2019/11/23

エレーヌの78歳の誕生日とエレーヌの撮った写真


代田の自宅の庭で。
2003年頃の冬?
エレーヌ自身が小型カメラで撮影。
87.6と写真にあるのは、カメラの日時記録の故障。


 駿河昌樹
(Masaki SURUGA)

 エレーヌは1941年11月22日生まれなので、生きていれば、きのうで78歳になったことになる。
 11月22日といえば、フランスのド・ゴール大統領と同じ誕生日だし(1890年)、なにより、アメリカのケネディ大統領の暗殺された日で(1963年11月22日)、生前は、この日がめぐってくると、年中行事のようにこれらのことがエレーヌとの会話に上った。
 ナチスに対して抵抗し続け、戦後はアメリカ覇権に抵抗し続けたド・ゴール大統領は、20世紀のフランスの超重要人物で、もちろんエレーヌは、とりあえずは彼とは何の関係もないわけだが、それでも少女時代、エレーヌは、ド・ゴールと握手したことがあると、ちょっと誇らしげに私に言うことがあった。エレーヌの故郷のロゼール地方に、戦後、地方遊説かなにかでド・ゴールが来たことがあって、その時に道に並んで見ていたエレーヌも、たまたま握手したのらしい。

 毎年のエレーヌの誕生日頃には、どんなことがあったのだろう、どんなことをしていただろう、と古い手帳を見ながらふりかえってみると、30年ほどの手帳が残っているので、あまりに多くのことがよみがえってきて、困ってしまう。
 誕生日だからといって、パーティーのようなことをするのは好まないエレーヌだったし、たいていの時はふつうに仕事で忙しく日を送っていたので、これといったことをするわけでもなかった。
 ○○歳になったね、とか言うと、「あああ、イヤです」とか答えていたように思う。若いことへの愚かしい信仰のようなものはなかったと思うが、やはり、歳をとっていくことは快くは思っておらず、せめて心身は若く保っていたいという気持ちは、おそらく、だれよりも強く持っていたように見える。少なくとも、老いもよいものだ、などという考えは、まったく持っていなかった。老いていくのはしかたないとしても、それには負けたくないというのが、エレーヌのふだんの考えだったように思う。

 2004年の11月22日、誕生祝いにと思って、私はひと鉢のポインセチアを買って、エレーヌの家に持って行った。エレーヌは仕事に出ていて不在だったので、居間に置いてきた。
 エレーヌは、家の中を植物でうまく飾るような気質に欠けていたので、冬などは室内がすこし寂しくなる。ちょっとは植物のグリーンがあってもいいのではないか、と私は感じていた。その頃三軒茶屋に住んでいた私は、ふと思いついて、近所の花屋でポインセチアの元気そうな鉢を買って、わざわざ歩いて届けに行くことにしたのだった。
 夜になって、エレーヌから電話が来て、ポインセチアを置いていったのは私か?と聞かれた。冬だし、誕生日だから、赤とグリーンであかるい感じになっていいと思って…と言うと、ポインセチアは大嫌いなので困る、本当にイヤです、などと言われた。
 ずいぶん長いつき合いながら、このことは知らなかったので、ああ、そうなの、悪いことをしちゃったね、と答えておいたが、こちらも忙しいなかで、わざわざ鉢を選んで、エレーヌの家まで行き来して2時間ほどは費やしたというのに、ありがとうのひと言くらいあってもいいようなものなのに、とちょっと不愉快になった。
 エレーヌは、薔薇は大好きだったし、あざやかなピンクのツツジも大好きだったし、梅も桜も好きだったので、花の少なくなる季節にすこしでも色どりを、と思って、ポインセチアを送ったのだが、花というよりは、あの葉っぱに色のついただけのような嘘っぽい形状が、花好きのエレーヌを苛立たせたのかもしれない。

