2022/11/01

エレーヌ・グルナック、没後12年

 

            故郷、サンシェリ=ダプシェで。


           エレーヌは毎日占いをやっていた。

           トランプ、水晶の振り子、易、その他

           いろいろなカードを用いた。

           これは、旅の宿でタロットをやっている時。



         大学の授業の後で。1990年代かと思われる。




            沖縄か奄美か九州の旅行の際に立ち寄った家で。

        初対面のこの老婦人に非常な親しみを感じたそうだが、

       「わかります。だって、他の人生で会っていますからね」

         と、老婦人はエレーヌに言ったという。


       まだJRが国鉄だった頃の飯田橋駅前で。

       撮影は、立教大学講師だったアラン・コラAlain Collas氏。

       のちに、東京芸術大学の専任になったコラ氏は、

         日本仏教に通暁していて、

                         日本人でも読むのに苦労する漢字の仏典などをすらすら読めた。

       エレーヌとは、パリの東洋語学校での学生時代に知り合っていた

       旧知の仲である。



            世田谷区代田の家の近くの公園(代田1-21)で。

        毎晩、この公園に行き、野良猫たちに餌をやっていた。

        写真を撮った女性は、やはり猫好きで、

        野良猫に餌をやってまわっていて、エレーヌと知り合った。

        難病を抱えていて、たびたび卒倒したり、危篤状態に陥った。

        エレーヌの死後、時々、私は連絡をし合っていたが、

        数年前に絶えた。

            その女性は、Facebook上では、Mary Goshの名で

        主に自分の飼い猫の写真を投稿していたが、

                             2018年10月7日を最後に、更新は途絶えた。



 エレーヌが亡くなって12年になる。

 12年も経つと、さすがになにか一巡したような感じもあり、悲しさや喪失感のようなものはない。

 輪廻転生を信じていたエレーヌのことだから、どこかに転生しているに違いないとも思う。もし本当に転生していれば、エレーヌがいなくなったのをいつまでも惜しみ続けるのは、転生後の新しい生に対して差し障りがあるのではないか、とも感じる。

 エレーヌのまなざしの強さは特徴的だったので、世界のどこかにいる、10代の子や、もっと小さな子のまなざしを見れば、エレーヌの生まれかわりを見つけられるような気もする。

 たまたま女性として生まれてきたものの、性質は男性のようなところがあり、冒険家の気質の強かったエレーヌなので、次の人生は男性として生まれてきているかもしれない。

 私が会った頃以降のエレーヌは、女性的な服装を嫌っていた。1980年代まではスカートを穿くこともあったが、だんだんと減り、やがてパンタロンやジーンズしか穿かなくなった。上はいつもTシャツになった。

 亡くなった時も、棺桶に入れる際に、服のことでは少し困った。正装のようなものや、小ぎれいなものを一切持っていなかったからだ。しかたなしに、黒いTシャツの比較的新しめのきれいなものを遺体に着せた。もちろん、そういう姿のほうがエレーヌらしかった。

 服装もそうだが、女性の生き方として、貴族のような生き方やブルジョワジーのような生き方を忌み嫌っていた。王侯貴族の生活は、他の人生でさんざん経験してきた実感があるから、と言っていた。豪華な物に取り巻かれていても、自由のない生活は、想像するのも嫌だと言っていた。貧乏なぐらいでも、自由でいることがいちばんの喜びだった。1941年に生まれて、2010年に死ぬという今回の人生のプログラムにおいては、そういう人生をかなり実現できたと言えるはずだ。

 それでも、過去世の王侯貴族の生活に、時々懐かしさも覚えるのか、シシィと呼ばれるオーストリア皇后エリーザベト・フォン・エスターライヒへの興味は強かった。従甥にバイエルン王ルートヴィヒ2世を持つシシィに興味を持つのは、女性にありがちなロマンティシズムとも言えるが、シシィは本当にかわいそうだと言いながら、いろいろな本を漁るエレーヌには、別の理由や視点があったように見えた。

 古代エジプトの王女ネフェルティティへの関心も強かった。

 古代エジプトで生きていた感触をエレーヌは強烈に抱き続け、終生、エジプトにこだわり続けた。古代エジプト研究家の酒井傳六氏と交流があり、著書も貰っていた。夫人にフランス語を教えていたことから、酒井傳六氏その人にも接することになった。酒井氏は外語大仏語科卒でフランス語ができたし、朝日新聞社の特派員としてエジプトに居たこともあった。

