(エレーヌ・グルナック こんなこと13)
駿河 昌樹
(Masaki SURUGA)
Youtubeで、偶然、「あなたの知らない世界」の録画を見つけた。
かつて日本テレビの昼番組《おもいっきりテレビ》で、夏のお盆の頃などに放映されていた心霊特集だ。視聴者から寄せられた心霊体験を再現ドラマにし、放送作家で日本心霊科学協会理事だった新倉イワオ氏が解説していて、単なる怖がらせ番組とは違う、人間味のある、倫理的でもある怪談が楽しかった。
エレーヌはこの番組が大好きだった。
夏休みのお盆の頃の昼間に放送されるので、ふたりとも家にいることが多く、新聞やテレビ雑誌で時間を確かめておいて、この番組は欠かさず見た。だいたい3編ほどで50分程度、コマーシャルや解説を除けば、30分程度の心霊体験の再現ドラマ集だったが、昼の12時から12時50分ほどまでの時間は、不思議な物語にふたりして引き込まれて、真夏の家の中が静まり返るのを感じたものだった。
単なる恐怖体験程度の再現ドラマも多かったが、なかにはお話として名作とも言えるような心霊体験もあり、見終わって昼の食事を作ったり、夕方の散歩にいっしょに出たりする時に、いろいろと話題にし続けたものだった。
私も大好きだったが、こうした心霊体験を聞いたり、見たりするのを、エレーヌは本当に好んだ。多くの人が、エレーヌは文学を好んだとか、哲学を好んだとか、物理学の相対性理論や素粒子論の話を好んだとか、あるいは映画やバレエを好んだとか、いろいろな印象を持っているようだが、彼女がなによりも好んだのは霊界やお化け話や異次元の話や、超常現象、オカルトなどで、いまで言えば、スピリチュアル系の話ということになるだろう。
そういった方面について格段の好奇心を持っていない人と本当に打ち解けることは、エレーヌにおいては、まずなかったと言っていい。もちろん、お化け話や超常現象の話を、なんでもすべて信じ込むというわけではなかったが、それらを頭ごなしに否定したり馬鹿にする人たちに親しむことは、絶対になかった。人間的によくても、超常的なことを否定する人は「頭が固い人」ということになり、ある線以上に踏み込もうとはしなかった。
心霊にまつわる話は、ほとんどの場合、死んだ者たちからのなんらかのアプローチを受けとめて、彼らと接触し、彼らの思いを理解する話である。
懐かしい番組の録画を偶然見つけたこと自体が、私には、エレーヌからのアプローチのように感じられる。
死後の世界への常軌を逸した関心を示し続けたエレーヌは、2010年以降は自ら死後の世界に行ってしまっているわけだが、この「あなたの知らない世界」を見直したら、むこうの世界にいる身として、どんな感慨を持つだろうか。
数編を見直してみたが、新倉イワオ氏の解説も、当時の番組の雰囲気も懐かしかった。
なによりも、それらを見ていたあの頃の、真夏の昼の雰囲気が今もそのまま広がってくるようで、日本の夏の昼間の、暑く、奇妙に静かな時間が、青空や、滲み出る汗や、遠く近くの蝉の声とともに一気に蘇ってくる。
エレーヌがいっしょに見れば、やはり同じように懐かしく、たっぷりとくり返し経験したニッポンの夏を懐かしく思うに違いない。
参考までに、「あなたの知らない世界」のいくつかのリンクを載せておこうと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=UFAB8SAwjPk
https://www.youtube.com/watch?v=RoqO0iijfJA
https://www.youtube.com/watch?v=Uwfg9XIF6pw
2015/05/10
2015/01/05
エレーヌ・グルナック没後5年
駿河昌樹
Masaki SURUGA
2015年。
エレーヌ・グルナックが亡くなって5年目ということになる。
それぞれに親交のあった友だちや生徒たちには、どのような5年だっただろう。
その人たちの生は、いま、どのように続いているだろう。
エレーヌが来て暮らした日本が、やはり特別な時期だったのだと、年毎にくっきりとしてくるように思える。
まだ、あれほどの原発事故は起こっておらず、関東・東北の空気や水や食が核物質に汚染されておらず、ナチスへの親和をあからさまにほのめかしたり発言したりし、憲法から基本的人権さえ削除しようという反動与党の動きも明らかではなかった。生活格差を拡大させて国内で奴隷階級を作り出そうという動きはすでにあったが、いまほどあからさまではなかった。社会保障をさまざまな面で低下させ、高齢者や病人の健康維持を困難にしようという政策も、国民の貯蓄をなんとかして放出させようという政策も、まだ曖昧なままだった。
日本では外国人の立場ながら、社会での平等や自由にきわめて敏感で、興奮して怒ることの多かったエレーヌが、こうした現代の日本の動きに無関心でいられたわけはない。すべてを曖昧にいい加減に水に流し、なんでも「しかたがない」で済まし、忘却が得意で、選挙にも参加しようとせず、日々の小さな安逸のなかに閉じ籠ろうとし続ける、沈黙の羊たちさながらの日本人の社会で、晴れることのない不愉快な気分を持ち続けることになったに違いない。
フランス大統領選挙のたびに、広尾の大使館に投票に行く前、忙しい生活にもかかわらず、雑誌をいくつも読み込んで自分なりに検討し、投票対象を決めていた律儀なエレーヌが思い出される。
エレーヌが、じつは、日本の見えない守りになっていたかもしれない。彼女が卵巣や腹膜に抱え込んでいたガンは、2011年以降に爆発的に露呈することになった日本の汚れやおぞましさであったかもしれない。エレーヌという防壁、浄化場所を失って、日本はそれを自らかぶることになったのかもしれない。
あるいは、もうエレーヌには耐えられない、つき合いきれない日本の時代が到来するのを全霊で予感して、先に去って行ったのだろうか。
いまになるとくっきりとしてくることのひとつに、エレーヌの逝きかたが、鮮やかなまでにさっぱりしていたこともある。
たしかに、病中から亡くなった後まで、私をはじめ数人の友人たちにかなりの負担がかかったが、それでも、住居や最低限の物品、生きているかぎり続く数々の手続きなどの渦のなかで、エレーヌは可能な限り軽く生きていたことは確かだった。彼女の死後、私は自分の多忙な生活のかたわら、彼女の住居を借り続けたまま10か月かけて家財や遺品の整理をし、諸手続きを終わらしていき、その当時は疲労困憊し切っていたものだったが、それでも、ひとりの人が重病に見舞われて亡くなっていく場合としては、かなりシンプルなものだった。
