療センターで。

2010年10月31日、東京医療センターで。

  

 今日で5年になる。
 生きていれば73歳ほどで、仕事面では大学を退職しているはずだから、カルチャーセンターの授業だけをいくつか続けていたかもしれない。あるいは、仕事はすべて辞めて、好みの文学や古今の神秘主義の書籍の読書やヨガや執筆などだけに集中していたかもしれないし、フランスに帰国していたかもしれない。いずれにしても、エレーヌがやることは読書とヨガを中心としたものになったはずで、どこに身をおいても基本的には変わらなかっただろう。
 どの場合も、ガン治療を通過した後の、療養を続けながらの生活となっていたはずで、体調によって左右されるものになっていたのは疑いない。

5年前の今日、午前6時過ぎに病院からの電話を受けた私は、北区の住まいからタクシーで目黒の医療センターまで乗りつけたが、7時40分に着いたため、臨終には間に合わなかった。
 こうした遅れには事情がある。エレーヌの容態はすでに午前3時半頃から異状となっていて、当直の若い医師が私の携帯電話にくり返し掛け続けていたらしいが、私は携帯電話を書斎に置いて寝るので、呼び出し音は離れた寝室までは聞こえなかった。もちろん、病院には私の家の固定電話の番号も携帯電話の番号も正式に知らせてあり、家の電話に掛けてくれればすぐに起きたのだが、当直の若い医師は、なぜか携帯電話にだけ掛け続けた。私が、個人的に看護師のひとりに伝えておいた携帯電話の番号にばかり掛け続けたものらしい。当日、妻が重要な香席を控えていて、はやく起きて準備をする必要があったため、私も6時前に起きた。そこへ鳴った携帯電話で、はじめて事態が知れたのである。気のきかないこの若い医師の落ち度は、場合によっては訴訟に持って行けるほどのものだが、その時は落ち着いて考え直す暇もなかったし、後では、これもエレーヌと私の間の運命かと思い、大ごとにしないで済ました。かといって、忘れるというわけもない。
 じつは、この若い医師は、少し前からエレーヌを担当するようになっていたのだが、エレーヌは私に、この医師はどうもよくない気がする、ダメだ、と語っていた。彼がなにかミスをしたわけでもないので、大丈夫だよ、と私はエレーヌに言ったのだが、なるほど、最後という最後に、決定的なミスをやらかしてくれたわけだった。こういう最期になることを、エレーヌは早くから感知していたのかもしれない。

 病院に着いた時からすぐに、まずは、エレーヌの療養や世話に関わった人たちに知らせることからいろいろと始まって、忙しい朝となった。葬儀の手配だけでなく、死亡に関わる手続きのため、日が暮れるまで忙殺された。
エレーヌはたまたま、よりよい療養にむけての新しい生活を始めるために29日に北区へ引っ越しを完了していたので(手配や実際の段取りは私が行った)、すでに世田谷区に転出届を出していた。しかし、北区にはまだ転入届を出していなかった。しかも、亡くなった医療センターは目黒区だったので、死亡届の手続きをどの区役所で行い、埋葬及び火葬許可書を発行してもらうか(これがないと火葬はできない上、当日中に葬儀会社に郵送する必要があった)で紛糾した。世田谷区役所はこの点を不明とし、北区か目黒区へ行け、と拒否した。北区区役所は、まだ住民票を移していないので管轄外と言い、結局、目黒区役所から法務省に問い合わせてもらって、やりとりを数回繰り返した揚句に、ようやく目黒区役所で手続きを完了した。こういうケースは世田谷区役所、目黒区役所、法務省の公務員たちも初めてだったとのことで、そのため、措置を決定するのに時間がかかった。事務手続きが完了した時には、目黒区役所の営業時間は終わっていて、所内の明かりは大かた消され、所々に灯された明かりが廊下に水のように落ちていた。すっかり日も暮れて、区役所を出ると、夜の帰宅時間頃の目黒の喧騒が始まっていた。
疲労困憊し、夜の目黒から車で帰宅の途に就きながら、ずいぶん皮肉なものだと思った。事務手続きを異常なほど嫌悪し、大の苦手でもあったエレーヌが、死去にあたって、生き残っている私にこれほどまでの面倒を残していった…と思い、これがもし逆の立場だったら、エレーヌはなにひとつ事務手続きをやり遂げることなどできなかっただろう、と考えた。こう書くと、私が不愉快に思っていたという印象を与えかねないが、不愉快に感じている暇もない一日だった。