 エレーヌは、古代のどこかで、原子力の研究者だった過去が自分にあると、つねづね言っていた。核に関わる事故に遭ったことや、秘密が洩れないように生き埋めにされて殺された記憶を強く持っている、と言っていた。古代エジプトにそのような事跡があったかどうか知らないが、エレーヌは、その経験はエジプトだったと言っていた。


 エレーヌについて、このブログに書く機会も減ったが、エレーヌのことを思わなくなったわけではなく、私は毎日、エレーヌに線香と水を供えて礼拝をしている。そのため、あまりに身近すぎて、わざわざ、いろいろなことを文章にする必要を感じない、というほうが正しい。

 エレーヌが語る形式で、1982年時点の世田谷区池の上での彼女のひとり暮らしの生活について、小説も書きはじめており、私の中では、むしろ、エレーヌはもっと近い存在になっている。

 今回、すこし珍しい写真を掲載してみたが、エレーヌに関する写真は多量にあって、いまだに未整理のまま、押入れに入れてある。ちょっと取り出してみるだけでも、すぐに半日は潰れてしまうほどなので、忙しい身としては、それらに触れるのが億劫になってしまうのだが、すこしずつ分類や整理をしていきたいとは思う。

 写真をこのブログにももっと載せていきたいとも思うが、なにぶん、プリントされたものをカメラで撮り直す必要があり、光沢のあるプリントの場合は写り込みもあって、容易ではない。

 それでも、すこしずつ進めていこうとは思っている。


 駿河昌樹

 

2022/03/18

1983年3月18日16時

 





 

 駿河 昌樹 (Masaki SURUGA)

 

 古い手帖を整理していたら、過去の記念日をメモしたページが出てきた。

 ひさしぶりに、1983年の3月18日のことを思い出した。

 

 その日、1983年3月18日の夕方4時、新宿紀伊國屋本店の洋書の階で、エレーヌと待ち合わせしていた。

エレーヌと、はじめてふたりだけで会うことにした日だった。

 

彼女とは、その数年前に鎌倉で出会っていた。

大学の哲学の先生が、学生たちを集めて鎌倉散歩を催した時に、先生の知りあいということでエレーヌも来た。

日本語とフランス語とでいろいろ話したが、それだけのことだった。

こちらもフランス文学や哲学を学んでいたし、のちのち役に立つこともあるかもしれないので、電話番号だけ聞いておいた。

しかし、それっきり、何年もエレーヌのことは忘れてしまっていたし、電話をかける必要もなかった。

 

1983年の3月のある日、眠りから覚める時に、男のはっきりした声で、宙からこう言われた。

「エレーヌさんに電話しろ! すぐエレーヌさんに電話しろ!」

冗談のようだが、本当の話だ。

その日のうちに電話した。

今日や明日は用事があるので、それでは18日に、とエレーヌが決めた。

 

1983年の3月18日、シャツの上に白い厚手のセーターだけを着て、ぼくは出かけた。ジャケットを着るほど寒くはなく、また、ジャケットを着ると暑すぎると感じる日だった。

新宿紀伊國屋には、すこし早めに着いた。

地下の奥にトイレがあるので(今でも、まったく同じかたちである)、先に寄っていこうと思った。

2階へ上るエレベーターをふと見ると、上がっていくエレーヌの背後が見えた。

あ、エレーヌさん、来たんだな。あまり待たせないようにしないとな。

そんなことを思いながら、ぼくは地下のトイレに向かった。

 

すこし後で、たしか当時は8階だったと思うが、洋書の階に上がっていくと、エレーヌはフランス語の雑誌を読みながら待っていた。

 

きょう、2022年3月18日、こうして39年前の3月18日のことを、ありありと思い出してみている。

おととい、まったくの偶然から古い手帖を整理していて、3月18日という特別の日を思い出したのだが、きっと2010年に死んだエレーヌの側から、懐かしみの波が下りてきたのだろう。

 

このことを人に話す時には、なんどもくり返してきたが、目覚める時に男の声で、

「エレーヌさんに電話しろ! すぐエレーヌさんに電話しろ!」

と強く命令されたのは、本当のことだ。

エレーヌに電話した時も、

「こんなことを言うとヘンに思うでしょうけれど、男の声に命令されたんです。あなたにすぐ電話しろ、というんです・・・」

と、奇妙な言いわけめいたことをしゃべった。

カミュの『異邦人』のムルソーの名文句、「私のせいではないんです」のようなことを自分が言っているな、と思った。

エレーヌは、このことをまったく疑わなかった。

「この世ではいろいろなことがあります」

不思議な話が出ると、彼女はいつもこう言ったし、この態度は死ぬ時まで変わらなかった。

 