だれであれ、かりに自分がいま急死したとしたら、死の時まで保持せざるをえない自分の住居や、その中を埋めている厖大な物品や、記念写真や思い出品の数々や、銀行から不動産、クレジットカードや携帯電話の契約に到るまでのすべてを、だれが、自らの生活時間を削りながら、どのように動いて、ひとつひとつ処理し、整理し、売却し、廃棄し、解約し、ゼロに戻してくれるかを想像してみれば、ひとりの人の死というものがどれほど大変なことか、わかるだろう。死に伴うそういう作業において、エレーヌの場合は、まだ、かなり軽いほうだったといえる。
衰弱が進んでいたとはいえ、2010年10月31日の朝のエレーヌの死は、急死といえる。
本人としては、10月になって、ますます、生き続ける意志を強めていたためだ。
死の直前の10月29日に、私の住まいにほど近い新居への引っ越しを遂行したのは異様に見えるかもしれないが、よりよい医療と療養環境に移るための方策だった。
結果的に、死の直前のこの引っ越しが、その後10か月におよぶ私のあらゆる整理作業をある程度簡易化し、スムーズにした。歩いて10分ほどで行けるエレーヌの新居は、仕事帰りにも買い物の前後にも、また休日にも深夜にも寄るのが楽で、空いた時間を見つけては通い続けて、さまざまな家財や遺品の整理を少しずつ行い続けることができた。これがもし、世田谷区代田の旧居にあり続けていたならば、私の家からは短くても片道1時間半はかかるため、必要とされる時間や労力、交通費などの点で、整理作業はとんでもなく困難な作業になったに違いない。逝くにあたって、物質界に残り続ける私に、エレーヌが与えてくれた配慮だっただろうと思う。
偶然とみえるようでも、物事がこのように整っていき、その後の成り行きが多少なりとも楽になっていくような出来事は、エレーヌの病気と死をめぐって、他にもいろいろと起こった。死にまつわる時期やさまざまな事情というものが、どうやら偶然ではなく、見えないなにかによって整えられているという思いを、以後、つよく持つようになった。
5年間という数字上の区切りを大げさに考える必要はないだろうし、5年経ってエレーヌが遠ざかったとも全く思えないが、それでも5年間…というと、どこかちょっと特別な思いになるようなところもある。
そういう思いに素直であってもよいのだろう。
少なくとも、年下だった人たちはエレーヌに5歳近づき、年上だった人たちはエレーヌがさらに5歳年下になったわけで、こんなことを考えながら湧き起こってくる思いを楽しんでもよいのかもしれない。
逝ってしまった人であっても、ふり返るたびに、無限の思いや感情がこちらの心には生まれ続ける。
2014/05/11
生きること、魂によって生きること
(立教大学名誉教授加藤武氏の退職記念文集のため、「先生への深い問いかけを」と依頼された際のエレーヌの小文)
| 1984,5年頃、池ノ上の自宅で。 |
エレーヌ・グルナック
Hélène GRNAC
先生への深い問いかけを、という依頼を受けたのですが、考えてみれば、これはじつに難しい依頼です。
なぜかというと、本当の問いかけは、魂によって生きられたものでなければ無駄なものになってしまうからです。
しかしながら、魂とは本当はなんなのでしょうか。
そして、魂によって生きるとはなんなのでしょうか。
そもそも、魂って実在するのでしょうか。それとも幻想に過ぎないのでしょうか。
いずれにせよ、存在へのあまりに直接な切り込みには違いありませんから、私たちは日々、不安をかきたてるこれらの困難な質問から逃げて、生き続けているようです。
しかし、自分にこうした問いかけをするのでなければ、存在者としてはなんの価値がありましょう。この問いかけの瞬間にこそ、生命そのものは私たちの心を揺さぶり、存在全体に溢れ出るのではなかったでしょうか。そして、各瞬間ごとに私たちは異なった新しい存在者となり……。
このことについての先生との次の「討議」は、さあ、いつにいたしましょうか?
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解題
駿河 昌樹
(Masaki SURUGA)
上の括弧内に記したように、親交のあった立教大学教授加藤武氏の退職を記念する文集のためにエレーヌが書いた小文である。「先生への深い問いかけを」と依頼され、それに答えてのものだった。依頼字数が決められていたため、本文には改行はないが、今回、改行と字句訂正を施してここに再録した。
大学の哲学教員でアウグスチヌスの研究者だった加藤武氏の哲学の授業は、哲学史や哲学テーマの厳しい追及をするようなものではなく、どちらかというと美学方面に傾いたさまざまなテーマやテキストを使いながら学生たちの印象や感想、意見などを引き出していく柔軟なやり方を特色としていた。哲学の知識や関心の度合いにばらつきのある学生たちを集めての教養課程の授業においては、これもひとつのあり方であっただろう。授業外に研究室で森有正などの著作の読書会を継続し、一部の学生たちにはとても人気があった。学年や年齢の差をこえて加藤氏の下に集った学生たちは卒業後も関わりを持ち続け、大学における師弟と広い意味での教育や人間関係のあり方のひとつの理想を体現したといえよう。学生たちとともに近郊の観光地や展覧会などにも出かけ、彼らのあいだに新たな出会いを醸成する役わりも果たし続けた。
1977年に留学で日本を訪れ、数年後に和光大学や立教大学で教えるようになったエレーヌにとっても、加藤氏は日本での人間関係の重要な軸となった。加藤氏は、日本滞在の初期のエレーヌの保証人でもあった。エレーヌは晩年まで、加藤氏がアウグスチヌスの論文をフランス語訳する際や、フランス語で手紙を書く必要がある場合に校閲や修正を請け負い続けた。
ここに再録した「生きること、魂によって生きること」は、エレーヌがまずフランス語で書き、それを私が日本語訳したものである。ただ日本語訳しただけでなく、日本語をうまくは書けないエレーヌの口ぶりをいくらか残すように、いくらかたどたどしさを演出しておいた。エレーヌ自身がそう望み、あえてヘタな日本語にしておいてもらいたいと言われたのだが、退職記念の文集にあからさまにヘタな文を出すのもどうかということで、ヘタさ加減の調整にはけっこう手間取ったのを覚えている。
いま読み直すと、かなりニュートラルな文になっており、エレーヌの望みに抗って、結局、かなり普通の日本語文にしてしまったのがわかる。もちろん、エレーヌが書いた元のフランス語文はちゃんとした文なので、今にして思えば、むしろ、この訳文は原文のニュアンスを伝えていてよかった、ということになるかもしれない。
