2021/11/01

エレーヌ・グルナック、没後11年


 











 エレーヌが亡くなって、11年が経った。


 亡くなった2010年、インフルエンザが大流行していると言われていたので、抗がん剤治療で免疫力の落ちているエレーヌは、外出時にマスクをすることが多かった。

 2020年から2021年は奇妙なマスク時代となってしまったので、それにあわせて、今回はマスク姿のエレーヌの写真をいくつも挙げておこうと思う。

 

 Tully’s coffeeを前にした写真は、201064日のもの。

 渋谷の古い東急プラザの1Fの風景。

 すでに取り壊され、さらに新築ビルも完了して、今では全く異なった風景となっている。

 この日は、市ヶ谷の「健康増進クリニック」へ高濃度ビタミンC注射を受けに行った。

 駒沢の「東京医療センター」で主要な治療を受け続けていたが、それに加えて、こうした周辺的な治療も受けていた。「健康増進クリニック」での高濃度ビタミンC注射、「瀬田クリニック」でのがん免疫細胞治療療法、さらに漢方療法などだった。

 64日は渋谷で待ち合わせし、そこからタクシーに乗って市ヶ谷に向かった。

 エレーヌは、このしばらく後、急に体力を失い、歩くこともできなくなっていくが、この日はまだ普通に歩けていた。

 

 写真のこの日よりもだいぶ後のことだが、エレーヌが歩けなくなった瞬間に私は居合わせている。

 やはり、市ヶ谷の「健康増進クリニック」に行った時のことだった。治療を終えた後、靖国通りを駅近くから日大方面へ上っていく途中、舗道でエレーヌが立ち止まって、動けなくなってしまった。

「健康増進クリニック」の治療の後は、この通り沿いにあるドトールコーヒーに寄って、コーヒーとサンドイッチを頼むことが多かったので、その日も店に向かうところだった。

 立ち止まってしまったところからもう少しの場所に、ドトールコーヒーの店はある。店まで着いて、座って少し休めば体力も戻るのではないかと思ったが、もう全く歩けない、とエレーヌは言う。舗道に立ち止まっているのが精一杯だ、と言った。

 しかたなく、そこでタクシーをつかまえ、入院していた駒沢の東京医療センターまで戻ることにした。

 

 その頃、エレーヌには腹水が溜まるようになっていたが、その量も増え、衰弱が進んで、ずっと夏じゅうを病院で寝て過ごすことになった。

8月半ばから回復し始め、リハビリも行って、8月末に奇跡的に退院するに到った。

 以後の約50日間は、リハビリを続けながら家で過ごし、少しずつ元気になっていくかに見えたが、10月半ば頃から、ふたたび徐々に動きづらくなり、1020日に、急遽、入院することになった。

 1030日に季節はずれの台風14号が東京を吹き荒れた。それに伴う気圧の変動なども影響したのだろうが、台風の日は一日中、エレーヌは眠り続けた。

そうして、1031日の3時頃には危篤状態に陥り、7時10分に亡くなった。

 

私は、家の固定電話番号も、携帯電話番号も、同じ書類に記して「東京医療センター」に伝えてあったが、3時以降に何度も危篤を伝えるべく病院が電話してきた先は私の携帯電話のほうで、家のほうには一度も掛けてこなかった。

就寝時は、眠りの邪魔にならないように、私は寝室から離れた書斎に携帯電話を置いておくようにしていた。家の固定電話のほうは寝室に近いので、そこに掛かってくれば、すぐに目覚めたはずなのに、そちらのほうは一度も鳴らなかった。

エレーヌの臨終に立ち会ったのは、主治医ではなく、当直の若い医師で、私の携帯電話に電話していたのも、その医師だったらしい。

その若い医師がエレーヌの担当になった際、エレーヌは私に、その医師が気にくわない、この人はなにかよくない、とたびたび言った。

別にこれといった問題はないのではないか、と私はエレーヌに言ったが、最期にあたってのこの連絡の不手際で、エレーヌが感じていた何かを悟ったように思った。

エレーヌの最期にあたって、彼女の臨終に友人知人の誰ひとり立ち会うことができなくなるような不手際をこの医師が引き起こすことになるのを、たぶん、エレーヌは予感していたのだろう。

 

 その頃、私は北区の王子神谷に住んでいた。駒沢の東京医療センターまでは、急いで行くにしても、タクシーでながながと環状七号線をまわって行くことになる。東京医療センターに着いて、エレーヌのいる病室に入ったのは、7時40分だった。私が電話でエレーヌの危篤を伝えておいた、近在のエレーヌの友人の於保好美さんは、自転車を走らせて先に着いていたが、それでも臨終には間に合わなかったという。

 ベッドに横たわったエレーヌに、「エレーヌ・・・」と声を掛けると、エレーヌの閉じられた目から涙が流れたが、亡くなったばかりの人の目からはよく涙が流れるということなので、そうした反応の結果の涙に過ぎなかったかもしれない。それでも、死に目に間に合わなかった私たちがようやく来たので、流れ出た涙であるかのように、私には見えた。

 

 死の床でエレーヌが着ていたのは、ユニクロ製のロイ・リキテンシュタインのTシャツだった。私が使っていたものを、入院中のエレーヌに使わせようと持って行ったうちの一枚だった。

 急に危篤に陥る際、エレーヌは他のものを着ていて、その上に黄土色のカーディガンを着ていたらしいが、意識を失って失禁し、汚れてしまった。看護師が着替えさせたらしい。汚れたものがビニール袋に入れて置かれていて、洗えばまだ使えただろうが、そのまま捨てることにした。

 遺体を柩に入れる際に、いくらかは正装っぽい黒いTシャツなどに着替えさせたので、ロイ・リキテンシュタインのTシャツは脱がせて、ふたたび私の元に戻ってくることになった。

 11年経ったが、私はまだ、そのTシャツを使っている。首元などが古びて、緩んできたが、家の中で、どうでもいい格好になって着る分には、まだ使える。使うたびに、エレーヌの最期の姿を思い出すが、べつに気にもならない。ぼろぼろになるまで、使い続けるだろうと思う。



  
 201064日の、移動中のタクシーの中での写真も掲載しておこう。
 あまりこのブログなどには載せなかったものだ。
  
 当時、エレーヌに付き添ったり、介護したり、荷物を持ったりしながら、私はいつも一眼レフを持って、エレーヌを撮り続けていた。
 誰よりも健康で、身体も強ければ、エネルギーもあったエレーヌが本当に死ぬなどとは思っていなかったが、それでも末期ガンと宣告されていたので、少しでも多くエレーヌの姿を撮しておきたいと思っていた。
 そう重いカメラではなかったが、他の荷物にあわせて嵩張るカメラをいつも持ち歩くのはけっこう難儀で、楽ではなかった。が、初代のiPhoneが出始めた頃とはいえ、今のようにスマートフォンなどあまり出まわっていない時代だったので、写真撮影をするとなれば、カメラを持ち歩く他はなかった。

 今から見直すと、よくもたくさん撮ったものだと思う。
 そこまでして撮る必要があったのか、と、当時も思ったし、その後も思った。
 今になってみると、カメラを持ち歩く面倒臭さも煩わしさも消えて、撮った写真は、エレーヌという人、彼女がいたあれらの時間、エレーヌがいたということなどへの貴重な入口として、当たり前に、あるべくして私の手元に残っている。
























                              駿河昌樹 記