 ともあれ、誕生日にエレーヌになにかをあげるというようなことは、この時を機会に、すべて終わりにすることにした。だいたいエレーヌという人は、ケーキは嫌いだし、お菓子も嫌いだし、チョコレートは大好きだったが、それも、甘くない、カカオの純度の高いものに限っていて、本人がしっかり選んで買ってきていたので、お祝いのプレゼント的なものではいけない。そうなると、プレゼントとしては薔薇あたりが適当だということになるが、11月の終わり頃では、保ちのよい良い薔薇も少ないので、あまり積極的に買う気になれない。こう考えていくと、けっこう面倒くさくて、気が乗らなくなっていったのだった。

 2008年の11月21日の手帳の欄には、来週にエレーヌと上野の西洋美術館に行くので、今日は行かない、とのメモがある。翌日の誕生日を意識して、そのあたりの日にいっしょに行こうと考えていたものらしい。
 翌週の28日(金曜日)にはエレーヌと上野に行き、西洋美術館で「ヴィルヘルム・ハンマースホイ」展を見た記録がある。この後、世田谷に帰ってきて、三軒茶屋のすずらん通りにあった定食屋「はとぽっぽ」で定食を食べた。エレーヌはたぶん、肉野菜炒めか野菜レバー炒めかなにかを取ったはずだが、ときどき入ることにしていたこの店では、エレーヌは特別に頼んで、肉や野菜を除いてただの野菜炒めにしてもらっていた。
 今もこの店はあるかな?と思って調べてみたら、2016年10月27日に閉店したのだという。創業1977年で、39年ほど続いていたらしい。エレーヌの死んだ後、6年ほど生きのびていたわけだが、三軒茶屋を離れた私も、もう行かなくなっていた。
  https://kaiten-heiten.com/hatopoppo/
 
 「はとぽっぽ」の閉店を知って、そういえば、1980年代や90年代にたびたびエレーヌと行って食べた下北沢の定食屋「千草」はどうしただろう、と思い、調べてみると、「千草」のほうも2013年3月31日に閉店したのがわかった。家で魚を焼いたりしなかった頃の私たちは、「千草」で焼きサンマ定食や、サバ味噌定食、ブリ照り焼き定食などを食べるのを楽しんだ。惣菜も充実していて、エレーヌはよくヒジキやレンコンを注文したりしていた。私たちは常連だったので、元演劇女性たちだったらしい店主や他の個性的なおばさんたちといろいろ話したりして、楽しい店だった。
  https://love-shimokitazawa.jp/archives/3206

 下北沢には、エレーヌの好んだ自然食レストラン「ありしあ」もある。そちらのほうは現在もやっているそうで、食べログなどにも載っている。
  https://tabelog.com/tokyo/A1318/A131802/13087312/dtlphotolst/1/smp2/



 さて、今回のページには、エレーヌ自身が撮った写真も数枚出しておこう。

 猫好きが嵩じてきたエレーヌに、私の小型カメラをひとつ持たせて、写真を撮らせてみたことがあった。
 ただシャッターを押すだけの、扱いの簡単なカメラだったが、それまで一度もカメラを使ったことのなかったエレーヌが撮ると、驚くほど下手くそで、この人はカメラに関しては本当に才能がないんだなぁ、と逆の意味で感心させられた。
 ここに載せるのは2003年頃の写真で、なんだかなぁ…という写真の中でも、まだしも見られるものを選んだ。カメラの日時記録機能が壊れていて87年となっていたりするが、写真に印字されている年や日は間違っている。
 下手とはいえ、エレーヌ自身が見て、わざわざ撮ろうとした光景がそこには定着されているので、その意味では、エレーヌの目を体験できるものだとはいえる。家にずっと居た主のようだった雌猫ミミ以外に、エサをもらいにいろいろな猫が来るようになっていた頃で、寝室に入っては畳の上や布団の上で休んで行ったり、玄関わきの自転車置き場ではエサを食べて行ったりしていた。
 冬の日、庭の物干し竿に洗濯物を干しているのを撮った写真もあるが、試しに撮ってみたものだろうか。猫も写っていないし、なにを狙って撮ったのかわからないが、寝室から外を見た時にふつうに目に入るなんでもない風景が定着されている。今になって見てみれば、逆に、とても懐かしい、二度と見直すことのできないもので、これがエレーヌの視覚的日常だった、と、あらためて思う。
 エレーヌの生きていた頃の、代田1丁目7-14の、冬の暖かめの日の光景が、ここにはある。