原文のニュアンスを伝えるという以上に、この文は、エレーヌの考え方をとてもよく伝えている。プルーストやデュラスやカミュなどといった知的対象についてでなく、直接に、生きることや魂について触れているため、ものを感じたり考えたりする際のエレーヌの姿勢が非常にはっきり出ている。
エレーヌは、だれかに「深い問いかけ」をするのは難しい、なぜなら、「本当の問いかけは、魂によって生きられたものでなければ無駄なものになってしまう」と始めているのだが、彼女はこの時、「魂」についての十全な定義が自分においてできていないことを知っており、「魂とは本当はなんなのでしょうか」と問う。ふつうなら、ここでしばらく留まって、過去の哲学者のもろもろの定義を思い出し、列挙し、共通点や差異などを指摘し、検討して…等々していくのが、もっともらしい考察の素振りをするということになるわけだが、エレーヌの特徴として、すぐに「そして、魂によって生きるとはなんなのでしょうか」という別の問いに踏み込んでいく。慎重な思索を求めようとするならば、これは、性急過ぎる危険な問いの積み上げとも、横滑りとも言われる他ないだろう。
そればかりではない。続けてすぐに「そもそも、魂って実在するのでしょうか。それとも幻想に過ぎないのでしょうか」と問う。これは、主語の属性を問うていた第一の問いを、主語の存在への問いに強引に変更する行為であり、現代の哲学科の思索においては許されない手続きであろう。問いの質が異なっているのだから、同じ思索の中で同列に扱うことはできない。
もちろん、「魂」という問題をカフカにおける「城」のように、しかも、ドゥルーズやガタリが言うように「多数の入口」がある対象として見るならば(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『カフカ―マイナー文学のために』)、エレーヌはこの文で「魂」への複数の「入口」の存在を示唆しようとしたとも思われ、それらはどれも「入口」であることによって、エレーヌにとってはどれも同列でしかなかったとも捉えられうる。だからこそ、すぐに続けて「いずれにせよ」と思考の変換がなされ、提示されたいずれの問いにも深入りしていくのを回避しつつ、「不安をかきたてるこれらの困難な質問」への問いかけの重要さの確認こそへと舵が切られていくのである。
「自分にこうして問いかけをするのでなければ、存在者としてはなんの価値がありましょう。この問いかけの瞬間にこそ、生命そのものは私たちの心を揺さぶり、存在全体に溢れ出るのではなかったでしょうか。そして、各瞬間ごとに私たちは異なった新しい存在者となり……」と、生や存在そのものをさえ変容させるかのような「問いかけ」の特権的な価値を称揚していくエレーヌの記述の高揚ぶりは、意地悪くいえば、ある種の俗流哲学の安手の「問いかけ」礼賛に通じていないでもなく、別の言い方をすれば、やはり安手の文学っぽさに通じていなくもない。エレーヌの思考にそうした俗流の部分があったのを私はよく知っているが、(…しかし、誰が「俗流」からすっかり脱し切っていられようか?なにかのテーマに時間を費やして深めた者は、そのゆえに他のテーマについては無知に留まらざるをえないし、全くの無知を脱するがために専門外のテーマについての概説書を読んでにわか勉強をすれば、つまりは「俗流」になるということである…)、俗流になり切っているわけでもなかったとも私は知っている。というのも、「問いかけ」という知的作業なしでも生や存在は展開し続けるはずであること(植物状態の人間に生や存在はなくなっているのか?等々)にエレーヌは意識的だったし、多量の神秘主義の書物やアントナン・アルトーの著作などの飽くなき継続的な読書から、意識なき生、知性や思考なき存在、さらには生や存在なき非〈無〉について、つねづね思い続けていたからである。
「このことについての先生との次の『討議』は、さあ、いつにいたしましょうか?」
この結び方はいかにもエレーヌらしいし、たしかこの短い文において、エレーヌがいちばんこだわったところだった。「魂」や「存在」についての「問いかけ」を語る部分よりも、エレーヌにとってはこれこそ重要だったといっても大げさではないかもしれない。
彼女の多くの友人や学生たちが、このような口ぶりで「今度はいつ…?」とエレーヌに言われたことだろう。こう言う時のエレーヌの頭にあったのは、もちろん喫茶店やカフェで、ということで、彼女は、誰とであれ、とにかく喫茶店やカフェで、コーヒーを前にしながら「また」話す、「ふたたび」おしゃべりする、という思いを持つのを好んだし、大事にした。
場所を喫茶店やカフェに想定し、「次の『討議』は、さあ、いつにいたしましょうか?」という時、おそらく、エレーヌはいつも最高度の具体的かつ抽象的な自由を満喫していた。他人の家に行くのではなく、自分の家に他人を呼ぶのでもなく、誰の領域でもないカフェ、誰の権力圏でもありえないカフェほど、エレーヌにとって重要なトポスはなかった。カフェは、彼女にとって強いられた生の外部でもあれば、彼女自身の生そのものの甦る場所でもあった。
こうしたカフェ好きは、パリ住まいの人々には共有されうるものだろう。パリの住人の多くが、カフェを重要な人生の場所として生活に組み込んでいる。その点では、エレーヌは10代最後から40歳頃までのパリ生活の核心部分を東京生活に持ち込んだとも言えるだろう。
彼女は日本を好んだが、しかし、日本びいきの外国人がよく陥るような日本趣味にならず、日本的な文物を集めて日本的に生活するということも全くしなかった。じつは、日本に留学してきた1977年から78年頃、はやくも彼女は日本語の系統的学習や練習を放棄し、日本をひどく懐かしく思うという不思議な強い感情を抱いたり、日本のある種の文物や事象(梅雨、豆腐、納豆、紫陽花、苔や湿った暗い庭など)に強い愛着を覚える一方、社会学的・制度的な研究対象としての日本にはさほど興味を持てないといった相反する自己の内的状態に苦しむことになる。パリに住もうとも東京に住もうとも、自分は自分を生きるにすぎないといった巧妙な合理化は日本留学の当初のエレーヌにはできず、日本にわざわざ来ている理由づけに悩み続けた。そんな彼女を救ったもののひとつに東京のあちこちの喫茶店があったのだが(その頃は、まだ「カフェ」というものは東京にはなかった)、たとえば毎日曜日の午前、住まいに近い井の頭線の池ノ上駅わきの喫茶店などに通い続けて読書し続けながら、しだいに内なるパリ暮らしを回復していったことが、その後30年に渡る東京暮らしを支える土台となったことなど、エレーヌについて今なお興味を持つ人たちは今さらながらに思い出しておいてもいいだろうと思う。
