2016/10/09

10月31日、6度目の命日

カタリ派終焉の地、モンセギュールにて。
同じく、モンセギュール山頂にて。皆既日食の時に。

                                                                            駿河 昌樹


 エレーヌが逝ってから6年になろうとしている。
 ずいぶん経ったような気がするが、時間などというものは、もう関係ない感じもする。そういう感じのほうが強い。

 エレーヌについて、いろいろなことを考えたし、思い出しもしたし、今もし続けているけれど、それらを、こと細かに記す必要も、もうないかな、と思う。
死んだ人のことを考えたり、思い出したりすると、気分はすぐに、「哀しさ」や「はかなさ」モードに入っていってしまう。ぼくらの心を染めている日本文化は、そういうモードがお得意でもある。なんでも、「~かなし」「~寂し」「~わびし」で纏めていくのが日本文化だ。
けれど、ひとりの人の存在や思い出は、そんなモードとは違う部分でいっぱいだったはずだから、人のことを思い出したり、考えたりするのは、じつは本当にむずかしい。

最期の一年半、エレーヌの人生は病気で染まったけれども、それ以外の67年間、いっさいの病気とは無縁だったのを思えば、晩年の治療生活のイメージを通してエレーヌを見ようとするのは間違っている。しかも、家族や結婚に縛られるのを嫌って、ぼくがかたわらに居ようとも、実質的な独身っぽさを手放そうとはしなかった生活ぶりを思えば、あまり、ぼくが物語的につべこべ拘束しようとするのも間違っているだろう。ぼくにしても、いろいろ記録することで、エレーヌのイメージを固定させようと思っているわけではないのだが、話される言葉、記される言葉、伝えられる言葉には、そういう性質がどうしてもある。
話をしていると、エレーヌはすぐ、「それは違います」「あなたにはわかっていません」という反論をしてきたが、彼女についてぼくが書くことのいちいちにも、こんな反論が聞こえてきている気はしている。
でも、しょうがないんだ。
死人に口無し、っていうのさ。
心の中でそう言いながら、ぼくは記し続けてきたし、思い出し続けてきた。
死ぬっていうことは、100パーセント、されるがままのオブジェにされること、素材にされ切ってしまうこと。
それも、粋ってもんじゃないかい、エレーヌ?

エレーヌを思うと、昨今は、東京の変化というものを思う。

今年は、新宿南口の紀伊国屋書店が引きはらうことになってしまったが、洋書のフロアだけは残されたので、エレーヌが毎週のように通った洋書フロアはまだ残っている。
仕事帰りの夕方に寄るので、足腰が疲れて、よくフロアに腰を下して、座った姿勢で読んでいたことがあった。今は、椅子がいくつか置かれるようになったので、エレーヌがいたら、きっとどれかに座って、長々と読み耽っていたことだろう。
紀伊国屋書店とともに、毎週の寄り道先だったフランス語書籍専門店のフランス図書は、とうの昔に店仕舞いしてしまった。小さな店内の奥にはソファがあり、そこで、学術書や文芸批評・研究書籍をゆっくり手に取って見られてよかった。エレーヌとは、よくそこで待ち合わせをした。

フランス図書や紀伊国屋書店をハシゴしてから、けっこう疲れ切り、空腹にもなって、駅地下のトンカツ屋あたりで夕食を食べることが多かった。エレーヌはふだん、あまり肉を食べなかったが、トンカツはキャベツがおかわりできるので、けっこうお気に入りだった。ヒレカツを取り、衣をぜんぶ外して、肉の部分だけ食べる。キャベツは二度も三度もおかわりする。味噌汁は飲む。ご飯は半分程度食べて、残りはぼくにくれる。カツも、半分ほどだけ食べる。けっきょく、それほど食べないのだが、エレーヌにはこれだけで十分だった。
新宿西口地下には、催し物用の広いスペースがあって、古本を売っていたり、鞄などを売っていたり、物産展をやっていたりすることがあり、たいていのものにはエレーヌはさほど興味を示さなかったが、傘にはけっこう関心があった。
リュックが濡れないですむほどの大きな傘がほしくて、あれこれ選んだことがある。エレーヌには大き過ぎるほどの傘を買って、これでどんな雨でも大丈夫だと喜んでいたことがあった。二三度は、そんな大傘を買ったように思う。

渋谷も激変しつつある。
エレーヌの渋谷といえば、なによりも東急プラザで、確か5Fだったと思うが、やはり紀伊国屋書店は行きつけの場所だった。あそこにはフランス書籍はほとんどないが、雑誌や新聞はいくらかあって、主要な雑誌をよくあそこで立ち読みしていた。
レストランフロアのニュートーキョーだったか、そこでの釜めしや焼き鳥程度の食事がエレーヌには便利で、よく行くわけではないものの、ちょっとした集まりに利用することがあった。2010年秋、王子への引っ越し契約にUR営業所を訪れた際の最後の会食も、ここでだった。
2005年頃だったか、彼女の元フィアンセがちょっと渋谷に寄った際にも、ここで夕食を取っていた。
そんな東急プラザも、今はすっかり取り壊されて、毎日けたたましい音の響き続ける工事現場に様変わりしている。渋谷駅も、その周辺も、大がかりな工事中で、この光景の中に立つと、6年経っただけでこんなに変わってしまうのかと思わされる。『方丈記』や『徒然草』に通じる無常観が、現代の空気の中にはあたり前に漂っている。

68歳で亡くなったエレーヌも、6年経った今ともなれば、生きていれば74や75になるのか、と思う。
68で亡くなるのではまだまだ若いと思わされるが、75にもなってくると、いろいろ支障も出てくると考えるのが常識だろう。ガンに罹りさえしなければ、誰より丈夫であり続けたはずのエレーヌだが、そういう彼女でも、さすがに75から80にかけての年齢ともなってくれば、少しは疲れてくるだろう…と思われてくる。
そんなことを思いながら、週に何度か、買い物に行くついでに、エレーヌのために契約して準備したURの部屋がある建物の前を通る。11階の見晴らしのいい部屋で、遠くに六本木ヒルズまで見渡せるところだったが、そこを見上げながら、もしそこにエレーヌが住んでいたら、こんな秋の日、商店街にいっしょに買い物に行ったりしただろうか、とか、あたりの猫と友だちになったりしていただろうか、とか、考える。

住めば、エレーヌが見ることになったであろう風景

エレーヌが使うことになったはずの台所。
11階まではエレベーターがあるから、車イスを使うようになっても不便ではなかっただろうし、この数年、この住宅の高年齢者が増えたこともあって、手すり付けやスロープの変更などの配慮が充実してきてもいるので、やはり住んで悪くはなかっただろうと思う。
2010年2月、方々の引っ越し先を内覧中のエレーヌ。
4月に体調が急変する前のこの頃、調子はよく、
病気はこのまま治っていくかと思われた。