2019/11/05

世界中で見られているエレーヌのこのブログ






  駿河昌樹
  (Masaki SURUGA)


 すこし楽屋裏のお話をしようかと思う。
 ここに載せたのは、このブログの今日時点での閲覧状況。
 2010年に開始して以来、どれだけ見られてきたかが、だいたい、わかる。
 イタリアよりも少ない数字もたくさん並ぶが、表の表示の都合でぜんぶは見えていない。

 有名人でもなかったエレーヌのブログが、これだけの数、ネット上で見られてきたのは、やはり、驚くべきことではないか、と思える。

 日本国内で、友人や知人がなんども見るということは、もちろんありうるので、34512回も見られるのは、まだ理解できる。
 しかし、外国からのこれだけのページビューは、いったいどういうことだろう。
 この数の多さには、じつは2013年頃には気づいていた。

 たぶん、エレーヌがフランス語で書いたデュラス、プルースト、サガン、カミュなどについての文章が、世界各国の学生たちのレポートの参考になっているのではないか、と思われるのだが、もちろん、文学好きの人たちにも、ちょっとした参考になったりしているのではないかと思われる。日本に興味のある外国人たちにも、いろいろと参考になっているのは、想像に難くない。

 エレーヌ自身が出会うことのなかった世界中の人たちに、エレーヌ・セシル・グルナックという人が2010年まで日本に生きていた、ということが、これだけの数で、すこしは知られるようになったのは、このブログをつくって、維持してきた私としては、ほんのちょっと嬉しい。
 そしてまた、これがインターネットというものだ、と再確認もさせられる。

 すでにご存じのように、このブログは、エレーヌ自身がまったく関わらずに、私だけの意思で立ち上げ、維持し続けてきた。
 死の近い頃のエレーヌに、書いたものを載せるブログを作ったらどうか、事務的な実際の作業はぜんぶ私が受け持つから…と聞き、許可をとり、進行の意思を確認はしたので、その意味ではエレーヌの意思もしっかり入っているが、機械やインターネットなどを煩わしいものとしか思わない傾向のあったエレーヌに、面倒なことは始めたくないという躊躇が最後まであったのも事実である。

 始めた当初、じつは、エレーヌと非常に親しい人と自称する人たちから、私が編集するこのブログの形態への批判がずいぶんあった。自分の知っているエレーヌさんが、こんなブログを許すわけがないとか、エレーヌのフランス語の文章の翻訳を載せるべきではない(エレーヌのオリジナルな発言ではないから)とか、私のエレーヌの紹介のしかたや見せ方が、本当のエレーヌを損なうものだとか、いろいろとメールで批判された。
 不思議だったのは、そうした人たちが、エレーヌと非常に親しいと自称しながら、しかし、2009年からのエレーヌの闘病期や最期の頃にも、まったく連絡もよこさなければ、顔も見せなかったことだった。1年半のエレーヌの闘病期間、親しかった友人や知りあいの人たちは、ときには単独で、ときにはゆるやかなチームを作って、毎日のように病院に行ったり、エレーヌの住まいに行ったり、役所に書類手続きに行ったり、さまざまな医療機関に連れていったりしたもので、そうした人たちこそ「非常に親しい」と呼ばれうる人たちだったのは、一部始終を見てセンター役を担っていた私からは、あまりに明白なことに思える。

 いろいろと批判をメールで送ってくるほどの思いがあるのだから、「非常に親しい」と自称する人たちが、各人、エレーヌのことを大事に思っていたのは確かだと思う。そう思いながら、2010年頃は、いろいろな反応を受け続けたものだった。このことは、9年も経過した今、そろそろ、ちょっと記しておいてもいいだろうか、と思う。
 
