2019/11/05

エレーヌの”遺品”のひとつ






   駿河昌樹
(Masaki SURUGA)


 手洗いのための液体洗剤のボトルの写真。
 なんで、こんなものを?
 きっと、そう思われるだろうと思う。
 もちろん、この製品自体には、なんら特別な意味はない。古い製品だが、ふつうのドラッグストアーでなら、きっと、どこでも手に入ったものだろうと思う。

 あえて写真を載せてみたのは、これも、9年間、私の手元に残り続けていたエレーヌの遺品のひとつだったから。
 
 手洗いのために使えば、もっとはやく使い切って捨てられたはずなのに、エレーヌが亡くなった頃、私の住まいにも手洗い石鹸や液体ソープのたぐいはいくつもあって、これを使う機会はなかなか訪れなかった。
 しかも、けっこう大きなボトルなので、洗面所の端に置くのが難しかったりする。
 そんな事情から、押し入れの雑貨ストックのたぐいのなかにしまい込むことになってしまい、昨年の秋頃、他のものを探していたら目にとまって、そろそろ使ってしまおう、とようやく出番になったのだった。
 使おうと決めたものの、大きなボトルなので、いまの住まいの洗面所の端には置けない。上がつっかえてしまったり、縁の上では安定しない。そうなると、他の小さめのボトルに移し替えて、少しずつ使わないといけないことになり、なかなか面倒だった。
 そんなこんなで、ボトルが空くのに、約10ヶ月ぐらいはかかったのではないだろうか。

 エレーヌが亡くなってから8年ほどは使っていなかったので、化学製品ながら、なんとなく分離が進んでいるような臭いもし、もともと、心地よい香料の入っていない製品なので、じかに手に化学物質の合成物を出しているような感じで、あまり使い心地のいいものではなかった。
 それだけに、洗面所での手洗いの際にすこしずつ使って、今年の夏にボトルが空いた時には、「ようやく…!」という思いが強かった。小さなボトルに移した残量はまだあって、いまも、最後の使い切りにむけて、すこしずつ頑張っている。

 2010年のハロゥインの日にエレーヌが亡くなった後、私の個人生活のおもな時間は、主なきエレーヌの新居での家具調度や遺品の整理に費やされることになったが、その際、台所にこの手洗い洗剤のボトルを置いて、すぐに真っ黒になる手のひらを、よく洗ったものだった。
 仕事から帰ったり、自分の生活の一日の作業にひとくぎりがついてから、夜中になってエレーヌの新居に行き、そこで、自分自身の動き以外にはなんの音もしない2LDKのアパートメントのなかで、たとえば、エレーヌの残した書類の一枚一枚、衣類のひとつひとつ、厖大な量といってよい手紙やメモの数々を、とりあえずは種類別に分け続ける。本棚やカラーボックスなどを、場所を空けたりするために、あちこちに移したりする…
 10ヶ月続くことになったそんな作業の合間合間に、台所に行くと、このミルラームの白いボトルが立っていた。一押しして、液剤を手にとって洗い、ちょっと一休みしようと、お湯を沸かして、簡易なドリップコーヒーを淹れてみたりした。
 
 私にとっては、2010年10月31日より後のエレーヌは、残された物の山を構成する、こういうひとつひとつの物として現われるようになったので、こんな大量生産品の空ボトルでも、感慨深かったりする。捨てる前に、せめて写真を撮って残しておこうと思ったりする。
 エレーヌにまつわる感傷、というより、私自身の、誰にも知られない戦いの記録のひとつかもしれない。


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