やはり、2010年2月、契約した物件ではないが、
その近くの王子神谷の他の物件を見ながら。

今年の9月、エレーヌの住んだ界隈へ、ひさしぶりにセンチメンタル・ジャーニーしてきた。
下北沢で下り、遊歩道を通りながら、代田へ。途中、信濃屋を覗いて、チーズの塊なんかを買い込んだりもして。
エレーヌが毎晩、野良猫たちにエサをやっていた小公園にも寄って、猫たちが集まっていたベンチをしばらく眺めたり、変わったもの、変わらないものを確かめたりした。





そこからしばらく上り坂。林で囲まれた駐車場があるが、そのあたりに昔、グレゴワールというオスの野良猫がいた。



エレーヌがあれほどの猫好きになるきっかけのひとつとなった一匹。早くても遅くても、帰宅頃にはいつもこの猫が駐車場付近で待っていて、エレーヌに撫でてもらい、家までいっしょにとことこついてきて、玄関先でエサをもらう。姿が見えない時には、「グレゴワールちゃん、今日はどうしましたか?」と言って、見まわしたりした。クリスマスや正月には、トロの切り落としを持って来てやって、ご馳走したりしていた。
2016年の秋の夕方、もちろんグレゴワールの姿はなく、他の野良猫の姿さえなくて、あたりはひっそりしていたが、1990年代のこのあたりの様子やエレーヌの様子が、細かく、いろいろな時のいろいろな光景のまま浮かんできた。

京都にて。偶然出会った猫と。

エレーヌの旧宅の路地へ

エレーヌ旧宅路地

左側の塀の上も、右側の塀の上も、外猫ミミの縄張りだった。

エレーヌの住んでいた家に行くと、暑い夕方だったこともあって、後に住み出した住人が台所の窓を大きく開けている。台所と奥の6畳間が少し覗けて、夫婦だろうか、中年の男女の姿があった。



エレーヌがカレンダーや仏像の写真を掛けていたあたりには、この人たちはなにも掛けておらず、白い壁がそのままになっている。
20世紀の終わりまで、夏や初秋の暑い夕方には、こんなふうにエレーヌやぼくのことも外からは見られたのだろうか。そう思いながら、あまり覗き込むようなことはしないまでも、エレーヌの旧家前をふらふらと行ったり来たりした。

空き地だった隣りにはマンションが立ち、家の玄関側にいっぱいだったツツジの植え込みはなぜか抜かれてしまって、すこし様変わりしてしまったが、付近の家のブロック塀は昔のままで、古くなったものだから、苔や汚れでずいぶん凄い様相を呈しているところもあるが、それらは、エレーヌやぼくの飼い猫同然だった外猫ミミが、毎日、飛び跳ねたり、とことこ歩きまわったりしたお馴染みのブロック塀だった。ミミはよく、大きな通りのブロック塀の上でぼくらの帰宅を待っていて、ぼくらが家の細い通りに入ってくると、塀の上をとことこ歩き、離れているところはピョンと飛んで、家の敷地に飛び降りて、ぼくらより先に玄関前に着いて、ちょこなんと立っているのだった。

「時間などというものは、もう関係ない感じもする」と、この文のはじめに書いたが、こんなふうに、起こったことのすべてが見え続けているので、時間が経ったと思っても、思わなくても、どうでもいいという感じがつよい。開高健などは『戦場の博物誌』あたりで、こんな感覚を、今も「ある」という視点で纏めたものだったが、今のぼくは、「ある」とか「ない」とかいう言葉遊び、レッテルづけ遊びは、もうどうでもいい感じがしている。

 言葉で言おうとすれば固着する。もう、言葉は捨てよう、と思ったりする。



2016/01/08

エレーヌの元婚約者のことなど


  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA) 


  エレーヌと暮らしていた頃、元日は、近くの下北沢や渋谷に歩きに出たりした。
  しかし、今と違って元日には店の多くは休んでいて、ちょっとなにか外で食べるにも苦労するし、ろくな喫茶店もないしで、結局、日が暮れてからロッテリアあたりに入って、つまらないものを食べることがあった。ハンバーガーを食べるが、これが旨くない。コーヒーも不味くて、「ピピ・ド・シャ」だと、よくエレーヌは言った。これは「猫のおしっこ」という意味で、不味い飲み物のことを言う。
 まわりを見まわすと、金まわりの悪そうな若者たちばかりで、なんだかなァ、と思った。私も若かったし、もちろん裕福でもなかったけれど、元日ぐらいは、もう少しまともな店でコーヒーを飲みたいと思った。しかし、当時は元日というと、本当に、まともな店はみな休んでいるので、チープな内装のファーストフードぐらいしか選択肢がなかったのだ
 エレーヌはしかし、こういう気取らない休息が気に入っていた。クリスマスにも、よく、ケンタッキーでディナーをした。店に入って、から揚げをひとり宛二三本買い、ガレットみたいなパンを買い、コーヒーを買って、クリスマス・ディナーとする。ビニールシートのイスに座り、クリスマスの曲が流れ続ける中で、似たようにシンプルな気取らない夕食を好む他の若い客たちに交じって、いつもと同じように、文学のことや哲学のこと、神秘主義やオカルトのことを話し続ける。
 食べ終わると、これもいつものように、彼女は煙草のゴロワーズかジタンを出し、何本も吸い始める。当時は禁煙などというものはなかったから、ケンタッキーであろうとロッテリアであろうと、ミスター・ドーナッツであろうと、誰もが平気で煙草を吸っていた。
 クリスマス・ディナーは、下北沢のロッテリアでやったこともある。確か、彼女が、フランス語を教えている金持ちのマダムたちのクリスマス会を断って帰ってきた時で、お金持ちのマダムたちといっしょに仕事以外の時にもつき合うのは疲れる、と早々に帰ってきたのだった。その人たちとのつき合いはその後も長く続いたし、雰囲気は悪くなかったはずだが、それでもこんな小さな我儘さがエレーヌの持ち味でもあった。
 ロッテリアではハンバーガーを食べて、コーヒーをもちろん取って、その後はなにかデザートを取ったのではないかと思う。どれもろくなものではないし、たいして旨くはないのだが、ふたりでこんなものを食べながらクリスマスを過ごすというのが楽しかった。世間ではもっとちゃんとしたものを食べたりするのに、ロッテリアで、こんなものを食べてさ、ひどいもんだよね、僕らは、というのが楽しかった。私以上に、なによりエレーヌがこれを楽しんでいた。

