2013/10/27

エレーヌ・グルナック逝って3年




パリで

故郷サン=シェリー・ダプシェの家族の墓の前で。
エレーヌ自身の遺骨もここに埋葬された。





 駿河 昌樹 
 (MasakiSURUGA)                                   



 エレーヌ・グルナックが逝って、今年20131031日でちょうど3年が経つことになる。


 仏教的な「三回忌」という言い方は、あえて、しないでおきたい。
日本人は「三回忌」というような表現に慣れていて、うっかり口に出しがちだし、エレーヌも仏教にはとても興味があったが(死ぬ間際まで、道元や空海に関心があった)、しかし、あまりに多くの宗教や心霊関係のさまざまに興味があり過ぎたがために、仏教だけを選ぶということはできなかったし、日本のほうがフランスなどより遥かに肌に合っていたとはいえ(だいたい、彼女は最後の10年ほどをフランスに帰らなかったし、文学や思想や芸術面を除いて、フランスへの興味を完全に失っていた…)、日本人的なあり方にぴったり自分を重ねようともしなかったので、「3年目だ」とか、「もう3年が経つのか」とか、そんなシンプルな言い方のほうがよいように感じる。日本ふうの言い方や仏教ふうの言い方を避けるというわけではなく、そうした表現を受け入れた瞬間に他のものにむけて思いを閉じてしまう感じ、特定のかたちを成して他のものをそれとなく排除してしまうような雰囲気、そういったものをエレーヌがことのほか嫌ったことを忘れないでおこうと思うのだ。


2011年も2012年も、1031日には、エレーヌゆかりの散歩をしてみた。彼女が亡くなった東京医療センター(目黒区だが、駒沢公園のすぐ隣り)の産婦人科病棟に行って、そこから三軒茶屋まで歩き、さらに代田1-7-14の彼女の家まで歩く。そうして、エレーヌがよく行った近くのガストでなにか食べてみる。あるいは、三軒茶屋で食べてみる。そんなふうにして、エレーヌの最後の10年ほどのあいだの時間に戻って、思い出の湧くのに任せてみようとした。
今年2013年は、10月末から11月まで個人的に忙しいので、こうしたエレーヌ散歩ができないが、ちょっと日をずらして、同じようなエレーヌ巡礼を、やはり、やってみようと思っている。


エレーヌのことを、彼女の馴染んだ地を訪ねながら思い出したいと思っている人には、エレーヌが長く住んだ世田谷区代田、よく買い物に出た下北沢、三軒茶屋、道としては代田から下北沢までの道や途中の北沢川緑道(春は桜がすばらしいので、エレーヌは桜道と呼んでいた)、三軒茶屋から代田までの茶沢通りや、代沢十字路のサミットを曲がって家に到るまでの淡島通りあたりが、もっともエレーヌらしい場所としておススメできる。
もちろん、10年ほど住んだ世田谷区北沢1124の池ノ上の二階建ての住まいや、なにかといえば歩きまわった渋谷、それも特に東急プラザの紀伊国屋書店や若林折返所行きのバス停、同じように新宿の到るところ、特に新旧の紀伊国屋書店、新宿郵便局近くのかつてのフランス図書あたり、野良猫の保護などで馴染みになった豪徳寺あたり、長いことフランス語やフランス文学を講じた横浜朝日カルチャーセンター、新宿朝日カルチャーセンター、藤沢の慶應大学SFC、四ツ谷の上智大学、池袋の立教大学、駒場の東京大学、少し古いところでは、鶴川の和光大学や品川の旧東京水産大学などもある。映画館に到っては…、彼女が出没しなかったところはない。ロードショー館ばかりか、たいていの名画座にも通っていたので、エレーヌより先に逝ってしまった映画館もいっぱいだ。
エレーヌがヨガを指導していた大船(と藤沢のあいだ)の長福寺も、エレーヌ自身の霊にとってなじみ深いところだろう。