 エレーヌに出会った人たちは、みな、それぞれのエレーヌ像を受止め、こころに持ち続けて、それによって励まされる人もいたし、得がたい親友のように思う人もいたし、ただただ、懐かしく思い出し続ける人もいるのだろう。
 『葉隠』に「心の友は稀なるものなり」という有名な言葉があるが、エレーヌが、こうした「稀なる」「心の友」であるような印象を多くの人に与える存在だったのは、やはり、確かだったように思う。

 私が編集し、維持してきたこのブログが、エレーヌを歪めて伝えていると考えて、苦々しく思う人も多いかもしれない。
 しかし、以前に書いたように、いろいろなエレーヌの思い出やエレーヌ像を、このブログには自由に寄せていただいてかまわないのだし、そのようなオープンな性質はつねに維持したいと考えてきた。そもそも、まったく違うエレーヌ像を提示する他のブログが作られてもいいのだし、さまざまな場が作られてもかまわない。

 大事なのは、ほんのすこしでも、多くの人に見やすいかたちで、ほんのすこしでも、より長く残るかたちで、ということだと思っている。
 2010年時点で、私は、紙媒体での記述や保存をする時代は、もう終わった、と思っていた。
 エレーヌに関する記録や文書の保存も、インターネット上に行うほうが、少なくとも、火事や浸水などの被害を避けられると思い、すこしでも多くの資料をネットに上げるように努めた。
 電子的な情報や回路を一瞬に消滅させる最先端の兵器はすでに開発されていて、いずれ用いられるだろうが、当面、エレーヌに関わる資料のネット化の方針は、やはり、正しかったと思われる。
 
 ネット上でエレーヌを見出し、彼女の書いたものや、彼女に関わるエピソードをお読みくださった世界中の方々には、ここで感謝を申し上げておきたい。
 ありがとうございます。







エレーヌの”遺品”のひとつ






   駿河昌樹
(Masaki SURUGA)


 手洗いのための液体洗剤のボトルの写真。
 なんで、こんなものを?
 きっと、そう思われるだろうと思う。
 もちろん、この製品自体には、なんら特別な意味はない。古い製品だが、ふつうのドラッグストアーでなら、きっと、どこでも手に入ったものだろうと思う。

 あえて写真を載せてみたのは、これも、9年間、私の手元に残り続けていたエレーヌの遺品のひとつだったから。
 
 手洗いのために使えば、もっとはやく使い切って捨てられたはずなのに、エレーヌが亡くなった頃、私の住まいにも手洗い石鹸や液体ソープのたぐいはいくつもあって、これを使う機会はなかなか訪れなかった。
 しかも、けっこう大きなボトルなので、洗面所の端に置くのが難しかったりする。
 そんな事情から、押し入れの雑貨ストックのたぐいのなかにしまい込むことになってしまい、昨年の秋頃、他のものを探していたら目にとまって、そろそろ使ってしまおう、とようやく出番になったのだった。
 使おうと決めたものの、大きなボトルなので、いまの住まいの洗面所の端には置けない。上がつっかえてしまったり、縁の上では安定しない。そうなると、他の小さめのボトルに移し替えて、少しずつ使わないといけないことになり、なかなか面倒だった。
 そんなこんなで、ボトルが空くのに、約10ヶ月ぐらいはかかったのではないだろうか。

 エレーヌが亡くなってから8年ほどは使っていなかったので、化学製品ながら、なんとなく分離が進んでいるような臭いもし、もともと、心地よい香料の入っていない製品なので、じかに手に化学物質の合成物を出しているような感じで、あまり使い心地のいいものではなかった。
 それだけに、洗面所での手洗いの際にすこしずつ使って、今年の夏にボトルが空いた時には、「ようやく…!」という思いが強かった。小さなボトルに移した残量はまだあって、いまも、最後の使い切りにむけて、すこしずつ頑張っている。