2014/05/04
2003年度の上智大学の学生たちの色紙
(エレーヌ・グルナックこんなこと 12)
駿河 昌樹
(Masaki SURUGA)
(Masaki SURUGA)
エレーヌの蔵書の重要なものは、いまでも私がトランクルームに保持している。亡くなった翌年の2011年、取捨選択してなんとか30箱ほどにまとめた。
箱詰めして以来開けたことのなかったそのうちの一箱を、先日4年ぶりに開けてみたら、彼女が2009年まで勤め続けてきた上智大学の学生たちからの色紙が見つかった。
2003年度のフランス語科のフランス語口頭表現クラスの学生たちによるもので、作成されたのは2004年の1月の授業終了時期だろう。真ん中に、直訳すれば、「2003年にあなたの学生だったことはとても大きな喜びでした!」といったことが書かれていて、まわりには、学生ひとりひとりの感謝の言葉が書かれている。
この色紙がエレーヌに贈られてから10年が経っているので、この時の学生たちももう30歳前後になっているだろう。どんな人生を歩んでいるだろうか、と思う。エレーヌが生きていれば、彼らと再会するのをずいぶん楽しんだに違いない。彼女は今年73歳になるはずだったので、定年で大学は退職しているわけだが、自分も学生たちもともに大学を離れて、ようやく本当に“友”として接することができると考えたのではないかと思う。
このクラスの学生たちは、エレーヌが、この色紙を贈られた6年後の2010年に亡くなったことを知らないだろう。それでいいと思うし、できればあと20年ほど、そんな状態が続けばいいと思う。あの人のことだから、まだ元気だろうとか、なんとかやっているだろうとか、そんなふうに思い続けるというのも素晴らしい。
大学でのエレーヌがどんな先生だったかは、クラスごとにも違うようだし、学校ごとにも違うようだし、なにより、時期によってもずいぶん違うように思える。とても厳しい、怒りっぽい先生だった時もあったらしいし、ユーモアに溢れた親しみやすい先生と映った時もあったらしい。
教室でのエレーヌを私は見たことはないが、それでも脇から見ていたかぎりでは、1980年代や90年代のエレーヌは、ユーモアや包容力に溢れている一方、かなり厳しい先生のようだった。遅刻には厳格だったし、怠け者の学生には手厳しかった。会話練習の時に小さな声で答えるような学生や黙ってしまう学生を非常に嫌った。「日本人は内気なんだよ」と私が言うと、「聞こえないような小さな声で答えたり、黙っているのは失礼です。日本人だからといって、そんなことは許されない」と苛立っていた。外国人教師たちを一様に苛立たせる日本人ならではのコミュニケーション下手や曖昧さを、エレーヌも本当に嫌悪していた。
フランス語が下手でも大きな声ではっきり答えてくるような学生のほうが、エレーヌには嬉しかったらしい。わかっているのかどうか、発音のぐあいはどうか、それがとにかくもはっきり教師側に伝わるからで、確かに、これがなくては語学教育のベースは整わない。
逆に、エレーヌがいちばん嫌ったのは、いわゆる帰国子女のうちのフランス語口語がけっこうできる学生たちだった。他の学生が太刀打ちできないほどペラペラしゃべることができるものの、ていねいで正確なフランス語でしゃべることはできず、書くこともできないし、ましてや頭を使う必要のある文学作品や論説文をちゃんと読解することも十分にはできない。それなのに、フランス語については何も学ぶ必要はないと思い込んでいる。正面から「あなたのフランス語はぜんぜんダメです」と叱った学生も何人もいたらしい。授業を終えてきたエレーヌが、こうした学生たちに苛立っていつまでも怒っているさまを、私は何度も目にしている。
21世紀に入ってからの10年ほどはずいぶん優しいユーモラスな先生になったようだったが、これには、じつは私が諄々と諭し続けた成果もあったのではないかとひそかに思っている(べつに、そんなことで自慢めいた気分に浸りたいわけではもちろんないが…)。
世紀が変わる頃から、学生たちの質がどこの大学でもはっきりと低下し始めたとエレーヌは言っていた。態度も崩れたし、勉強もしなくなった。いろいろな学生がいるというような話では収まらないような、奇妙な変化が日本中で起こっているとエレーヌは感じとっていた。教育には非常にまじめで、それゆえに厳しかった彼女は、これまで通りの指導のしかたではあまりにうまく行かな過ぎると感じていた。大学の授業で感じる学生相手の大小のズレに悩むことが多くなったし、非常にやる気のある社会人たちとプルーストなどを読み続けるカルチャーセンターだけが救いだと、よく聞かされた。
私がエレーヌに勧めたのは、もっと大学の授業を楽なモードでやるようにすれば?ということだった。日本人ならともかく、エレーヌは外国人なのだし、非常勤講師なのだし、日本の若者の生活指導や根性の叩き直しを大学で受けあう必要などない。日本の若者の雰囲気は、その親たちや小中高の指導によって大きく変えられてしまったのでもあるし、そもそも生活や学習の態度について規制力の働きづらい大学という場所で彼女ひとり孤軍奮闘する必要はない。出席も足りず、やる気も足りず、学力も十分でない学生なのに、就職が決まったからなんとか単位をやってくださいと大学が頼んでくるような社会になってしまった中では、教員は根本的にやり方を変える他ないと思うよ。そう勧め続けたのだった。
日本人の教授たちや助教授たちには、適当に学生対応をして、適当に単位を出して茶を濁している者が多い。外国人教員たちは、自国での勉強の厳しさや受ける評価の厳しさを経験してきているから、基本的には学生たちに厳しく対応する。ここのギャップから苦しむ外国人教師たちは多かった。エレーヌの同僚や知りあいたちの意見も聞く機会があったが、外国人教師たちの誰もが、こんなことでは日本の将来は大変なことになるんじゃないか、と言っていた。確かに、大変なことになってきた…そう言っていいように思う。
私は上智大学に関わりがないが、今年の4月、桜の満開の頃、この大学の脇の線路沿いの土手を歩いて花見をしてきた。ちょうどいい機会なので、上智大学の教会や大学構内にも立ち寄ってみた。