 晩年にいっそうはっきりしていくことになったが、彼女には粗衣趣味というようなものがあって、女物を着るのを嫌い、高価なものを着るのを嫌った。もっとも、その頃はまだイッセイ・ミヤケやアニエスb.を好んで着ていたので、この趣味はさほど強く発現してはいなかった。フランスのチベットと言われるロゼール県の山奥の町で生まれ育った、裕福でない家庭の出ということが、こうした好みの根底にはあったのかもしれない。
しかし、いったんパリに出て大学生になってからは、彼女には金持ちの男たちが集まった。19歳の時には、地中海に島をいくつか持ち、城もいくつか持っている初老の男から結婚を申し込まれ、カフェでダイヤの指輪や金のネックレスを差し出された。他の金持ちの老人は、やはりエレーヌに結婚を持ちかけ、金銭面では将来なんの不如意も味あわせない、が、いつも髪を完璧な金髪に染めるのだけは受け入れてくれ、と頼んだという。エレーヌの性格の強さは、自分が愛していない男は全く受け入れないという態度で現われ、その後、たくさんの男たちが拒絶されていくことになる。
そんな中で婚約者になりかけたベトナム人は、よほど素敵な男だったのだろうか。医学部を終え、医師免許を取って、すでにパリでインターンになっており、いずれはベトナムに帰って開業するつもりの若い医師だった。それはそれで悪くなかっただろうが、ベトナム人の習俗がエレーヌには問題だった。ベトナム人はつねに大家族で行動する。結婚したら、エレーヌはベトナムの家族の中に入らねばならず、夫の母や祖母や姉妹たちの中でうまくやらねばならない。それはどうしても受け入れられないということで、彼とは別れることにした。家族のしがらみだけは、彼女にとって、なにがあっても受け入れられない障壁だった。
その後、ベトナム人の後輩のフランス人医学生と知り合い、つき合うようになった。エレーヌはパリ大学在学中、プーシキン研究で修士を取ったり、その後、日本語研究に進んでも、医学部の学食で食事を取ることが多かったようだが、それは、この医学生やその友人たちと食べる機会があったためらしい。

エレーヌのこの新しい恋人、ジャン‐フランソワ・ジュランは、後に、特に心臓を得意とする内科医となる。裕福な家の出身で優秀だったし、パリから遠くない町で開業できる見通しもすでに立っていて、彼はエレーヌを妻に迎えて、地方都市の医師として順風満帆の人生を送って行けるものと思っていた。エレーヌにとっても、悪い環境ではない。医師の奥様として、とりあえずは不足のない人生が保証されていた。ジャン‐フランソワの母とも関係は良好で、威圧的な風を吹かすような姑ではなかった。彼らは婚約し、ヴァカンスにはいっしょに、世界のさまざまなところへ旅に出た。1970年、大阪で万国博覧会が催された時には来日し、万博だけでなく、日本中を旅してまわった。
しかし、ジャン‐フランソワが医師免許を取り、いよいよ開業もして、後は結婚するばかりとなった時、エレーヌは婚約を破棄した。この理由を、機会あるたびに私は聞いたが、どうしても地方の医者の妻に収まるという人生が受け入れられなかった、とエレーヌは言っていた。医師の妻がどういう生活を送るものか、60年代のフランスでは一定のイメージがあった。ブランド品を持って、町の名士の妻に恥じないよう品よく振舞い、家を切り盛りし、夫を助け、子供たちのよき母であること。多くの女たちには願ったりのイメージであるはずだが、エレーヌにはこれが地獄だった。彼女は左翼思想に固まってはいなかったが、それでもこのブルジョワの典型のような人生にだけは嵌りたくなかったらしい。五月革命前後のパリにいて、活動家などでは全くなかったが、一部始終を見続けたような経験が、やはり影響したものだろうか。医師の妻として、平穏に生きていくという道が始まろうとするところで、彼女は自分からその可能性を断ち切ったのだった。
ジャン‐フランソワは、この婚約破棄を受けて、エレーヌに見せしめをするように、すぐに他の女と結婚をした。前から仲睦まじかったのではなかったらしく、衝動的なところのあるものだったらしい。妻となったその女を愛してはいなかったので、数年もしないうちに、クリニックで働く看護婦と不倫関係に陥る。婚姻関係は維持したものの、家庭生活は苦しいものとなった。やがて別居し、彼は看護婦との再婚を望んだが、妻はそれを妨害すべく、離婚に応じようとはしなかった。60歳も過ぎた頃の彼が日本に来る時、私はエレーヌに頼まれて、何度か彼のためにホテルの手配をしたことがある。その頃でも、そろそろ妻が離婚に応じてくれるかもしれない、といった状態だった。ジュラン医師は、医者としては成功したものの、結婚生活はずっと暗雲の中だった。

そんなジャン‐フランソワの相談事を時どき聞きながら、エレーヌはパリで図書館員として働き、ロシア語、英語、ドイツ語、アラビア語、日本語などを学び続けた。1977年、パリ東洋語学校教授ジャン‐ジャック・オリガスJean-Jacques Origasの強い推薦を受け、東京に留学させられることになった。駒場の東大教養学部脇にある留学生会館に住むことになったが、そこに滞在できるのは一年間だったので、翌年には他の住まいを見つける必要があった。他のふたりのフランス女性とともに三人で、池ノ上の一軒家を借りることができ、そこの二階に住み始めた。
 エレーヌの留学目的は、一応、二葉亭四迷研究だったが、東京に来るとすぐに、彼女はこれに研究上の興味を失った。留学生会館の自室にいたある日、彼女は、身のまわりのすべてがホワイトアウトのようになる強烈な光の経験をする。神秘体験と呼ぶべきもので、この瞬間に、二葉亭四迷研究も、日本語の勉強も、日本研究も、すべてが興味から消滅してしまった。元々、彼女の本当の関心は神秘主義やオカルティズムにあったので、それが津波のように押し寄せてきて、意識の前面を領するようになったとも言える。
 とはいえ、二葉亭四迷などについても、本当は、興味を失ったとは言えないだろう。パリに居た時に講義や本だけの情報から研究対象と決めた二葉亭四迷のまわりに、あまりに多くの日本の現実の文物が押し寄せたため、興味の対象が急激に増加し拡大し過ぎたのに違いない。日本の梅雨や湿り気、暑さ、四季、豆腐や納豆などの食べ物と接するうち、かつて自分がこの風土の中にいたことがあると確信するに到り、彼女は奇妙な文化的眩暈の中に入り込むことにもなった。

 この頃から2年ほど経った後、1980年頃、私は初めて、偶然にエレーヌに出会った。しかし、しばらく話した程度で、継続的に会ったりすることもなかった。電話番号だけは聞いていた。
 1983年の春先のある朝のこと、目覚めると、私の頭の中にふいに、「エレーヌさんに電話しろ」という男の声がはっきりと響いた。もちろん、私は訝った。何年も連絡さえ取らなかった外国人にそのような電話をする必要はなかったし、夢を見ているのでもない目覚めた頭の中で、異様な声が響いてきて命令してくるなど、そのまま受け止められるようなことではなかった。この奇妙な命令の通りに行動するわけにも、もちろん、いかなかった。
 しかし、私はすぐに電話した。異常な時の異常な行動だと、今では思う。
 電話にエレーヌが出たので、数年前に会ったことがあるが覚えていますか、と聞くと、覚えていると思います、と言った。誰とでもカフェで話すのが好きだったエレーヌは、それでは、3月18日の夕方なら大丈夫ですから、と言った。
 1983年3月18日、16時に、新宿通りの旧紀伊国屋書店1階で待ちあわせた。
 暖かい日で、私は白いセーターだけで行った。16時よりはやく着き、紀伊国屋ビルの地下にあるトイレに先に寄っておこうと思いながらビルに近づいて行くと、エレーヌが表のエスカレーターを昇って行くのが背後から見えた。まだ時間があるので、洋書の階に行って、少し見てくるつもりだろうか、と思った。