 2010年のハロゥインの日にエレーヌが亡くなった後、私の個人生活のおもな時間は、主なきエレーヌの新居での家具調度や遺品の整理に費やされることになったが、その際、台所にこの手洗い洗剤のボトルを置いて、すぐに真っ黒になる手のひらを、よく洗ったものだった。
 仕事から帰ったり、自分の生活の一日の作業にひとくぎりがついてから、夜中になってエレーヌの新居に行き、そこで、自分自身の動き以外にはなんの音もしない2LDKのアパートメントのなかで、たとえば、エレーヌの残した書類の一枚一枚、衣類のひとつひとつ、厖大な量といってよい手紙やメモの数々を、とりあえずは種類別に分け続ける。本棚やカラーボックスなどを、場所を空けたりするために、あちこちに移したりする…
 10ヶ月続くことになったそんな作業の合間合間に、台所に行くと、このミルラームの白いボトルが立っていた。一押しして、液剤を手にとって洗い、ちょっと一休みしようと、お湯を沸かして、簡易なドリップコーヒーを淹れてみたりした。
 
 私にとっては、2010年10月31日より後のエレーヌは、残された物の山を構成する、こういうひとつひとつの物として現われるようになったので、こんな大量生産品の空ボトルでも、感慨深かったりする。捨てる前に、せめて写真を撮って残しておこうと思ったりする。
 エレーヌにまつわる感傷、というより、私自身の、誰にも知られない戦いの記録のひとつかもしれない。


2019/11/03

エレーヌに酷似した人との遭遇



20世紀末、ブルターニュで。
En Bretagne


 駿河昌樹
 (Masaki SURUGA)


 エレーヌの9回目の命日を翌日にひかえた10月30日、用事を終えて湘南台駅から夕方の急行に乗ったら、エレーヌに生き写しのヨーロッパ人女性が乗っていて、驚かされた。
 髪は赤毛に近く、エレーヌよりも気難しげな顔つきで、他人にはちがいないのだが、眉毛から鼻のあたりが酷似していて、顔立ちもよく似ている。
 電車の壁に頭をつけて眠った様子など、エレーヌその人を見るようだった。
 もしエレーヌが、ノルマンディでよく見るような赤毛に髪を染めて、30代から40代の頃の顔つきで現われたら、きっとこのように見えるだろう、というような姿だった。
 その人は代々木上原で下りたが、おそらく、東京やその近辺の大学で、かつてのエレーヌのように外国語を教えて暮らしているのではないか、と思われた。
 命日のちょうど前の日に遭遇したので、エレーヌが、この人の姿を借りて現われたのではないか、と、ちょっと思われた。

 エレーヌに酷似した人に出会ったのは、これがはじめてではない。
 2009年から私が住んだ王子神谷のフレーシェル王子神谷というURには、私の棟にエレーヌそのもののような外国人女性が住んでいて、なんどとなく姿を目にした。
 エレーヌよりは少し背が高かったが、エレーヌよりも痩せていて、ずいぶん気難しげに見えた。冬の寒い日など、まるで、戦乱のなかを逃げのびてきたような悲壮な顔貌で、声をかけられるような雰囲気ではなかった。エレーヌが、チェコスロヴァキアとポーランドの混血だったことを思えば、そうした東欧の人だったのではないか。
 2017年に引っ越すまでに、一度でも声をかけて、どちらの国から見えたのですか、などと聞いてみたかったが、この人の気難しげな悲壮な顔つきに気後れして、とうとう声をかけられなかった。たしか、2017年の春先にも見かけ、ずいぶんと歳をとって窶れたように見え、エレーヌよりも若いはずのこの人も、こうして老いさらばえていくのだな、と、失礼なことを思った。
 