この大学はずいぶんと小さいので、構内全体をまわるのには苦労しなかったが、ここに毎週エレーヌは通い続けたのか、門から入って、おそらくこの棟に入って、…と思いながら、ゆっくり見てまわった。
大学の門を出てからも、駅までの距離を漠然と目測したり、信号待ちをしてみたりして、エレーヌの中に染み込んでいた風景を、また新たに取り入れようとしてみていた。
2013/10/27
エレーヌ・グルナック逝って3年
| パリで |
| 故郷サン=シェリー・ダプシェの家族の墓の前で。 エレーヌ自身の遺骨もここに埋葬された。 |
駿河 昌樹
(MasakiSURUGA)
(MasakiSURUGA)
エレーヌ・グルナックが逝って、今年2013年10月31日でちょうど3年が経つことになる。
仏教的な「三回忌」という言い方は、あえて、しないでおきたい。
日本人は「三回忌」というような表現に慣れていて、うっかり口に出しがちだし、エレーヌも仏教にはとても興味があったが(死ぬ間際まで、道元や空海に関心があった)、しかし、あまりに多くの宗教や心霊関係のさまざまに興味があり過ぎたがために、仏教だけを選ぶということはできなかったし、日本のほうがフランスなどより遥かに肌に合っていたとはいえ(だいたい、彼女は最後の10年ほどをフランスに帰らなかったし、文学や思想や芸術面を除いて、フランスへの興味を完全に失っていた…)、日本人的なあり方にぴったり自分を重ねようともしなかったので、「3年目だ」とか、「もう3年が経つのか」とか、そんなシンプルな言い方のほうがよいように感じる。日本ふうの言い方や仏教ふうの言い方を避けるというわけではなく、そうした表現を受け入れた瞬間に他のものにむけて思いを閉じてしまう感じ、特定のかたちを成して他のものをそれとなく排除してしまうような雰囲気、そういったものをエレーヌがことのほか嫌ったことを忘れないでおこうと思うのだ。
2011年も2012年も、10月31日には、エレーヌゆかりの散歩をしてみた。彼女が亡くなった東京医療センター(目黒区だが、駒沢公園のすぐ隣り)の産婦人科病棟に行って、そこから三軒茶屋まで歩き、さらに代田1-7-14の彼女の家まで歩く。そうして、エレーヌがよく行った近くのガストでなにか食べてみる。あるいは、三軒茶屋で食べてみる。そんなふうにして、エレーヌの最後の10年ほどのあいだの時間に戻って、思い出の湧くのに任せてみようとした。
今年2013年は、10月末から11月まで個人的に忙しいので、こうしたエレーヌ散歩ができないが、ちょっと日をずらして、同じようなエレーヌ巡礼を、やはり、やってみようと思っている。
エレーヌのことを、彼女の馴染んだ地を訪ねながら思い出したいと思っている人には、エレーヌが長く住んだ世田谷区代田、よく買い物に出た下北沢、三軒茶屋、道としては代田から下北沢までの道や途中の北沢川緑道(春は桜がすばらしいので、エレーヌは桜道と呼んでいた)、三軒茶屋から代田までの茶沢通りや、代沢十字路のサミットを曲がって家に到るまでの淡島通りあたりが、もっともエレーヌらしい場所としておススメできる。
もちろん、10年ほど住んだ世田谷区北沢1-12-4の池ノ上の二階建ての住まいや、なにかといえば歩きまわった渋谷、それも特に東急プラザの紀伊国屋書店や若林折返所行きのバス停、同じように新宿の到るところ、特に新旧の紀伊国屋書店、新宿郵便局近くのかつてのフランス図書あたり、野良猫の保護などで馴染みになった豪徳寺あたり、長いことフランス語やフランス文学を講じた横浜朝日カルチャーセンター、新宿朝日カルチャーセンター、藤沢の慶應大学SFC、四ツ谷の上智大学、池袋の立教大学、駒場の東京大学、少し古いところでは、鶴川の和光大学や品川の旧東京水産大学などもある。映画館に到っては…、彼女が出没しなかったところはない。ロードショー館ばかりか、たいていの名画座にも通っていたので、エレーヌより先に逝ってしまった映画館もいっぱいだ。
エレーヌがヨガを指導していた大船(と藤沢のあいだ)の長福寺も、エレーヌ自身の霊にとってなじみ深いところだろう。
逝った人を思い出すのには、心の中だけで十分という考え方もある。もっともだと思うが、実際の場所というのが、やはり、思い出しの強力なスイッチの役割をするのも事実だ。あそこをあんなふうにして歩いていた、あそこに凭れかかっていた、あそこでなにか食べていた、などという記憶が、場所によってつよく呼び起されることも多い。場所には、過ぎ去った(と一般には思い込まれがちな)時間のあれこれもぴったりとこびり付いていて、そこに行くと、それらが立ち上がってくる。過ぎ去ってなどいない現在そのもののように。時間をどう考えるか、これもさまざまだが、過去や現在や未来という便宜上の区分けはどうやら正しいわけでもないと、そんな時には思わされる。
逝った人を思い出し供養するのが望ましいし、そうするのは当然のことだという考え方は、日本人には馴染みがあるものの、いや、思い出す必要はない、生きている人は生きている自分の生活に集中すればいいのだ、という考え方もある。
そう考える人が、エレーヌについてのこの文を見ることは殆どないだろうが、そういう考え方もありだろうと思う。さびしい態度でもないし、合理的かもしれない。むしろ、正確でもあるかもしれない。というのも、死者を思い出すといっても、思いの中に現われるのはこちらの持っている記憶や好みから作り上げられたイメージなので、けっして死者自身でなどないのだから。勝手なイメージを作り出したり、保とうとし続けたりするほうが、よほど死者とのつながりを妨げるのかもしれない。だいたい、死者は死を経て、すでに生前の性格や方向性から解放されているはずなのだ。生前のイメージや生前の情報から得られた“その人らしさ”に死者を固定し続けることほどの冒涜は、本当はないのかもしれない。
しかも、古今東西の宗教的思考のうちでも、最高峰のものがつねに提示してくるように、けっきょく、生も死もたいしたことではない、それらに縛られるな、といった助言を思い出せば、死者を「死んだ」と思うことさえ、大いに間違った態度かもしれない。
少なくとも、エレーヌ自身は、これに近い考え方をしていた。
以前にも少し書いたと思うが、エレーヌが死んだ時、わたしに言い残されたエレーヌの遺言めいた言葉に、あえて従わなかった部分が、じつはある。
ひとつは、誰にも死を教えないでほしいということ。
また、葬式をしないでほしいということ。小さな葬式をしたとしても、誰も呼ばないでほしいということ。
また、墓はいらないということ。どこか「そのへんに」骨を捨ててほしいということ…
葬儀をしない?誰にも死を伝えない?