逝った人を思い出すのには、心の中だけで十分という考え方もある。もっともだと思うが、実際の場所というのが、やはり、思い出しの強力なスイッチの役割をするのも事実だ。あそこをあんなふうにして歩いていた、あそこに凭れかかっていた、あそこでなにか食べていた、などという記憶が、場所によってつよく呼び起されることも多い。場所には、過ぎ去った(と一般には思い込まれがちな)時間のあれこれもぴったりとこびり付いていて、そこに行くと、それらが立ち上がってくる。過ぎ去ってなどいない現在そのもののように。時間をどう考えるか、これもさまざまだが、過去や現在や未来という便宜上の区分けはどうやら正しいわけでもないと、そんな時には思わされる。


逝った人を思い出し供養するのが望ましいし、そうするのは当然のことだという考え方は、日本人には馴染みがあるものの、いや、思い出す必要はない、生きている人は生きている自分の生活に集中すればいいのだ、という考え方もある。
そう考える人が、エレーヌについてのこの文を見ることは殆どないだろうが、そういう考え方もありだろうと思う。さびしい態度でもないし、合理的かもしれない。むしろ、正確でもあるかもしれない。というのも、死者を思い出すといっても、思いの中に現われるのはこちらの持っている記憶や好みから作り上げられたイメージなので、けっして死者自身でなどないのだから。勝手なイメージを作り出したり、保とうとし続けたりするほうが、よほど死者とのつながりを妨げるのかもしれない。だいたい、死者は死を経て、すでに生前の性格や方向性から解放されているはずなのだ。生前のイメージや生前の情報から得られた“その人らしさ”に死者を固定し続けることほどの冒涜は、本当はないのかもしれない。
しかも、古今東西の宗教的思考のうちでも、最高峰のものがつねに提示してくるように、けっきょく、生も死もたいしたことではない、それらに縛られるな、といった助言を思い出せば、死者を「死んだ」と思うことさえ、大いに間違った態度かもしれない。
少なくとも、エレーヌ自身は、これに近い考え方をしていた。


以前にも少し書いたと思うが、エレーヌが死んだ時、わたしに言い残されたエレーヌの遺言めいた言葉に、あえて従わなかった部分が、じつはある。
ひとつは、誰にも死を教えないでほしいということ。
また、葬式をしないでほしいということ。小さな葬式をしたとしても、誰も呼ばないでほしいということ。
また、墓はいらないということ。どこか「そのへんに」骨を捨ててほしいということ…
葬儀をしない?誰にも死を伝えない?
…とんでもない、とわたしは思った。エレーヌがそこそこ幸せに日本で生きられたのは、彼女の友だちや学生たち、同僚たちがいてくれたからだし、まさしく日本人的に親切に接してくれたからではないか。北原白秋の『からたちの花』の歌詞ではないが、エレーヌを取り巻いていた日本人たちは、「みんなみんなやさしかったよ」なのではないか。死の時に臨んで、そういう人びとにちゃんと報告し、できれば別れに出向いてもらって、それなりのけじめをつけるべきではないか。
こう判断したので、わたしはこの点について、エレーヌの遺志を修正した。なんでも故人の遺志を尊重するというわけにはいかないのだ。けっきょく、わたしはなるべく多くの人に死を知らせることにし、葬儀の日時も知らせようと努めたし、葬式は小さなものどころか、100人以上が集ったそれなりの規模のものになりもした。
墓はいらないから「そのへんに」骨を…という要望も、エレーヌの身勝手な妄想からきているものと判断して、無視した。だいたい、「そのへんに」という要望とともにエレーヌが望んだ提案は、できればエベレストの上に骨を撒いてほしいとか、それが無理ならアルプス山系のどこかとか、ロッキーとか、富士山の頂上でもいいとかいうもので、ずいぶんとトンデモな要求ばかりだった。エレーヌにこういう突飛なところがあったのは、そろそろ、知人たちに知らせてもかわまないだろうと思う。
わたしとしては、都内や近辺に墓を作ったり、うちの墓に入れたりしようとも考えたが、彼女の死後4カ月して、まるで日本の守りがエレーヌの旅立ちとともに壊れたかのように東北の大地震と福島原発事故が起こったため、都内にエレーヌの墓を作ったりしたら、将来、放射能汚染のために墓参りにさえ来れなくなるのではないかと危ぶんだ。そのため、フランスの故郷の家族の墓地に送るほうがよいだろうと思うようになったが、ちょうど、故郷の妹が遺骨の返還を強行に要求してきてもいたので、(エレーヌの病気や死に関してなにもしなかったこの妹が…という思いに、当時はずいぶん苛立たされたが…)、これ幸いとばかりに、フランス領事を通じて移送した。
こんな後日談も、まだ語り尽くしていないエピソードもいっぱいあるが、忙しさの合間を見つけて、今後、記せる時には記しておきたいものと思う。