 エレーヌに似た人に会った経験は、もう一度ある。
 これは、エレーヌがまだ生きていた時期で、しかも、まだエレーヌは病気にさえなっていなかった頃だから、ずいぶん古い話である。2005年から2008年頃だったのではないか、と思う。
 まだ古い状態だった下北沢駅の東口の階段を上っていくと、その上にその人はいて、他にいたふたりの男の人たちと話していた。当時の下北沢駅の東口は、階段を上がると箱根そばがあり、いつも混雑していたが、そんななかで、後から来るだれかを待っているふうだった。
 エレーヌがときどき穿いていたような長いスカートに、やはり、カジュアルなジャケット姿で、どこから見てもエレーヌその人に見えた。おそらく、フランス人か、ポーランド人か、エレーヌと同じ人種の血が入っている人のように見えた。
 その人の近くを通りながら、「あれ、エレーヌ、どうしてここにいるの?」と声をかけようと思ったくらいだった。その日、エレーヌは他の場所へ仕事で行っているはずだと知っていたので、下北沢にいるのはおかしい、と思ったのだった。
 1メートルほど近づいてもエレーヌに見え、それでも、エレーヌのはずはないという思いから、かろうじて声をかけなかっただけのことで、この時は、見かけたこの人がエレーヌではないと認識したわけではなかった。
 エレーヌにしては、ちょっと古い時代のエレーヌの服装を今頃しているのがヘンだな、と違和感を感じて、そのために声をかけなかったのだったが、後になって思い返せば、そんな自分の判断も、ちょっとおかしいと思えた。
 あの瞬間、奇妙な時空に入り込んでしまっていて、ひょっとしたら、ほんとうにエレーヌの分身に出会っていたのではないか、と考えたりした。
 このことは後でエレーヌ自身に話したが、「それ、たぶん、私の分身です」と答えていた。そうして、私と話す時によくしたように、「私は、いつも、どこにでも、いますよ」と冗談を加えた。
 
 ちょっと奇妙な話になったので、この系統の話を加えておこう。
 2009年の春先の確定申告の頃のこと、梅ヶ丘の税務署にエレーヌの確定申告をしに行った際、税務署に向かう道を歩いていると、私の目の前の空の低いところに、急に雲が湧き、見る間に三つ巴の龍となって円を描いたことがある。(エレーヌは、確定申告のような面倒な計算がいっさいできなかったので、私が毎年、かわりに処理していたのだった)
 空といっても、建物の3階や4階ほどの低さのところで、そんなところに急に雲が湧き出し、龍の姿が現われて、前の龍の尻尾を追うかたちで三つ巴になったのだ。
 私は立ち止まって、目の前の、手で触れられそうな間近にはっきりと現われた不思議な雲を見ながら、これはいったいなんのしるしなのか、予兆なのか、と驚いて見つめた。道行くまわりの人たちにも当然見えているだろうと思い、まわりの人たちの様子を窺ってみたが、誰も気に留めていなかった。
 この奇妙な雲がなにを意味するものなのか、いつまで経ってもわからなかったが、これを見てからひと月後にエレーヌが末期ガンの宣告を受けたのを思うと、彼女の病気に関わる長期の困難を知らせるなにかだったのか、とも思う。

 予兆といえば、もうひとつ。
 エレーヌがガン宣告を受けた2009年の少し前、2008年の年末に、私は大学から借りてきたアニエス・ヴァルダAgnès Vardaの映画『5時から7時までのクレオ(Cléo de 5 à 7)』*を見て、エレーヌにも貸したことがあった。私としては、なるべくはやく大学に返したかったのだが、エレーヌがどうしても見たいというので、彼女にビデオを貸したのだった。
 エレーヌはなかなか返してくれず、私の手元に戻ってきたのは2009年の1月になってからだった。
 エレーヌは、この映画を昔にすでに見ていたと言っていたので、どうして、ぜひ見直したいと言ってこだわるのかわからなかったが、この映画が、ガンの疑いがあって生体組織検査を受けた女性の不安な心理を描いたものだったのを思えば、ほかならぬガンの宣告を受けることになる数ヶ月前に、エレーヌがどうしてもこれを見直したい、と望んだのは偶然ではなかったように、今は思われる。なにか大きなことが起こる前には、予兆はさまざまなかたちで手元に集まってくるもので、それに無関心ではおれなくなるものかもしれない。


*Agnès Varda 《Cléo de 5 à 7》》https://www.youtube.com/watch?v=imbeCibgWXY


20世紀末、ブルターニュで。
En Bretagne

 

2019/10/27

2019年の10月31日のハロゥインは、エレーヌが亡くなって9年目の命日




1996年8月3日、故郷ロゼール県サン=シェリー・ダプシェでの姪の結婚式で。


  駿河昌樹
 (Masaki SURUGA)