…とんでもない、とわたしは思った。エレーヌがそこそこ幸せに日本で生きられたのは、彼女の友だちや学生たち、同僚たちがいてくれたからだし、まさしく日本人的に親切に接してくれたからではないか。北原白秋の『からたちの花』の歌詞ではないが、エレーヌを取り巻いていた日本人たちは、「みんなみんなやさしかったよ」なのではないか。死の時に臨んで、そういう人びとにちゃんと報告し、できれば別れに出向いてもらって、それなりのけじめをつけるべきではないか。
こう判断したので、わたしはこの点について、エレーヌの遺志を修正した。なんでも故人の遺志を尊重するというわけにはいかないのだ。けっきょく、わたしはなるべく多くの人に死を知らせることにし、葬儀の日時も知らせようと努めたし、葬式は小さなものどころか、100人以上が集ったそれなりの規模のものになりもした。
墓はいらないから「そのへんに」骨を…という要望も、エレーヌの身勝手な妄想からきているものと判断して、無視した。だいたい、「そのへんに」という要望とともにエレーヌが望んだ提案は、できればエベレストの上に骨を撒いてほしいとか、それが無理ならアルプス山系のどこかとか、ロッキーとか、富士山の頂上でもいいとかいうもので、ずいぶんとトンデモな要求ばかりだった。エレーヌにこういう突飛なところがあったのは、そろそろ、知人たちに知らせてもかわまないだろうと思う。
わたしとしては、都内や近辺に墓を作ったり、うちの墓に入れたりしようとも考えたが、彼女の死後4カ月して、まるで日本の守りがエレーヌの旅立ちとともに壊れたかのように東北の大地震と福島原発事故が起こったため、都内にエレーヌの墓を作ったりしたら、将来、放射能汚染のために墓参りにさえ来れなくなるのではないかと危ぶんだ。そのため、フランスの故郷の家族の墓地に送るほうがよいだろうと思うようになったが、ちょうど、故郷の妹が遺骨の返還を強行に要求してきてもいたので、(エレーヌの病気や死に関してなにもしなかったこの妹が…という思いに、当時はずいぶん苛立たされたが…)、これ幸いとばかりに、フランス領事を通じて移送した。
こんな後日談も、まだ語り尽くしていないエピソードもいっぱいあるが、忙しさの合間を見つけて、今後、記せる時には記しておきたいものと思う。
彼女は死の時まで、あらゆる宗教や心霊関係の蔵書を手放さなかったが、晩年の2年ほどの間、宗教的な関心としては、お馴染のクリシュナムルティ、空海、道元、イスラム神秘主義、キリスト教神秘主義、中国の宗教思想、シャーマニズム、ネイティヴ・アメリカンの宗教・世界観、女性魔術師や女性神秘家などに主に向かっていた。これらに関しての多量の本は、今もわたしの手もとに残されている。
他方、日々の“信仰”的行為としては、日本神道の感謝礼拝をするのを旨としていた。毎日、水を供えて天照大御神に礼拝し、また、線香を焚いて先祖への感謝礼拝をしていた。これはわたしが勧めたものだが、一切の頼みごとをせず、ただ〈在ること〉への感謝だけをする神道の礼拝のしかたを最上のものとして受け入れていた。
キリスト教的な枠組みから外れたかたちで、イエスと聖母マリアに親しんでもいた。2009年から2010年、とりわけ死の近い頃によく聞かされたのは、イエスとマリアがたびたびエレーヌを見舞ったという話だ。病院に見舞いに行った際、エレーヌとふたりだけになると、彼女は入院中の病室のカーテンの隙間を指さして、「昨夜、イエスがそこに来て、黙ってわたしを見続けていた」といった話をよくした。ふつうには妄想とか幻想とのみ受け取られるたぐいの話だろうが、30年間をいっしょに神秘修行に費やしてきたわたしとエレーヌの間では、十分に意味のある話だった。
もちろん、重病のさなかのエレーヌが見た幻想にすぎないのでは、という疑いを挟まなかったわけではないが、マリア像の不可思議な移動現象がこの頃実際に起こっていたり、わたし自身の力でエレーヌの腹水を心霊治療し得たことなどもあって、世間一般の心霊現象否定の立場を採らずに、わたしはエレーヌの病気と死に関するいろいろな現象を今でも再考し続けている。
エレーヌの遺骨はフランスの故郷ロゼール県に送られ、サン=シェリー・ダプシェの墓地のグルナック家の墓に埋葬された。
が、重要部分の骨は、じつは都内のわたしの手もとに安置されており、毎日礼拝を欠かさないでいる。エレーヌ自身から手渡された髪の毛も、同様に手もとにある。
エレーヌが物質的にすっかり日本を離れてしまったと思っている人には、だから、思いを改めてもらってよい。
エレーヌは、生きていれば71歳になる。11月22日の誕生日には72歳になるはずだった。
しかし、70を越えた身体で生き続けるのを望んだとは、やはり思えない。なにごとにも軽さと簡素さを望んだ彼女のことだし、なによりも健康維持を求めていたのを思えば、老いていく身体や病んだ身体から早々に去るのは彼女らしい選択だったとも思える。最後の2年ほどを重病とともに生きたとはいえ、なんといってもそれまでの66年ほどの間、まったく病気らしい病気もせずに、わがままに身体を酷使し続けた生涯だったのだ。
2013/10/19
10月20日前後とエレーヌ
10月に入ると、エレーヌ・グルナックのことがいっそう多く思われる。今生で長いつきあいだったので、どの季節も思い出でいっぱいだし、晩年の2年ほどの闘病期間だけが浮かんでくるわけではもちろんないのだが、10月31日に亡くなる前のひと月ほどのあいだは、やはりたくさんのことが凝縮して押し寄せてきていた。
このところ、エレーヌをめぐる文章をここに掲載しなくなっているが、どれほどひとつのテーマを絞って短く書こうとしても、他のいろいろな事柄にたちまち思いも記述も広がっていくので、纏めるのに窮するためだ。軽く短く書けばいいとは思いつつ、短くも軽くもなってくれない。
病中だけでなく、誰よりも健康だった頃のエレーヌの数十年の無数の姿やエピソードの数々も、切れ目もなく際限なく押し寄せ続けるので、なにか一言言ったり書き記したりしようものなら、まとまりがつかなくなる。
すでになんども書いたが、2010年の10月20日(水)にエレーヌ・グルナックは再入院した。末期ガンから来る重度の腹水や浮腫が奇跡的に収まって8月末に退院しており、自宅でリハビリを続けながら療養していたが、10月に入ってから急速な衰弱が襲ってきていた。10月12日の私の手帳には「エレーヌ、起き上がりや歩行困難。浮腫や硬直のためか。リハビリのための足の運動のやり過ぎ?ストレッチの手抜きのためか?」とのメモがある。翌日、13日には介護施設より介護ベッドが届いている。