 その時から33年になろうとする。
 昨年12月、新宿通りの紀伊国屋書店に久しぶりに二度行く機会があった。最近は南口の高島屋のほうの店舗に行くことが多く、旧館にはほとんど行かない。店の様子はずいぶん変わったようだが、基本的な構造は昔通りだった。地下のトイレに寄ってみると、少し内装は変わったが、33年前と同じ配置で、特に洗面台の位置や様子は全く変わっていなかった。
 33年前、この洗面台の前に立って、鏡を見ながら、たぶん、髪を直したりしたはずだろう。そうして、16時になろうとする少し前に出て、急いで一階の正面に向かって行ったはずだ。
 長い時間が過ぎた後の紀伊国屋書店で、手洗いから出て、誰と待ち合わせしているのでもない一階の正面に出て行ってみたが、もちろん、エレーヌはいない。見知らぬ人たちが数人立っていて、誰かを待っている。ちょうど互いを見つけ合ったばかりらしい人たちもいて、お辞儀をし合っていた。
 33年前、あの場所であんなふうにしていた私とエレーヌを、傍から、今私がいるあたりから見た人もいたかもしれない。
その時の傍観者はどちらのほうへ歩いていったものだろう。あの後の私とエレーヌの物語など、もちろん、追いもしないで。私のことはともかく、幸福にならないというわけでもなかったはずの結婚を破棄して、わざわざ極東にまで来て、その後2010年まで生きて、東京で死んでいったひとりのフランス女の物語の全容を、全く知りもせずに。
1983年3月18日、41歳のエレーヌ・セシル・グルナック。まだ若い、しかし、同時に、人生のすべてをやり直すにはもう若くない、そんな意識で新宿の紀伊国屋書店の一階正面にやって来ようとする彼女を、見えるわけもないのに、あるいは、見え尽している気でいるのに、私は見出し直そうとして、しばらく佇んだ。



2015/12/13

抗がん剤が実は発がん物質であるらしいこと

  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 エレーヌの闘病、また、ガンによる死去からは、個人的には少なからぬ教訓が得られた。

 そのうちのひとつが、エレーヌの死後にとみに話題になるようになった“ガン治療の嘘”がある。
 ネットで様々な情報が見られるようになった現在、細かいことをここで述べる必要はないだろう。興味のある方は、自分で情報の錯綜したネットの森に分け入り、自分の理性と勘にのみ頼って真偽を探っていったらよい。なにが正しく、なにが間違っているか。それは、自分の頭と体で突きつめていくしかない。
 医療に関わることでもあり、ひとりひとりの自己判断に任されるべきことであるため、これについては私はなにも書かないが、以下に引用するような情報を多量に渉猟した結果として、私個人としては、仮に自分がガンになった場合にも、断じて抗がん剤は使わない決意をするようになった(白血病などの場合は有効のようだし、周囲に実際の成功例を見ている)。

 当時、私自身にも、まだ医師を多少は信じる部分が残っていたため、エレーヌにこうした見地からの助言をつよくできなかったのが残念である。

 ガンが発見された時点で、医師はエレーヌに余命3か月を告げた。
 こうした宣告の内容(つねに「余命3か月」だったり「半年」だったりする)が本当だったとすれば、心身の不快を強め、苦しみを募らせるばかりの抗がん剤投与は、そもそも避けるべきはずだが、抗がん剤投与を行った医師の判断にはじつは大きな矛盾があった。
 この時点で、ガンをめぐる日本の医師たちの曖昧さや悪意を読み取るべきだったが、そこまで冷酷に医師たちを判定することを私は怠ってしまった。

 日本の医師たちだけではない。エレーヌのかつての婚約者である(彼女と同世代の)医師も、彼女に施された抗がん剤治療や手術が妥当だと言っていたので、フランスでも事態はそう変わらなかっただろう。
 つまりは、彼女のかつての婚約者もありきたりの並の医師に過ぎなかったということで、そんな人物がエレーヌの治療に少なからぬ影響を与えてしまったのを、今にすれば、やはり残念に思う。


 [以下、引用]
http://cancer-treatment-with-diet-cure.doorblog.jp/archives/47146544.html

 WHO の発表 抗がん剤が実は発がん物質だった!
 

   癌と食養 自然療法による癌治療
    WHOの公式発表による、癌の原因となる「116種類の要因」
    【「116の一覧」の中に「抗がん剤」がいくつも入っています!「抗がん剤」が癌の原因になる証拠!】


 WHO(世界保健機関)が「癌の原因」となる「116種類の要因」を公式に発表したようです。
 この「116の一覧」の中には、何と「抗がん剤」がいくつも入っています。
 「抗がん剤」は、それ自体が発癌性物質と言い切ってるように思えますね。
 WHOが正式に発表したとなると、なお一層、現実味を帯びて生々しく響いてきます。

 『癌患者の癌を癌患者に悟られないように増癌させ、癌がどうにもならなくなるように仕向け、
  こうしてズルズルと、無知な癌患者から高額医療費を請求しなければ、病院は黒字にならない。

 ということでしょう。

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 癌患者が「抗がん剤」をやった結果、癌が治らなくなってどうにもならなくなり、
 苦しもうが、泣き叫ぼうが、地獄を見ようが、病院はお金が入れば、それで OK です。

 それが証拠に、ほとんどのガン専門医は、この「抗がん剤の正体」をよく知っているため、
 自分や家族が癌になった時には「抗がん剤」などまず使用しません。

 『ガンの特効薬』であるはずの「抗がん剤」が、実は「ガンを増幅させて」います。
 つまり「抗がん剤」は「ガンを悪化させるために投与されている」のです。
 初期癌を末期癌に変えるために投与されているのです。
 ステージ1のガンを、ステージ4のガンに変えるために投与されているのです。

 「抗がん剤」は、最初から「ガン患者を殺す為に開発され、実際に大勢の人を殺してきた」のです。
 ガンを『恐怖の難病死病』とカン違いさせるために!
 その努力があって、日本人の多くはガンを『恐怖の難病死病』と信じ込んでいます。


 全員が全員、このような医者ではないでしょうが、病院も企業です。
 毎月、各学部長が集まり、会議があります。
 何の会議かと言うと、ドラマの様な症例報告でもなく、カンファレンスでもなく、
 「営業報告会議」、または「収支報告会議」です。

 『え~っ! 循環器科、○○ 円、先月に引き続き、○○○ の赤字‥、
  学部長、来月から、もっと検査入院・検査カテーテルを増やすように!

 と、事務長からお叱りとアドバイスを頂きます。

 そして、部下に伝達が渡り、
 来月から、必要なのか必要でないのか意味不明な患者様がぞくぞくと不安な顔で検査に参ります。
 心臓カテーテル検査がどんなものか想像できますか?