午前中に世田谷区役所に赴いたり、銀行に寄って費用を引き出したりする際には、豪徳寺のアイリス動物病院の院長の“アイリス”先生こと斎藤都さんの車に乗せてもらい、ずいぶんお世話になった。こういう咄嗟の場合、銀行ひとつに寄るのも容易ではない。自分たちの使っている銀行が近所にはなかったりするし、繁華街の銀行に行こうとすれば、交通上の小さな問題が重なっていたりする。
午後からは妻の母が、その日の用事をぜんぶ投げ出して車で駆けつけてくれて、都内をあちらこちら回るという面倒な運転を引き受けてくれた。
「あなたの死に際して、いろいろな人たちがこんなに動いてくれている…」と、都内の風景の中を廻る車の中で、内心でエレーヌに呼びかけた。人の生き死には、記録されることさえないたくさんの出来事の積み重ねや事象の連鎖によってのみ、物理的には成り立っている。どんなに小さなことであれ、どれかひとつでも欠ければ、事態はもちろん、そのようなかたちにはならない。物理的なそれらの出来事のひとつひとつは、そのまま行為者である人びとの心であり、思いや感情にじかに繋がっている。エレーヌの死に際して、すべてを記録することはできなくても、関係してくるすべての人びとの内心や背景にまで可能な限り入り込むようにして、少しでも多くのことを私が見聞きし、私が記憶し続けていくことはできるだろう、と思った。死んでしまったエレーヌの葬儀や死後にまつわるすべてのことは、いわば、エレーヌの身体と見なせるので、今はそれらを洩らさず見続けて行こう、と思っていた。

夜も遅くなって帰宅した後、埋葬及び火葬許可証と葬儀用の写真を速達で送るために、自転車で郵便局の本局まで妻と出かけた。
 その後、家から10分ほどのところにあるエレーヌの新居にひとりで赴いた。将来の療養と、エレーヌのための効果的な世話を考えて、10月29日に引っ越しをしておいた11階の住居だった。
まだ十分に荷を解いてもいない状態で、段ボール箱がいっぱい積まれ、エレーヌが持ち続けてきたもの、集めてきたものだけで埋っている。
不思議な空間だった。私にすべてが任せられていたので、エレーヌ自身は一度も来たことがなく、しかも、エレーヌの物だけで満たされ、主をその日に失ってしまった空間。
エレーヌが30年以上使い続けてきたテーブルや椅子を台所に置いていたので、そこに就いて、カーテンを開けた窓から、エレーヌが見るはずだった夜景を眺めた。エレーヌがすべきだったことを、今は代わりに、私が私の身体を使ってするしかないのが痛感された。
事実、この時から約10か月、この部屋でのエレーヌの遺品整理が続くことになった。遺品を見に来たり、受け取りに来たりする人たちが時どきはあったものの、仕分けや整理や処分は、私ひとりで行い続けた。この作業は“エレーヌの思い出に浸りながら…”などと形容できるほど楽なものでもセンチメンタルなものでもなく、忙しい生活の合間の時間を見つけて、主に土日や祝日、平日なら深夜に行われ続けた。大きな段ボールに物を詰めたり、詰め直したり、それを積み重ねたり、移動させて整理の作業場となる小さな広がりを新たに拵えたり、それが済むとまた作業場を別のところに拵えたりの連続だった。中腰になって、爪先立ちの姿勢で行うことが多かったため、数か月後には、両足の親指の爪裏に血が鬱血し、黒くなってしまっていた。
遺品には細かいものもいっぱいあった。数えきれないメモや書類、書簡、未使用の絵葉書、テキスト、小物などを、座ってコツコツと分類して数時間もすると、疲れ切って、よく足腰が立たなくなった。時どき、水ぐらいは飲まなければ、と思うものの、思いは整理のほうに集中しているので、心身ともに、そんなちょっとした切りかえさえ容易にはできなくなってしまう。多量の本の整理の場合も、大きさで揃えたり、内容で揃え直したりを試行錯誤しながら繰り返すうち、頭がなにも考えられなくなっていく。ある程度の整理が終わると、掃除機を持ってきて小さなゴミを取り、また次の作業にかかる。こんなことが延々と続いた。しかも、自分自身の生活のほうでは、期限のある厄介な仕事をいくつも抱えている上、家事もあって、エレーヌの遺品の整理で疲れ切って帰っても、すぐに寝ることなどできなかった。