じつはエレーヌのほうでも、ぼくの出現を予期していた。

だれか、若い男が近づいてくる、という強い予感があって、トーマス・マンの『ベニスに死す』を読みながら、そうした出現を確認しようとしていた。

もちろん、ぼくのほうは、あの小説の美少年タッジオとは比べるべくもなかったけれど、エレーヌにとって決定的な存在となる点だけは、共通していたといえる。

エレーヌは定期的に霊能者のところに通っていて、いろいろと導きを受けていた。

その人のところへは、ぼくも何度か言ったことがある。

六本木の、俳優座劇場やアマンドのある交差点から、防衛庁本庁檜町庁舎(現在の東京ミッドタウン)を過ぎていったあたりのマンション内の一室を祈祷所としていて、神林栄風と称していた。

マンションは、たしか現在もあるフォンテ六本木か、その隣のマンションだったと思う。エレーヌと行った時、隣りあうマンションのどちらだろうか、と何度も迷った経験がある。

ひとりで生きるのがエレーヌ自身にはふさわしく思え、とてもではないが、男性とはつき合えないし、ましてや、いっしょには暮らせない、と、その霊能者には言っていた。

しかし、神道系のその女性霊能者は、

「それはあなたの自由ですが、その人とつき合わないのはとても残念です。何度もの生まれかわりの中での、たいへんな損失となります」

と、むしろ、後押しするようなことを言った。

 

エレーヌが、男性と関わるのを逡巡するのには、理由があった。

過去にふたりの婚約者がおり、破談にしていたのだ。

どちらもパリの大学の医学部で知り合ったフランスの医学生で、裕福な家の息子たちだった。ふたりとも、後に医師になった。

つき合いを申し込んでいた男たちはさらに多かった。中には、城や屋敷を持っている老人もいて、レストランで食事をするたびに、宝飾品をプレゼントしようとした。

しかし、エレーヌが20代や30代だった時代、フランスでさえも女性はそう自由ではなく、裕福な家に嫁いだら、義母や家のしきたりの奴隷になる他なかった。

婚約者のひとりはベトナム人で、結婚したら大家族をエレーヌに任せたい、特に、もちろん父母の世話を見てもらいたい、と言っていた。

もうひとりの婚約者はフランス人で、その母親とは気が合ったが、それでも家に招かれてのディナーの際には、バナナや桃を出されて、それをナイフとフォークでうまく剥いて食べられるかどうか、エレーヌに試験したりするのは当たり前だった。

なにより自由を求め、じぶんの好きな勉強や読書や映画や観劇を続けることを大事にしたエレーヌには、このふたりの婚約者たちの家のどちらも、耐えがたかった。

 

そんなエレーヌが、完全に生き方を変えることになるのが、1983年だった。

41歳だった。

ぼくのほうは23歳。

日本在住のフランス人やヨーロッパ人たちの間では、18歳の歳の差のあるぼくらは、奇跡的なカップルの象徴と見られていた。

エレーヌの親しかったフランス語教師ジョルジーヌ・ヴィニョーや、ラ・クロワ紙の特派員で、ジョルジュ・ビゴー展を企画・主催したエレーヌ・コルヌヴァンなどとは年中会っていたので、彼女たちがどんどんとぼくらの話を広げてもいた。

ジョルジーヌは、画家で、西武百貨店のパリ事務所のメンバーのひとりだった岩田滎吉(エルメス、ヴィトン、サンローランなどのブランドの日本への導入に力があった)や三宅一生のフランス語の先生でもあったし、1980年代まででは、東京では有名なフランス語教師だった。ジョルジーヌのところで時々開かれるパーティーでは、今も岩波文庫にラ・ロシュフーコーの翻訳がある二宮フサさんもよく来ていた。渡辺一夫の後継者であるフランス文学者二宮敬の妻で、当時は東京女子大の教授だった。

 

 1983年3月18日は金曜日だった。

 金曜日の夕方の新宿は、人通りが多かったように記憶している。

 最近のインターネットというのは便利なもので、この日のことを調べると、何日が経過したかさえ出てくる。

 14245日が経ったらしい。

 そんなに経ったか、と思う。

 それだけしか経っていないのか、とも思う。