 まず、太ももの付け根から太ーいカテーテルを突き刺し、心臓まで管を通し検査するんですけど。
 文字にすると簡単に聞こえますね。
 けぇ~ど、足の付け根からふっとい注射をさされ、心臓をいじくりまわされるんです。
 それも、本当に病気なのか分からないのに。

 医者から「心臓の機能が問題あるかも」と言われたら、誰でも不安になりますよね。
 「先生、お願いします」になります。
 けど、私は「セカンド・オピニオン」をおススメします。
 そういう営業の医者は結構な、いや、大多数いると考えてもいいです。
 みな、本来、そういう医者ではないと思いますが、なんせ(病院・医療機関とは)強烈な縦社会の白い巨塔。

 風邪で受診しても、頼んでもないのに大量の薬。
 「これだけでいいです」と言うと(医者の)露骨な嫌な態度。
 いや、そんなのマシかもしれませんね。

 医者の言うことは話半分で聞き、「セカンド・オピニオン」をおススメします。
 まぁ、「セカンド・オピニオン」も同じ可能性もありますが‥。


 「抗がん剤治療」も、営業です。
 「最低、何クールするのですか?」、それだけ(その癌患者を)病院にとどめて置くことができます。
 長期になり、さらに(その癌患者の癌の)状態が悪化してくれたら、もっと高価な薬や治療もすることができます。
 一般の人は「ドラマみたい~」と思いましょうが、真実なんです。

 元看護師の独り言でした。


2015/12/12

エレーヌとの年末年始一景









          (パンの写真はルヴァンのHPより借用)



  駿河昌樹
 (Masaki SURUGA)


 1980年代、正月には無農薬の食材や無添加の食品を買うことにしている店が閉まってしまうので、エレーヌと私にとって、年末の買い出しはそれなりに忙しかった。
 私たちが夕食で食べるのは、山盛りのサラダ、ほとんど味なしの根菜類蒸し(ほとんど水を加えずに、密閉した鍋の中で野菜から出る水分だけで蒸すもの。食べる時はそこに塩や胡椒をかける)、白身魚やササミに簡単に熱を加えたもの、さらに、玄米や蕎麦粒、ハト麦、インディアンの食べるワイルド・ライスなどだったが、昼食や勤め先に持って行くランチとしては、全粒粉を使って焼いた重く固い角パン、パン・ド・カンパーニュ、ライ麦パンなどが多く、これらはたいてい、下北沢のナチュラルハウスで買っていた。たしか、ルヴァンという製パン所から入荷するものが中心だった。やはり下北沢にあった、サン・ジェルマンのパン・コンプレも定番だった。
 1980年代の正月頃は、商店街の店が3日も4日も休んでしまうのがふつうで、店が始まっても商品が揃わないことも多い。私たちが食べていた欧風のパンは、大量生産でないこともあって、年明け一週間ほどしても、まだ入荷しないこともあった。
 そのため、年末の30日や31日には、これらのパンをたくさん買い集めるのが大事になる。生産は29日頃で終わるので、30日頃にだいたいは手に入れ、31日には売れ残りを予備のために買い集めるという感じだった。
 なにぶん品数が少ないので、クリスマス前には予約を入れておく。だいたい、ふたりで一日250グラムから300グラムを食べる計算で、1500グラムぐらいの分量以上を買っておく必要があった。そうすると、当時一般的だった250グラムの塊を6袋は買っておく必要があり、これが、他の買い物と合わせるとなかなか嵩張った。下北沢で買い物をすると、池ノ上に住んでいた私たちは、買い物袋を提げて15分から20分ほどかけて歩いて帰って行ったものだが、年末の買い物でなくとも、レジ袋の取っ手が細く捩じれて掌に食い込むほど重い量を提げて帰っていくことは多かった。
 正月の食事も、私とエレーヌの場合、いつも通りでほとんど変わらなかった。一年を通じて、朝はフルーツ、ヨーグルト、コーヒー、全粒粉パン、ソビエトやオーストラリアやニュージーランドの蜂蜜、値段の高めの輸入ジャムなどだったが、正月も同じで、雑煮やおせちが加わることはなかった。
 エレーヌは確かに、豆腐や納豆などの日本食が大好きだったが、実際に自宅で食べる様式は、けっして日本式ではなかった。白米は嫌いではないが、家には一切なかったし、味噌汁は好きだったが、作らなかったし、そもそも味噌を買わなかった。焼魚は好きだったが、私が焼いてやらないかぎり自分では作らなかった。漬物は食べなかった。懐石料理も天ぷらも好まなかったし、日本風の洋食も好まなかったし、鰻は嫌いではなかったが、あの脂っこさが苦手で、半分も食べれば十分だったし、だいたい御飯のあの量には辟易していた。
 こんなふうにふり返ると、エレーヌの日本食好きは、じつは豆腐や納豆、少量の蕎麦、魚料理などに限られていたのがわかる。それらを、サラダや蒸し野菜、全粒粉のパンに合わせて食べるのを好んだのだから、全体としては日本食とは言えない、エレーヌ流の無国籍な食べ方になっていた。
 2000年以降、エレーヌが肉食やカレー、ファミレスの料理などを意外と好んでいた、と言う友人たちがいる。私は疑わしく思っている。というのも、そうした外食の後、エレーヌは私に、「たまに外食する時は悪いものも食べます」などと言っていたからで、あくまで相手に合わせてのことだったからだ。不機嫌な顔を惜しげもなく見せられる私のような相手と食べる時、エレーヌは食べるものの内容にうるさく、脂ぎったものや栄養価の低いものを極力避けようとした。いっしょに旅行する時にはこれがよく難儀の元となったし、都内でちょっと買い物に出たり、映画やコンサートの帰りなどに食べる際にも問題となり、どこのレストランに入るのも嫌がるので、私のほうが怒って、もういいから、食べないで帰ろう、などとなることもたびたびだった。ガン宣告をされる頃まで、これは変わらなかった。そのため、同じ時期に、他の友人たちと洋食ふうのレストランに平気で入っているエレーヌの話は、私にはほとんどフィクションのようにしか受けとめられなかった。
 とても際立った、はっきりした個性の持ち主であるエレーヌだったが、ずいぶんと自己を殺して相手に合わせる部分も大きく、食事ひとつにもこんな演技を続けていたということなのか、と思う。
 2000年に入ってから、別に住むことにしたエレーヌの家の寝室の奥に、ワインやビール缶などがたくさん貯め込まれるようになったのに気づき、エレーヌに理由を聞いたことがある。ワインにしてもビールにしても、エレーヌはせいぜいレストランで、その場の雰囲気上のつき合いで、ひとくち口をつける程度で、家でひとりで飲もうとまで思うようなことは一度もなかったからだ。家に来る友だちがビールやワインが好きなので、用意しておいている、その人たちの家に行く時には持って行く、とエレーヌは言っていた。
 そこまで、まわりの“お友だち”に合わせないといけないほど、日本社会の中でひとりきりになるのを恐れているのか、そんな必要はないのに、と私は思ったが、こういうのがエレーヌでもあった。

2015/12/06

人づきあいもガンの理由

     
末期ガン宣告の前の桜の頃。
いま見れば、存在の希薄化が感じられるような。


1999年、フランスのトゥール近くの田舎道で。
生涯、自転車はあまり乗れず、水泳もできないできた。
ここで自転車を教え、はじめて長く乗ることができた。

  
 駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)
 