私は、今でもこの時期を“静かなひとりだけの地獄の10か月”と呼んでいるが、亡くなったエレーヌの思い出に悠長に耽っていられる彼女の友人たちとは、ここを境に、まったく別の心境に入っていったのを認識している。誰ひとり手助けにも来ないエレーヌのフランスの親族への憎悪は言い表せないほどだったし、のんびりとエレーヌ喪失の悲しみに浸っているだけのお友だちたちへの不快感も、言語を絶していた。エレーヌへの私自身の哀惜の思いも、もちろん強かった。そうした様々な感情や思念を内部にすべて抱えて、しかも圧し隠しながら、遺品の現実的な肉体労働に貴重な時間を浪費していくのは、苦役以外の何物でもなかった。エレーヌの大病や死の衝撃はもちろん大きかったが、その後に私個人を襲った時間的・肉体的な損害にもきわめて大きなものがあった。

2011年に入ると、エレーヌの遺品整理に纏わる心労や過労はいっそう耐えがたくなり、街を歩いていたり、どこに行ったりしても、普通の生活を営んでいるかに見える世間の人々が不愉快に映ってしかたがなかった。私は時に、なにか世の中がひっくり返るような大事件が起こってしまえばいいのに、と強く念じるようにもなった。いくらエレーヌのこととはいえ、ここまで、こんな非生産的な下らない物品整理や様々な手続きなどで、どうして長々と煩わされねばならないのか、どうして自分自身の生を奪われ続けなければならないのか(事実、フランスの友人たちは、エレーヌのことは残念だったが、しかしもう忘れて、「あなた自身の人生に戻るべきだ」と助言してきていた。これがフランス人流なのか、と再発見させられたものだった…)、そんなふうに、どうしても思いは募ってしまった。私は、そんな自分の心境を観察しながら、こんなふうに、予想もしなかったきっかけから、人の心というものは怨霊のようになっていくのか、こういうこともあるというわけか、と心の推移を追い続けていた。
東日本大震災が起こったのは、そんな時だった。ちょうど確定申告の時期で、自分の申告だけでなく、亡くなったエレーヌの面倒な申告書も、一週間ほどかけて神経を擦り切らしながら作成し、ようやく終わって午前中に提出を終えた、その午後のことだった。
あのような大災害に際して抱く感慨としては不謹慎なものながら、しかし、私は、あゝ、ちゃんと運命の均衡は取られるものなのだ、不幸なのは私だけではない、不幸が他の人たちにも、少しは平等に分かち与えられたのだ…と、一気に心が晴れるような気持ちになった。あの大災害の起こった夕方からその後の期間、私は、自分ひとりが…という苦痛から解放されて、急速に晴れ晴れとした心持ちになっていった。津波被害や地震被害の後のさまざまな光景が、私が毎日ひとりで時間を費やしているエレーヌの新居の中の混乱ぶりや一種の廃墟ぶりと重なって、東北にも、私と気持ちを分かち合える人びとがたくさん出現した、と感じた。

こう記したところで、私に起こったことのほんの一端を記すにすぎない。私にとって確かなのは、5年前の今日、エレーヌのことに深く関係しながらも、誰ひとり分かち合える者のいない、私ひとりだけの孤独な物語が始まった、ということだった。
エレーヌに関わる厖大な塵労のこの個人的な物語は、じつはまだまだ幕を閉じていない。今日もこれから支払いに赴くが、エレーヌの残した多量の書籍や遺品がまだ数十箱分あり、トランクルームに保管されている。5年間を経ても、月々の出費は続いており、すべてを処分してしまえば済むには違いないものの、そのためには一品ずつ判断を下さねばならず、希少価値のあるものも多量に含まれている以上、手放すにしても然るべき人や業者の手に渡るように配慮したくもある。しかしながら、ゆっくりそうした作業のできる時間は私には全くなく、ある意味、仕方なしに保管だけが続けられている。
エレーヌのすべてはとうに終わってしまっている、とも言えるかもしれないが、少なくとも私にとっては、まだまだなにも終わっていない、とも言える。