 

 ことし、2019年の10月31日のハロゥインは、エレーヌが亡くなって9年目の命日となる。
 もし生きていたら、いま、77歳。
 だれよりも元気だったエレーヌのことだから、80歳が近づいても、いっそう元気でいられただろうに、と思う。

 ことしは台風被害がずいぶん出たが、エレーヌの亡くなった2010年10月31日の前日の30日(土)にも台風14号が関東を襲い、大雨の後は強風となって、交通機関はひどく乱れたり、ストップしたりした。彼女の入院している病院へは見舞いに行けなかった。
 すでに、このブログになんどか書いたが、台風が東京を通過していくさなか、エレーヌは日中も眠りがちになっていて、死へと向かっていたらしい。台風による気圧の変化が、エレーヌを最期へと向かわせたのか、とも思う。

 10月29日(金)には、エレーヌの引っ越しが済んでいた。
 もちろん、本人は入院中なのでまったく現場には来ず、すべて、私やエレーヌの友人たちで行った。
 世田谷の代田から王子神谷のURへの引っ越しで、ガン治療で効果を上げている駒込病院に通院しやすくなるように、と配慮してのことだった。私自身が、当時、王子神谷に住んでいたので、エレーヌの世話をしやすくできるように、との考えもあった。
 無理に私の住まいに近いところへ呼び寄せた、というわけではない。私と妻も、駒込病院ーエレーヌー彼女への介護etc.を結びつけて考えた上で、前年に王子神谷に引っ越しを行っていたので、じつは、エレーヌのための一年がかりの計画的な移転だった。
 このあたりの事情については、このブログでもなんどか触れたが、細かなことがたくさん絡みあっていて、私があいかわらず多忙な日々を送っているなかでは、十分に描き出すのは容易ではない。
 こんなふうに、たまに書き始めてみては、すこしずつ、書き添えていこうとしてみる他にすべはない。

 引っ越しということに関して言えば、2009年には、ガンに冒された卵巣と腹膜摘出の手術をエレーヌが受ける前に、駒沢公園脇の東京医療センターに通いやすい深沢の一軒家を借りて、エレーヌと私と妻と三人で住もうと計画したことがあった。

 とにかく、代田のエレーヌの住まいが陸の孤島のように不便で、健康でいくらでも歩けるうちはともかく、いったん病気になったり、歩行に支障が出たりすると、大変なことになる場所だったため、そこから逃げ出さないといけない、と私は考えた。最寄り駅の下北沢までは歩いて20分、三軒茶屋までも20分、家から数分のところにバス停はあるものの、そこから渋谷まで乗ると15分から20分かかってしまう。環状7号線が近い場所だったので、そこへ出てタクシーを止める手はあったが、環7のそのあたりは意外とタクシーが通らない。渋谷へ向かう淡島通りも近いが、エレーヌの住まいのあたりは若林折返所というところで、淡島通りの終わりに当たっており、渋谷方面からの帰宅客を乗せてくるタクシー以外にはほとんど来ない。通院の際にタクシーを利用しようとして、すでに何度か、苛立たしい目にあっていた。手術を受ける日も、私が朝はやくから代田に出向いてきて、大きなバッグにふたつほどになった入院用の荷物を両手に提げて、エレーヌとタクシーをつかまえに環7に出たものの、20分ほど立ってもまったくタクシーが通らず、結局、ふたりで20分歩いて三軒茶屋まで出て、246号線からタクシーに乗るという、とんでもないやり方を採らざるを得なかった。エレーヌがまだ歩ける時だったので、なんとか凌げた。

