2011/02/01

アルジェのある日曜日 ―アルベール・カミュ『異邦人』―


                         フランスのある修道院の回廊にて
             photo by Masaki SURUGA
                      

 

                      エレーヌ・セシル・グルナック
                      加 藤  多 美 子  訳

 読書のもたらす楽しみについてなら、いくらでも語ることができる。おすすめしたい作品でいっぱいだ! そこでひとつ選んでみたのだが、新しいものではまったくない! それは、誰もが知っている本だが、たえず私の気にかかって、また読みたくさせる一冊、アルベール・カミュの『異邦人』である。ここでは、この名著の中の第一部、第二章のただ一節(訳者注:新潮文庫p23-p27)をとりあげたいと思う。ふしぎなことに、この一節が今日、以下に述べるようないろいろな自由な想念を私にもたらしてくれるからである。

 主人公はセックスフレンドのマリイが出て行ったあと、ひとりでいる。彼女は今朝、彼がまだ眠っているうちに帰っていった。きょうは日曜だ。彼はこの日を、自分の部屋の「少しへこんだ藁椅子と、鏡の黄色くなった洋服だんすと、化粧台と、真鍮のベッドの間」で、ひとりきりで過ごさなくてはならない。「そのほかは散らかっている」。何をするのだろう? 世の独身男の誰もがすることを。彼は遅くまで眠り、ベッドで煙草を吸い、生きるためにはちゃんと食べなくてはならないから、昼食をとる。独り者の男たちの恐るべき過ごしかただが、一滴のアルコールもとらないのは不自然だ。週日のように、彼は外で飲むこともできるだろうが、母の葬儀のあと、自分と他人の間に少し距離をとっていたい。それから、日付のわからなくなった古い新聞を読み、「最後に」、椅子にすわってバルコニーから通りを行く人々を眺めようとする。夕方までそうしている。日が暮れてしまうと、彼は空腹になり、夕食のために何か買いに降りていく。食事を「立ったまま」飲み込み、そしてアパートの窓を閉めにいく。日曜日の終わるいま、大気は冷え、月曜日と皆の平常の生活がもうすぐそこに近づいている。

 この日曜日に主人公がしたり、考えたりすることは驚くほど現実的で客観的である。何か特別な感情、あるいは少なくとも彼を根底から狂わせるような実存的不安といったものは、見たところ何も、明らかにはされない。ごく普通に、いくらかこぼすだけだ。マリイが行ってしまって少しさびしい、「日曜は好きじゃない」、昼食後、「少し」退屈だ……と。だから、長い時間眺めわたしている空、彼を吸い込んでしまいそうな空に、自分の心の奥底を預けるのだろうか? 空は昼夜を問わずいつでも、限りない寛大さで、彼に尽くしてくれる。しかし、いつの日かが――私たちの誰をも待ち構えているのだが――彼が空のえもいわれぬ美しさに好きなだけ耽ることを、もはや許さなくなる。このは、やはりきょうも彼の気を「少し」重くさせているのかもしれない。 彼はそのことを考えているのだろうか? この章の最後の文章も見ておこう。彼はここで、「相も変わらぬいやな日曜日だった」、ママンは死んでしまった、日々の生活が戻ってくるだろう、そして、「結局、何も変わったことはなかったのだ」と結んでいる。この文を読むと、ムルソーの気持がよりわかる。彼はこの日をできるかぎり受け止め、そして、あらがっても無駄な、動かしがたい運命を、まるごと心にしみて感じてしまったと、読者に言っているようにみえる。人生についても、誰のことも、全くけなさず、投げやりな気分で自分の置かれた状況をしらけて考えているのでは全然ない。彼は一種のノーマンズランド(中間領域)にいたのであり、彼を待ち受けかねないもの――いっぽうではうつ状態や悲嘆に陥ること、他方では彼に人生を信頼し続けさせるための何か神秘的な瞑想に耽ること――の間で、自分なりの均衡を保つことができたのだった。二番目の可能性はおそらく、彼らしくないのだけれども。このような徹底した中立的な態度で、涙の出るほど平凡な日曜日を、彼は無事に、見た目にはかすり傷ひとつ負わずに、切り抜ける。彼の大きな強みは、生の中にすっかり存在し続け、自分の注意を引く物事や人々と一体になれたことである。彼は自分の孤独を他の人々の生活で満たした。この日曜日の通行人たちに、特にすばらしいところは何もない。だのに彼は、彼らをじっくり観察して、詳しく正確に報告するのだ。生の動きこそが彼には一番ありがたいようだ。そのおかげで、過去といえば母親の埋葬を思い出すだけだし、未来に対しては、翌日自分を待つ職場のことを考えるだけなのだから。
 しかし、この「相も変わらぬ」という言葉は、主人公がこの日曜日がやっと終焉していくのを見て嬉しいということを、まさに強調している! 言い換えれば、生きることはすばらしい、だがすべてを台なしにしてしまうを考えずに、どのようにして生きられるだろう? なぜなら、私たちが十分に満足しているとき、はあまりにはやく経ってしまうが、退屈していると――それがほんの「少し」であっても――は重くて耐え難いからだ。もちろん、主人公は若く、人生はこれからだと言えよう。部屋の窓を閉め、テーブルの上のアルコール・ランプのかたわらに食べ残しの「パン切れ」を見つけて、安堵のため息を、その有難みもよくわからずに、つくことができる。小説の終わりでは、反対に、自分に残された日数を、独房の中でゼロに向かって数えることになるだろうに。

この日曜日は思いつくかぎり最も平凡で、おそらく誰も過ごしたいとは思わない。にもかかわらず、耐え難い真実を含んでおり、だからこそ、決して忘れることのできない日曜日なのである。



                           終




【管理人の注】
  Un dimanche à Algerの日本語訳。『水路』別冊「私が面白かった本」特集号(2008年発行の7号と8号の間、大林律子編集代表)に掲載された。ここへの再録を快諾された加藤多美子氏に感謝する。

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