今日は、こんな5年目の、エレーヌの命日である。



2015/10/06

2010年の9月・10月の頃、ふたたび。




 
 
   駿河 昌樹
  (Masaki SURUGA)



 これは、2010年9月17日のエレーヌ。
 来客があって、楽しそうにしている。痩せているが、まなざしも生き生きして、元気そうに見える。

 8月30日に退院してからは、家で療養に励んでいた。
 彼女の回復を願う私や友人たちは、とにかく、ビタミンとタンパク質をしっかりとり続け、筋肉をつけるように、近所の散歩も含めた適切な運動を少しずつ行い、ムリにならない程度に家事も行って、後は休息をとるように勧めていた。
 体力がどうしても落ちているので、しかたないとは言え、実際にはエレーヌは、良質の食事をとる努力はあまりしていなかった。ビタミンCを少しでも多く摂るように、と思ってはいても、胃の不快感があり、あまり食べる気にはならなかったらしい。9月8日(水)の私の手帳には、エレーヌと電話した後の記録がこう記されている。「胃の調子よくない。昨日、嘔吐。夜、胸やけ。家のまわりを歩いている。腹を温め、足湯をするように勧める…」。
 前年の手術で、卵巣と子宮を切除し、ガンが広がっていた腹内の脂肪の大網も切除していたが、エレーヌから胃の不調を聞くたび、胃腸へのガン転移が起こっていないかと心配になった。病院での治療中に逆流性の胃炎が起こっていたので、そこから来た不快感かとも思われたが、いずれにしても、本人としては、あまり積極的に食べる気になれないような感覚が胃には起こっていた。
 この時期、私個人としては、仮にガンの転移や増殖があったとしても、それを根絶するのを考えずに、共生していくような方向を採るしかないと考えており、医療センターの医師も、エレーヌの体力を考えればその方向で行くしかないとの見解だったように思う。
 そうなると、少しでも栄養をつけてもらわねばならないのだが、胃の不快感がこの点で妨げとなってしまっていた。
 ガンが低体温を好むというのはよく知られてきているが、エレーヌはもともと体温が低いたちなので、体温が少しでも上がるよう、筋肉ももっとつけてもらいたかったが、この方向でも、思うようには進んでいかなかった。