  生まれつき体の丈夫だったエレーヌがガンにかかった理由は、いくつか考えられる。
 なにより、健康への本人の過信。
 そこから来る過労。
 睡眠不足。
 低めの体温。
 体内でひそかに進行していた卵巣の異常。
 すぐに寝つけなくなるような神経質さと過敏さ。
 怒りやすさ。
 他人は気づきづらかったが、けっこう恨みがちで、内に溜め込む性質。
 人づきあい。
 そうして、意外かもしれないが、次々と終わりのない猫たちの世話。

 これらについては、以前からメモしておきたいと思ってきたが、時間がないので書けないでいる。
 それでも、少しずつ書いてみておこう。

 「人づきあい」については、意外に思われるかもしれない。
それが原因?、と。
 しかし、心身の深い休息のためには、すっかりひとりになる時間を十分持つことが大事だというのは、最近の研究で明らかになった。
 気の合う人としゃべりながら寛ぐのでは、いけない。どんなに仲のよい人が相手であっても、神経は刺激を受けたままになる。完全にひとりになって、対人的な刺激をすべてシャットアウトしなければいけない。そういう時間を、毎日、十分にとらなければならない。毎日が無理でも、週の中で見つけてとらなければいけない。
 エレーヌは、フランス語を教える仕事の場では、たくさんの人たちに会い続けていた。それ自体は問題ない。仕事なので、あたり前のことでもある。オフタイムに、ひとりになる時間を十分にとれさえすれば、かまわない。
 ところが、帰宅後や休日、エレーヌはひとりになる時間が少な過ぎた。
 エレーヌが帰宅すると、なにが起こったか。
フランスや日本の友人たちから電話がひっきりなしにかかってきた。夜には、近所の猫仲間との交流もあった。近所の猫たちにエサをやってまわったり、病気の猫たちを病院に連れて行ったりした。
事務的な電話は短いから、べつにかまわない。しかし、エレーヌには、人生相談の電話のかかってくることが多かった。彼女は精度の高い占い能力を持っていたので、それを知っている友人たちがいろいろな人生上の問題をもちかけてきた。ついでに話をすれば、ひとり相手の電話はすぐに30分を超過する。ひとりが終わると、次がかかってくる。また30分、40分と経つ。電話が終わると、猫の世話に外出したり、帰宅すると、2時や3時頃まで、頼まれた問題の占いに時間を割く。それでいて、朝から仕事に出ないといけないことが多かったので、7時頃には起き出る。そうして、ヨガをやる…
結局、毎日の睡眠時間は3、4時間というのがふつうだった。
なんとなく、かかってくる電話や人づきあいを受け入れ過ぎてしまう。エレーヌにはそんなところがあった。これ以上は無理、と拒否することができない性質だった。
ガンで衰弱して、病院で寝たきりになった時でさえ、フランスの友人や家族から電話が携帯電話にかかり、誰もがエレーヌの心配をして、病状を聞きながらも、30分ぐらいは平気でしゃべり続ける。私がそれを阻止して、病状は私のほうに聞いてきてくれ、と壁を作った時には紛糾した。結局、友人や家族たちはエレーヌにじかにかけ続け、エレーヌを衰弱させ続けた。「電話をかけてくること自体が、私を弱らせるのに、誰もそれがわかっていない」とエレーヌは私に言うのだったが、ならば出なければいいのに、と助言しても、電話に出てしまうエレーヌがいた。

こと、フランス人の友人については、エレーヌは恵まれなかった。フランスにも日本にも、ろくな友人がいなかった。
忙しい日々を送っている彼女に、夜な夜な電話をかけてきて、体力も時間も費やす占いを頼むような友人が、よい友人だろうか。
大病で憔悴している時に、長々と電話をしてくる友人や血縁が、はたしてよき人々だろうか。
こういう点で、どうしようもない友人や血縁にエレーヌは取り囲まれていた。頼られるのを好んでしまうところが、エレーヌにはあったのも事実だろう。いつわりの友情やつながりを、いまひとつ見抜けなかった。エレーヌの弱さが、ここにあった。

日本人のエレーヌの友人たちにも、言いたいことはいっぱいある。
私は、五年間、それをわざと言わないできた。
そろそろ言い始めようと思う。
月曜日から休みなしに金曜日まで働きづめのエレーヌには、完全にひとりになる時間が、誰からも連絡も来ない時間が、もっともっと必要だった。私はそれをわかっていたので、エレーヌから電話がこなければ放ったらかしておくことが多かった。このブログにも時々書いたが、1983年以降、日本でのエレーヌという人間の演出は、私がすべて行ってきた。演出家が俳優を放ったらかしておくのも、本当にそれが、空白を持つことが必要だとわかっていたからだ。
猫に全く関わらない時間を、ちゃんと確保してもらいたかった。
帰宅してからは、夜、就寝までひとりで、なにもしゃべらずに暮らしてほしかった。
土曜日にヨガを教えに遠出などしないでほしかった。
これが私の本音で、エレーヌが元気な頃から、時々、本人に言ってきていたことだった。
世田谷から神奈川までヨガをやりに行くのが、一週間働きづめの体にとって、どれほど負担になるか。もちろん、エレーヌ自身が理性的に判断すべきことだったが、残念なことには、彼女はそういう点で理性的ではなかった。

猫にかまけたり、遠出してヨガを教えたりするのもいいが、その前に心身を十分休める時間を取ってほしい。
ずっとエレーヌにこう勧めてきたが、彼女は体の耐久度を甘く見ていた。
猫の世話をもっと減らすように勧める私を、心ない冷たい人間だと言うこともあった。猫たちの世話をやめたら、野良猫たちはどうするのか?とエレーヌはよく私を批判した。
「でも、いずれ歳を取ったり、病気になったりして、あなたは、月に何万円も費やすような猫の世話を続けられなくなる。その時、猫たちはどうするの?今のあなたの生活のしかたでは、そういう時が来る可能性がある。未来のその時点での猫たちは、どうするの?今、あなたがもっと世話を縮小して、あなた自身が健康を維持して、少しずつ世話をしていくのだって、悪くないじゃないの?」
 私のこんな反論には、エレーヌはもちろんうまく答えられなかった。
ヨガについては、それをやらない私には理解できない、と言い張った。
とんでもない。80年代、ふたりの住まいをアシュラムのようにして、毎日エレーヌとヨガをやり続けた私が、理解できないはずはない。ヨガもけっこう。でも、たったひとりで、誰もいないところでやったらいいだろう。ヨガはそういう時こそ、本当に聖性を帯びてくる。
私は、エレーヌが続けていたような西海岸ふうの精神世界の流儀を離れて、菜食主義を捨て、ヨガを捨て、ヒッピーふうの共同生活志向を捨て、「なにを飲み、なにを食おうと、思い煩うな」というイエスの教えに、むしろ徹底して素直に従って、全く別の修行に入っていたに過ぎない。繁華な都市のさなかを歩いていても、うるさい工事現場にいても、さまざまな邪念の渦巻く歓楽街にいても、なんの損害も受けない魂にならなければいけない。静かな清浄なところでのみ何者かでありうるような、脆弱な過敏症行者では意味がないのだ。
2000年以降、エレーヌには、ヨガよりもむしろ、歳をとるにつれていっそう必要になる筋肉をつけるトレーニングを勧め、それによって体を温めるのを勧めたが、エレーヌはまじめに受けとらず、やらなかった。ヨガに打ち込んで菜食になった人たちは、まず長生きしない。生物としての人体の条件や本質をもう一度見直すように、というのが私の勧めだった。『バガバッド・ギータ』で、戦争で人を殺すことなど恐れるな、とアルジュナに説いたクリシュナ神のような思いがあった。もちろん、なにをしようと、どう生きようと、どのくらい生き長らえようと、すべては悦ばしき空無にすぎないという前提で、生などはじめから終りまで冗談にすぎないと見越した上でだったが。