十日後の30日(土)には台風14号が東京に接近し、交通機関のストップもあって大荒れになり、誰も病院にエレーヌを見舞いに行けなくなった。この日のエレーヌの状態はブログの他のページに記してある。非常な疲れを感じ、傾眠が生じていたらしい。食事はいつも通りに多少とったという。31日の3時頃から意識を失い、7時10分に亡くなることになったのは周知のとおりである。
死去の年の一年前、2009年の10月20日(火)のことも思い出しておこう。この日には、公証役場でエレーヌの遺言公正証書を作成し終えている。
この年の6月に末期ガン宣告をされたものの、抗がん剤が一応(表面的にも)功を奏して驚異的な回復をし、仕事もそのまま継続していた頃である。遺言状作成は、手術を前にしての万が一のための準備のためだった。
公証役場では一悶着あった。
エレーヌは複数の銀行に生活資金の預金を置いていたが、万が一の場合それらを私が相続し、整理や支払いなどを担うことになる。しかし、三菱UFJ銀行の場合だけは相続手続きが極めて困難で、日本人の家族に対しても三代前からの戸籍確認を求められる。そのため、全国で紛争が起こっているとの情報を、特別に公証人が教えてくれた。エレーヌの場合、両親がチェコやポーランドからフランスに移住した家族であり、すでに両親が死去していて、長兄や長姉も他界していて祖父母の関係について知る者が皆無となっている以上、三代前まで遡るのは至難のわざである。まして、第二次大戦の戦禍で祖父母の地の家族情報はすっかり失われたか、混乱したままになってしまっている。不可能ではないまでも、チェコ語やポーランド語で私が戸籍を取りよせなければならなくなるのか、と思うと、気が遠くなるようだった。
公証人は好意からこの点を教えてくれ、できればUFJからは預金を早急に移動させたほうがよいとアドバイスしてくれた。
これに対して、エレーヌが激怒したのである。公証人や、来てもらった証人ふたりを前にして、エレーヌは、遺言証書に署名などしないと突っぱねた。預金してあるのは自分のお金だというのに、それを自由に使わせないような理不尽な銀行を野放しにしておく日本という国は何なのだ、と怒った。そうして、なんでそういう情報をもっとはやく言ってくれないのか、と公証人をなじった。
30分ほどは膠着状態となり、私はエレーヌの説得にかかりきりになった。遺言証書への署名を拒むことで損をするのはエレーヌ自身であること、さらに言えば、UFJの預金も動かせないまま、一切の整理や処理をせざるをえなくなる私こそが最大の被害者となること等などを言い聞かせ、ようやく署名させたものの、公証役場を出るまで、エレーヌはもうニコリともせず、公証人に目も合わせず、挨拶さえしなかった。「性格もあるし、重病で気分も疲れているのもあるので、あんな態度で申し訳ない」と公証人に私が頭を下げ続けたが、公証人もさばけた人で、「いやあ、実際、ひどい銀行なんですよ。それにこの国もひどい。怒るのは当然です。でも、怒っても現実というのは動かせないから…」といったことを言ってくれた。
公証役場でのこのような出来事は、じつは日常茶飯事だった。エレーヌは本当に年中怒っている人間で、いっしょにいる時には、私はたびたび仲介役をやらざるを得なかった。亡くなってから、葬儀などの場面でお会いしたエレーヌの生徒さんたちや、お茶友だちだったような人たちには見えていない場合が多かったようだが。
闘病の際に手伝ってくれた人たちは、さすがに、エレーヌのこうした面にも付き合わざるをえなかった。タクシーで医療機関などに出向く際など、いろいろな人たちがエレーヌに付き添ってくれたが、道のよくわからないタクシー運転手や煙草くさいタクシーには癇癪が爆発することが少なくなかったし、ブツブツと不平や批判を言い続けることもあった。「タクシーはいっぱいあるから、それじゃ、降りよう。次に来るのに乗ろう」ときつくエレーヌに言うと、目が覚めたようにようやくハッとなって、「私が言い過ぎた」と静かになった。
ついでに1979年の10月21日のことも思い出しておきたい。
34年前のこの日、私ははじめてエレーヌと出会った。ある哲学教授と学生たちが集まって、秋の一日、鎌倉散歩を行ったことがあったが、エレーヌは、他のフランス人とともに、そこにひょいとやってきたのだった。
背の低い、鼻のやけに高いフランス人女性だと思っただけで、特別な印象は受けなかった。ただ、政治や平和問題について話した時に、核軍備は絶対に必要であると主張し、アメリカの核の傘の下にいる日本が平和国家を自称するのは矛盾していておかしいと、この「エレーヌさん」は言っていた。当時、やはり日本の右傾化が危険視され、その問題にも思うところ多かった私は、小さなフランス女のこうした発言にあまり心穏やかではなかった。
この時の初対面の印象はこれだけで、エレーヌに特別関心もわかず、4年間はなんの音沙汰もなく過ぎることになる。
言っても誰も信じないだろうし、信じられない人たちといまさら付き合う気もないが、1983年の3月のある日、目が覚めようとしていた時、半醒半夢の中で、私は突然、「エレーヌさんに電話しろ」という男の声を聞いた。
エレーヌのことなど、まるまる4年間は忘却していたので、なにより私自身が不思議でもあり、不審にも思った。下らない夢を見たものだともちろん思ったが、そういえば「エレーヌさん」の電話など控えていたっけ?と思い、4年前の手帳のページを繰ると、どういうわけか、メモがあった。まだ日本にいるのだろうか、どうしているんだろう、などと思い、電話だけでもしてみるかと、家の黒電話でダイヤルした(当時は、子機などなく、携帯電話もスマホもなかった)。
なにを話すでもなく、それでは喫茶店で雑談でもしましょうか、ということで、4月のある日、新宿の紀伊国屋で待ちあわせをすることを決めたが、そこから互いの人生が変わるすべてが始まることになったものだった。
2013/07/20
エレーヌの闘病を記録したフォトサイト
(エレーヌ・グルナック こんなこと 10)
駿河 昌樹
(Masaki SURUGA)
2009年から2010年、エレーヌの闘病中、フランスの親族に状況を伝える一環として、ネット上のフォトサイトPhotobucketにある程度の数の写真を掲載し続けた。
当時、エレーヌとどこの医療機関に行くにもカメラを携えて動き、それ自体なかなか面倒な作業となったが、彼女の親族に現状を伝えて、しかるべき行動を促すためには必要な措置であると考えていた。
この時に使用していたPhotobucketへのリンクをここに載せておく。日本のエレーヌの友人たちにも、病中のエレーヌの姿をふつうに見てもらってもよい頃になったと考える。