 2010年9月や10月は、さまざまなことが、忙しく、慌ただしく錯綜していて、なかなか簡単に記すことができない。エレーヌのガン治療と療養をよりよいものにするために、医療機関を替えるのを予定していたし、そのための引っ越し計画も進めていた。エレーヌ本人はもちろん病身で大変だったが、事務的な統括はすべて私が行っていたし、引っ越し先によさそうな物件を調べてはいちいち不動産やURと折り合いをつけて下見に行くのも私で、毎週、エレーヌの家に見舞いに行く他は、物件めぐりに費やしていた。自分の仕事もその準備もあいかわらず忙しかったので、毎日、3,4時間も眠れればいいほうだった。
 エレーヌの家に行く時でも行かない時でも、日々の生活の全時間が、いわばエレーヌによって占められていたわけだが、エレーヌのほうは実際は、あまり私に対しては協力的ではなかった。エレーヌの家に行けない時には、彼女の体調を電話やメールで知りたかったのだが、こちらから電話して聞かないかぎり、全く情報を上げて来てくれない。状態が大丈夫なら、大丈夫だということを簡単に伝えてほしい、と何度となくくり返しても、たった数行のメールさえ来ない。食事でなにが摂取できているのか、できていなのか、そんなこともこちらとしては常に頭の中で把握しておきたいのだが、こちらが家に行ったり、電話したりしないかぎりは、ほぼ、全くといって知りえない。エレーヌの家に見舞っている友人たちからさえ、なにも情報は入ってこなかった。
 体や意識全般が、なにかと自分の思い通りにならなくなっていく病気のせいもあろうが、見舞いや介護にエレーヌの家に行っていっしょに居る時も、いろいろと齟齬が生じたり、私をないがしろにしたりする態度が募った。あまり会わない他の人たちには、ずいぶん楽しそうに話したり、会ったりするにもかかわらず、いちばん世話をしている私には、ぶっきらぼうになったり、失礼だったりすることがあった。これは、私だけに対してではなく、同じように身近に接する機会の多い友人たちに対しても見られた。重病人が示す態度のひとつなのかもしれないが、これは、いちばん疲れる世話をし続けている者たちにとって、心の底が崩れ落ちていくような落胆を齎す現象といえる。
 しかも、エレーヌのことで一切動こうともしないフランスの親族の態度には、表向き冷静に対処しつつも、さすがに腹に据えかねるものが募った。私はまだいいとしても、母や妻の苛立ちは大変なもので、母は、自分の息子を過酷な隷属状態に落し込んだエレーヌを呪わんばかりだった。それに対して、私が、とにかく大病の緊急事態だから、と抗弁すると電話口では必ず喧嘩になり、2010年の夏以降、エレーヌが死ぬまでは、私と母は絶交状態になった。妻も妻で、2009年以来、家庭の普通の暮らしが一切失われた原因となったエレーヌの存在になんとか耐えていたが、それでも、私がエレーヌの見舞いから24時を過ぎて帰宅したりするのをくり返すのを見ると、こんな状態で私の身が持つのかという話に当然なっていく。それを私が黙らせたり、激しい返答をしないように黙ったりすると、さすがに、こちらはこちらで家庭が崩壊していく寸前の雰囲気になっていっていた。
 今だから記しておくが、こんなふうにともに耐えてきていた妻に、彼女のせいでエレーヌが病気になったのではないか…といった内容の話をした人たちもいた。

 手帳の10月11日のページには、「エレーヌにも、人にも、そう見えずとも、理解されずとも、そのつど効果的に迅速に的確にエレーヌを救う算段を、裏で続けていく態度でいよう。まるで影の救済者のように」と、自分の心境を吐露したメモ書きがある。
 前日の10日には、北区への引っ越しを頼んだ引っ越し屋が見積もりに来る用事があったので、エレーヌの家に長く居たが、その際によほどがっかりさせられることがあって、翌日にこんなメモを書きつけたのだろう。よく覚えているが、このメモをした時、私は心の中で、もうエレーヌの心から離れようとしていた。心の中では離れつつ、身体的・社会的な世話だけをしていこうと思ったのだった。
 今になってふり返ると、自分のことというより、ドラマの登場人物のひとりを客観的に眺めるように見直せる。わがままに、理不尽になっていく病人に、よく耐えたものだと思いさえする。
 そういう私の決意に呼応するように、次の日の12日には、エレーヌは急速に体の硬直や浮腫みの再発に陥る。歩行も起き上がりも困難になり出し、13日には介護ベッドが運び込まれることになる。19日(火)には、妻が駒沢の医療センターの医師に電話して緊急入院を頼み込み、20日(水)、仕事で身動きが取れない私にかわって、やはり妻が、わざわざ朝にエレーヌの家まで出向いて、エレーヌの友人の慶子さんや動物病院のアイリスさんとともに、駒沢の医療センターに連れていくことになる。私もその日の夕方、勤め先から病院に向かい、エレーヌの様子を見たが、ひとりでベッドから起きる力はもう無く、ベッドの上で位置を変える力もなく、トイレに連れて行って排便させたり、歯磨きをさせたりした。
 それから31日の死までは、エレーヌは一直線の衰弱過程をたどって行くことになった。

 エレーヌが最後の入院をしたこの20日、私は天界にいるような夢をはっきり見た。天使たちが太鼓のようなものをいっぱい並べて、そこで忙しく立ち働き、お互いに仕事を分担しあっている夢がひとつ。もうひとつは、大きな病院の上から、下の庭を眺めている夢で、病院の広大な庭には、見知った医師たちや私の友人の医師などが楽しそうにしているのが見えた。そこに私も下りて行って、合流しようかな、と思ったところで、目が覚めた。