2015/11/01

エレーヌ、最後の二週間とその時期の携帯メール

 駿河昌樹
 (Masaki SURUGA)


 2010年10月終わり頃の、死の直前のエレーヌよりの携帯メールを時系列に並べながら、最後の二週間ほどを、私の立場から振り返っておく。
 (このブログの2012年10月27日《2度目の命日にあたって》の2章にも関連記事があるので、参照されたい。)

 8月末の退院以降、エレーヌの調子は比較的よく、食事療法と適切な運動の組み合わせによる療養が目指されていた。長い入院の後での筋力の衰えのため、きびきびと動くことはできないが、最低限の家事や短い散歩などをしていた。
 いっぽう、10月末に北区への引っ越しを決定していたので、引越業者とのやりとりや、旧居の不動産との交渉、新居のUR事務所での手続き、区役所での手続き、固定電話の移転などを進めていた。
 食事療法については、野菜や果実などの新鮮なジュースを毎日作って飲むように勧めていたが、めんどくさがって本人は消極的だった。血中アルブミンの欠乏による浮腫に5か月も苦しめられてきたことから、魚や鶏肉などを摂取してタンパク質を摂るように促したが、食道から胃の不快感のために食は進まなかった。
 
 10月12日(火)
  エレーヌから、歩行や起き上がりの困難を聞く。浮腫や硬直のため。病院でリハビリの運動として教えられたストレッチの手抜きや、足の運動のやり過ぎのためか、と考える。

 10月13日(水)
  エレーヌ宅に介護ベッド搬入。
 
 10月18日(月)
  勤めの後、夜に、渋谷からバスでエレーヌ宅へ。足湯をして温めたりし、マッサージをしてやる。しかし、動くことが困難になっており、病院への再入院が必要と判断する。すでに夜遅いため、明日の朝にアクションを起こすことに。
 エレーヌによれば、日中には古い友人らが来ていたそうだが、その人たちが、急を要するエレーヌの異常を全く見てとらなかったことに驚かされた。固定電話を解約して携帯電話だけにしたほうがどれだけ安くなるかとか、ガンの治療には巨費が必要なのにエレーヌにはどれだけ銀行に残額があるのか、あまり残額がなければもう助からないだろう、といった話だけをして帰ったという。病気で弱まって療養している人のところに来て、長々とこんな話をして帰っていくのが「友だち」なのか?、とエレーヌは私に聞く。 

 10月19日(火) 
 妻が東京医療センターの担当医に電話し、緊急入院の準備をしてもらうことに。世田谷区と北区の介護施設と連絡。フランスのエレーヌの親族たちや友人たち宛てに、緊急入院のことをメールで伝える。
 エレーヌ宅では、友人の中島慶子さんが泊まって、エレーヌに付き添う。

 10月20日(水)
 朝、エレーヌは東京医療センターに再入院。アイリス動物病院の“アイリス先生”こと斎藤都さんと中島慶子さんがエレーヌ宅に向かい、斉藤さんの車で病院に搬送。病院では、妻が迎える。 
 私は勤めの後で、夕方、病院へ。エレーヌの入院用の品物を途中で買い揃えて、向かう。
 エレーヌは食事に出たミカンやトマトを食べず、(酸っぱさに耐えられなくなっている)、ビタミン類の摂取が決定的に欠如してきている。カプセル入りのビタミン剤のようなものを買う必要を覚える。

 10月21日(木)
   病院に行けなかったため、16時55分にエレーヌから次のメールで報告が来る。
 おやつにナシとヨーグルトを食べたこと、朝食+昼食+おやつの三食を食べたこと、8時間かけて点滴をしたこと、慶子さんにロイヤルミルクティーを買って来てくれるように頼んだこと、などが書かれている。
 4月に衰弱がひどくなってから、エレーヌは濃厚なミルクティーを好むようになった。生涯に一度もなかったことだが、タンパク質のアルブミンの低下を補おうとする体の欲求かもしれない。(アルブミンが欠乏すると、細胞膜の目が粗くなり、水分や栄養素が漏れ出てしまう。それが浮腫を引き起こしてしまう。)  
 


10月22日(金)
   仕事のため、病院に行けない。エレーヌからは、二通メールが来る。
 一通は、病院に持って行く本について。エレーヌと話していて、ドゥルーズとガタリの『ミル・プラトー』を読んだらどうかと思い、勧めたら、読みたいと言っていた。
 もう一通は、作家・文芸評論家のモーリス・ブランショ『火の部分』について。舌の病気になった仏文学者の篠沢秀夫がブランショにとても影響された話を聞いて、この本を読みたいと。ブランショは私がほとんど持っているので、次に病院に来る時に持ってきてほしい、と。
 さらに、いいものがあれば、果物も持ってきてほしい、と。この時期、よくブドウを買って持って行った。






10月23日(土)
   やはり、仕事のため、病院に行けない。
 朝、エレーヌの体内のガンを、なんとカネヨのクレンザーで洗い落とす、というリアルな夢を見る。
 じつは、エレーヌについて、夏以来、私はいくらか心霊治療を試みていて、効果を確認していた。この夢には、エレーヌの霊体に侵入して、積極的に病巣を洗い落すべきだという発想を与えられる。このことをエレーヌにメールで告げたら、私のヴィジョンを信頼する、心霊治療をやってもらいたい、どのようなことも可能だから、と返事が来た。点滴を続けている、とも書いてある。