 いろいろな物件を見たのちに絞られていった深沢の物件は、二階建てのなかなか大きな家で、6部屋ほどに加えて、キッチンと居間があった。古い意匠だが大きな風呂もついていた。もともとの作り主がずいぶん凝った考えで作ったらしい書斎も2階にあって、使い勝手は悪くなさそうだったが、作り主の意識がほうぼうに感じられて、それに侵されずに日々の生活を送っていくのには、こちらの精神の強さも必要かと感じられ、慣れも必要かと思われた。私はともかく、病気のエレーヌがこういう雰囲気に合わせられるかどうか、不安はあった。
 エレーヌと妻と私と三人で下見に行った後、歩いて駒澤大学駅まで長く歩き、エレーヌが好きだった大戸屋で夕食を済ませたが、物件の感想を聞くと、エレーヌにしても、妻にしても、悪くはないが、乗り気でもないという感じだった。家そのものについてよりも、最寄り駅からの距離が、エレーヌにも、妻にも、大きな問題らしかった。エレーヌは、ガン治療をしながら、まだ大学やカルチャーセンターの仕事をそのまま続けていたし、妻は妻で都心を駈けまわる激務だったので、いくら病院に近くても、深沢という奥まった地でやっていけるかどうか、確かに怪しい。私自身にもこうした地の利の悪さは大問題なのだが、私はこういう場合、自分の都合をぜんぶ無視してしまう性格なので、気にしていなかった。
 貸し手は私たちのことをずいぶん気に入ってくれていたそうだが、結局、エレーヌが拒んだので、この深沢の物件は諦めることになった。仕事の合間を使って必死に物件探しをする私に、エレーヌも、妻も、2009年の時点ですぐには言わなかったが、やはり、ふたりを同時に住まわせるという案に、双方とも、無理を感じていたことこそ、最大の問題点だったらしい。
 エレーヌの死後、妻は、あの時、深沢でいっしょに住むことになっていたら、自分は精神的に駄目になっただろう、と私に言った。誰よりも独立自尊の精神が強いエレーヌも、同じことだっただろう。見方によっては、私が、ふたりの心の底の感情を無視して、三人で共生してエレーヌのガンを治す案を強引に進めようとしていたかのようだったが、私としては、あくまで、非常事態にあるエレーヌをどう生きのびさせるか、ということが優先事項となっていた。
 この後、プランを変更して、代田よりも交通の便のよいところへ引っ越しをさせること、私が行きやすい場所に住ませることなどを条件として、さらに物件探しを続けることになった。

 いずれにしても、いま思い出すと、2009年から2010年にかけて、仕事や用事のわずかの合間を縫って、なんと厖大な時間を、エレーヌのための物件探しに費やしたことだろう、と驚く。深夜にパソコンを見ながら、朝方まで物件探しをし、日中に不動産に連絡を取り、現地に見に行き……、というあの時間。エレーヌの治療のための勉強や情報探しなどにも多くの時間を費やして、約2年、私にはプライベートな時間というものがほとんどなかったと言っても過言ではない。
 エレーヌが亡くなって、ふたたび自分の時間が戻ってきたかというと、それも違っていて、今度はエレーヌの家具や遺品の整理に10ヶ月まるまるかかることになった。東日本大震災と原発事故で日本が揺れるなかで、2011年の私は、エレーヌ死後の整理作業で心身をすり減らしていたものだった。
 
 エレーヌの遺品となった書籍類は、じつは、いまでもトランクルームに残っている。私が使うものもあり、ふたりで共有していたものもあるので残してあるのだが、さすがに9年経つと、もう手放してもいいだろうか、と思う。
 いつ、どのように、どこに、浸水が襲ってくるとも限らない昨今のような時節となると、使わないものは、そろそろ、手放したほうがいいのだろう。

 このブログにも、この頃、私はあまり文章を上げなくなっているが、書く気がないためでもなければ、書くことがないためでもない。なにかひとつを取り上げて書き始めると、網の目のように繋がっている物事がどんどん連鎖して出てくるため、思念のコントロールや編集に非常な困難を覚えるため、と言っていいと思う。
 パスカルが昔、人に当てた手紙に、よく考える時間が今ないので、この手紙は長くなります、と書いたことがある。私にもいよいよ時間がなくなってきており、エレーヌのことについてばかり、細々と思い出している暇もなければ、書き続けている暇もない。
 それでいて、エレーヌとはなんだったか、エレーヌの晩年に起こった人間喜劇の実相はどうだったのか、などなど、たっぷり時間をとって考えてみたいことも増えてきている。