http://s852.photobucket.com/user/MasakiS/library/?sort=3&page=0
このフォトサイトの写真は、エレーヌの親族によってかなり熱心に見られていたが、エレーヌの体調が悪化していった時点で、故郷の妹から病気のエレーヌの状態を見たくないとのメールが来た。
私は自分の生活時間を大きく削って、写真ばかりでなく、数日おきにメールで病状報告をフランスの全親族と友人たちに送り続けていたが、この身勝手なメールには激怒させられた。東京ではエレーヌの友人たちだけが彼女を支えているというのに、血のつながった親族がなにを言うのか。若くない兄や姉妹に対して、遠い日本に来てすべてをやれとまでは望まないにしても、数多いエレーヌの甥や姪のひとりぐらい、様子を見に来てもいいのではないか。
病気のエレーヌの精神状態にあまり影響を与えないように、こういう親族たちをそのまま「泳がす」ことにしたが、妹からのこの発言を機会に、私は病状報告や写真の掲載をあえて減らすことにした。エレーヌの病気の現状からは目をそらし、それでいてエレーヌ自身には「元気になって。わかっているだろうけれど、誰よりも愛しているから」との電話をしてくるような親族たちについての私の認識も、彼らへの対応も、これを境に、大きな変化を強いられることになった。
フランスの親族は、ついに闘病中も、葬儀にも、死後のさまざまな整理の間にも来日しなかった。現在の私は、彼らになんの困惑も怒りも感じず、人間というものの多様な振舞いかたの一例を思わされるばかりである。
彼らのひとりひとりをよく知っている私としては、他ならぬ私に、エレーヌのすべてを先ずは任せるのが最良、との考えを彼らが持っていただろうと思う一方、そういう考えをたくみに隠れ蓑として利用しつつ、面倒なことは他人にしっかり押しつけるという見事な振舞いかたをしたのだとも思う。
はじめから彼らのこうした目算をほぼ見抜いていて、ひたすら「泳が」せ、人間の醜さをいつもながらに観察するのを楽しんだ人間喜劇好きの私も、それなりの振舞いかたをしたことにはなるかもしれないが…
エレーヌの親族のような振舞いはどこの国でも見られる人間模様で、こういう振舞いかたに秀でた人間には事欠かないのがこの世というものには違いないが、それにしてもフランス人には、ことの他こういう者たちが多いナァ、…
…とここで呟いてしまえば、はたして、言い過ぎということになるだろうか…
在東京フランス領事は、エレーヌの親族について、このように私に語ったものだった。
「フランスの代表としてお伝えしたいのですが、日本の友人の方々には本当にお世話になりました。この親族というのは…、まったくフランスの恥です…」
これを思い出せば、もちろん、フランス人全般に話をひろげて考えるべきではないだろうとは思われるのだが…
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| le 23 juillet 2010 |
駿河 昌樹
(Masaki SURUGA)
2009年から2010年、エレーヌの闘病中、フランスの親族に状況を伝える一環として、ネット上のフォトサイトPhotobucketにある程度の数の写真を掲載し続けた。
当時、エレーヌとどこの医療機関に行くにもカメラを携えて動き、それ自体なかなか面倒な作業となったが、彼女の親族に現状を伝えて、しかるべき行動を促すためには必要な措置であると考えていた。
この時に使用していたPhotobucketへのリンクをここに載せておく。日本のエレーヌの友人たちにも、病中のエレーヌの姿をふつうに見てもらってもよい頃になったと考える。
http://s852.photobucket.com/user/MasakiS/library/?sort=3&page=0
このフォトサイトの写真は、エレーヌの親族によってかなり熱心に見られていたが、エレーヌの体調が悪化していった時点で、故郷の妹から病気のエレーヌの状態を見たくないとのメールが来た。
私は自分の生活時間を大きく削って、写真ばかりでなく、数日おきにメールで病状報告をフランスの全親族と友人たちに送り続けていたが、この身勝手なメールには激怒させられた。東京ではエレーヌの友人たちだけが彼女を支えているというのに、血のつながった親族がなにを言うのか。若くない兄や姉妹に対して、遠い日本に来てすべてをやれとまでは望まないにしても、数多いエレーヌの甥や姪のひとりぐらい、様子を見に来てもいいのではないか。
病気のエレーヌの精神状態にあまり影響を与えないように、こういう親族たちをそのまま「泳がす」ことにしたが、妹からのこの発言を機会に、私は病状報告や写真の掲載をあえて減らすことにした。エレーヌの病気の現状からは目をそらし、それでいてエレーヌ自身には「元気になって。わかっているだろうけれど、誰よりも愛しているから」との電話をしてくるような親族たちについての私の認識も、彼らへの対応も、これを境に、大きな変化を強いられることになった。
フランスの親族は、ついに闘病中も、葬儀にも、死後のさまざまな整理の間にも来日しなかった。現在の私は、彼らになんの困惑も怒りも感じず、人間というものの多様な振舞いかたの一例を思わされるばかりである。
彼らのひとりひとりをよく知っている私としては、他ならぬ私に、エレーヌのすべてを先ずは任せるのが最良、との考えを彼らが持っていただろうと思う一方、そういう考えをたくみに隠れ蓑として利用しつつ、面倒なことは他人にしっかり押しつけるという見事な振舞いかたをしたのだとも思う。
はじめから彼らのこうした目算をほぼ見抜いていて、ひたすら「泳が」せ、人間の醜さをいつもながらに観察するのを楽しんだ人間喜劇好きの私も、それなりの振舞いかたをしたことにはなるかもしれないが…
エレーヌの親族のような振舞いはどこの国でも見られる人間模様で、こういう振舞いかたに秀でた人間には事欠かないのがこの世というものには違いないが、それにしてもフランス人には、ことの他こういう者たちが多いナァ、…
…とここで呟いてしまえば、はたして、言い過ぎということになるだろうか…
在東京フランス領事は、エレーヌの親族について、このように私に語ったものだった。
「フランスの代表としてお伝えしたいのですが、日本の友人の方々には本当にお世話になりました。この親族というのは…、まったくフランスの恥です…」
これを思い出せば、もちろん、フランス人全般に話をひろげて考えるべきではないだろうとは思われるのだが…
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