10月24日(日)
 病院で介護保険証が見当たらなくなったと連絡を受け、それを探しにエレーヌ宅へ。重要な書類や証書、物品などをエレーヌがなくすということが頻発していた。
 行ってみると、エレーヌ宅には中島慶子さんと斎藤都さんも居り、エレーヌの着替えなどを取りに来たとのこと。このように、数人がエレーヌのためにつねに動いているというのが普通だった。
 介護保険証は家には見つからず。たびたび起こったように、やはり病院にあるはず。
 斉藤さんの車で、代田のエレーヌ宅から駒沢の病院に向う。徒歩+バス+電車でこの行程を辿ると、いったん渋谷にバスで戻ってから駒沢大学に電車で向かうか、三軒茶屋に徒歩で向かってからバスか電車で駒沢大学に向かうかするしか方法がないため、大変な時間がかかるので、助かった。代田のエレーヌの住まいは、こういう点で交通上の僻地にあった。急ぐ場合はタクシーで行くことになるが、タクシーもなかなか捕まらないことが多かった。こうした交通上の不便さも、引越しの理由のひとつだった。
 病院に着くと、エレーヌは1Fのカフェ《エクセルシオーネ》でコーヒーを飲んでいた。ろくに物も食べず、衰弱していても、車椅子を押してもらって病院内のこのカフェに行ってコーヒーを飲む、というエレーヌの姿勢は顕著だった。少なくとも27日までは、私自身がこれを目にしている。28日と29日についてはわからないが、行った可能性もある。30日は傾眠状態に入っていたので、病室から出なかったと思われる。
 カフェ《エクセルシオーネ》から、固定電話の引っ越し手続きを、エレーヌ自身の声で確認を取らせ、完了する(本人が行わないと受け入れられない)。
 自力で立ち上がったり、座ったりできなくなっているので、トイレを手伝ったり、ベッドに寝かしたりする。
 なお、この日、30年近く書き続けられてきたエレーヌの手帳の記述が終わっている。翌日25日以降は、手帳は白紙のままとなり、二度と記入されることはなかった。
 さらに、この日、長く通っていた下北沢の美容室《ガッツ》の担当美容師カンさんは、病気から回復して元気になったエレーヌの姿を夢で見ている。

10月25日(月)
   仕事のため、病院に行けない。

10月26日(火)
   やはり、仕事のため、病院に行けない。
 11月2日(火)の欠勤届を事前に出す。29日の引越しの後、荷物整理に数日かかるのを予想し、休みを取っておこうとしたもの。しかし、奇しくも現実には、11月2日(火)はエレーヌの葬儀が行われることになる。もちろん予期などしていなかったのに、葬儀のための欠勤をあらかじめ取ったことになる。
 この日の夜に来たメールには、リハビリをやったこと、今後の日々もそれが続くこと、アルブミン点滴を三本やったこと、担当医が「駒込」のことについて私と話したがっていることが書かれている。「駒込」というのはガン治療で有名な北区の駒込病院のことで、そこへの紹介状を書いてもらうことになっていた。新しい引越し先からは駒込病院へは15分から20分ほどで着く距離であり、そうしたことすべて含めて、私は一年前からエレーヌのための引越し計画を少しずつ進めていた。
 もっとも、この日、担当医が私に話したかったのは、エレーヌの衰弱が進行しており、病院を替わるのは困難ではないかということだった。
 




 27日(水):勤めの後、夕方に東京医療センターに向かい、エレーヌを見舞う。少しでもエレーヌにタンパク質を摂らせようと考え、途中でやきとり風弁当やサラダなど買っていく(病院の食事はひどいもので、ご飯や甘いヨーグルト、おひたし、固い焼き魚のようなもののみ。しかも、病種に関係なく、同じ食事)。ビタミンCのカプセルも買っていく。しかし、衰弱がひどく、食欲がない。
 血液の質が急速に落ちており、体内のどこで、いつ致命的な出血が起こってもおかしくない状態になりつつあった。これに対抗するには、積極的なビタミン摂取やタンパク質摂取に努めるしかない。エレーヌにそれを説き、少しでも食べるように勧めたが、ほとんど食べなくなっていた。
 私は翌日の午前から引越しの準備に入るため、エレーヌの夕食後にすぐに辞去した。引越し後の30日頃に、また病院に引越しの報告に来る、と告げたが、エレーヌと会ったのはこの日が最後となった。
 数枚、この時のエレーヌの写真を載せておく。これが生前の最後の写真となった。






 28日(木):引っ越し先の新居のカギを受け取り、新居に入って掃除や整理。
 (医療機関の変更も含め、今後のよりよい療養のために、私の住居近くに越すことが計画されてきており、それが実行段階に入っていた。そういう最中、エレーヌの身体は急激な衰弱へ。もちろん、引越し計画の中止を検討、エレーヌ本人に何度も聞き直したが、彼女はそのまま引越しを遂行したがった。病気に負ける気は全くなく、療養を続けるために、住んだことのない土地に越して新たな人生を始めるという、強い意志があった。身体状況と精神状況のはっきりした乖離が起こっていた、とも見えた。)
夕方、家で奇妙な音がしたので、そのことをエレーヌにメールすると、21時34分にエレーヌより返信。しかし、以下の通りの文面で、もはや意味が読み取れない。文字を書く力も気力も欠如してきているのがわかる。
深夜に異常現象。家の電話機が30分おきに電子音を鳴らし続ける。呼び出し音が鳴るのではなく、誰かが電話機のボタンを押さないと鳴らない音がする。まるで、そこに人がいて押しているように鳴る。エレーヌの霊が来てなにかを告げて鳴らしているような感じで。




 29日(金):世田谷代田から王子神谷のUR11階への引越し(朝9時より)。入院中のエレーヌは来れないので、すべて私と引越業者とで行った。しかし、エレーヌは自ら引っ越しに来て采配を揮うつもりだったらしく、どうして自分を連れに来ないのかと言っていたという。
世田谷代田の旧居には、比較的近くに住む友人の於保好美さんが掃除手伝いに来てくれた。やはり近くに住む南さんに、粗大ゴミの処理をお願いする。新居のほうには、友人の中島慶子さんと大林律子さんが手伝いに来てくれた。
 引越しの最中に、エレーヌから、次のような奇妙なメールが来た。まるで、すでに遠いところに行ってしまっていて、たまの挨拶をしてきたかのようなメールだった。私はこれを見た瞬間、エレーヌはもうダメだ…と思った。
 中島慶子さんと大林律子さんは、帰途、医療センターに寄ってエレーヌを見舞った。友人たちがエレーヌに会ったのは、これが最後となった。引越しを無事済ませたことを伝えると、エレーヌは涙を流して喜んでいたという。
 私はひとりでエレーヌの新居に残り、夜遅くまで整理を続けた。




 30日(土):台風14号接近のため、東京は朝から暴風雨。雨の止んだ後は強風となる。電車の不通や混乱があり、エレーヌの世話をしている人たち皆が見舞いを諦めた。
午前8時の回診記録では、意識に変わりなく、食欲もあったとのこと。
午後2時52分、「疲れる…」と洩らしていたとの記録。
午後4時57分、「大変…」と看護師に言っていたとの記録。
看護師たちによれば、時間によって、眠りがちだったり、起きていたりをくり返していた。亡くなる前に現われることの多い傾眠現象が始まっていたらしい。

 31日(日)午前3時に意識レベル低下。回診の看護師が声をかけたが、反応がなかった。傾眠を超えた状態に入ったことになる。個室に移し、処置の開始へ。
午前4時57分、血圧低下始まる。
午前7時10分、亡くなる。
当直医師側の不手際で、私の家の固定電話に連絡が来なかったため、異常を知ったのは6時過ぎだった。この時点で数名に連絡したが、誰も臨終には間に合わず、最も近い友人も間に合わなかった。
私が到着したのも7時40分だった。
ベッドの上のエレーヌに呼びかけると、エレーヌの目から涙が流れ出た。死の直後の遺体が見せる現象だろうが、こちらの声に反応したように見えた。