彼女は死の時まで、あらゆる宗教や心霊関係の蔵書を手放さなかったが、晩年の2年ほどの間、宗教的な関心としては、お馴染のクリシュナムルティ、空海、道元、イスラム神秘主義、キリスト教神秘主義、中国の宗教思想、シャーマニズム、ネイティヴ・アメリカンの宗教・世界観、女性魔術師や女性神秘家などに主に向かっていた。これらに関しての多量の本は、今もわたしの手もとに残されている。
他方、日々の“信仰”的行為としては、日本神道の感謝礼拝をするのを旨としていた。毎日、水を供えて天照大御神に礼拝し、また、線香を焚いて先祖への感謝礼拝をしていた。これはわたしが勧めたものだが、一切の頼みごとをせず、ただ〈在ること〉への感謝だけをする神道の礼拝のしかたを最上のものとして受け入れていた。
キリスト教的な枠組みから外れたかたちで、イエスと聖母マリアに親しんでもいた。2009年から2010年、とりわけ死の近い頃によく聞かされたのは、イエスとマリアがたびたびエレーヌを見舞ったという話だ。病院に見舞いに行った際、エレーヌとふたりだけになると、彼女は入院中の病室のカーテンの隙間を指さして、「昨夜、イエスがそこに来て、黙ってわたしを見続けていた」といった話をよくした。ふつうには妄想とか幻想とのみ受け取られるたぐいの話だろうが、30年間をいっしょに神秘修行に費やしてきたわたしとエレーヌの間では、十分に意味のある話だった。
もちろん、重病のさなかのエレーヌが見た幻想にすぎないのでは、という疑いを挟まなかったわけではないが、マリア像の不可思議な移動現象がこの頃実際に起こっていたり、わたし自身の力でエレーヌの腹水を心霊治療し得たことなどもあって、世間一般の心霊現象否定の立場を採らずに、わたしはエレーヌの病気と死に関するいろいろな現象を今でも再考し続けている。


エレーヌの遺骨はフランスの故郷ロゼール県に送られ、サン=シェリー・ダプシェの墓地のグルナック家の墓に埋葬された。
が、重要部分の骨は、じつは都内のわたしの手もとに安置されており、毎日礼拝を欠かさないでいる。エレーヌ自身から手渡された髪の毛も、同様に手もとにある。
エレーヌが物質的にすっかり日本を離れてしまったと思っている人には、だから、思いを改めてもらってよい。


エレーヌは、生きていれば71歳になる。1122日の誕生日には72歳になるはずだった。
しかし、70を越えた身体で生き続けるのを望んだとは、やはり思えない。なにごとにも軽さと簡素さを望んだ彼女のことだし、なによりも健康維持を求めていたのを思えば、老いていく身体や病んだ身体から早々に去るのは彼女らしい選択だったとも思える。最後の2年ほどを重病とともに生きたとはいえ、なんといってもそれまでの66年ほどの間、まったく病気らしい病気もせずに、わがままに身体を酷使し続けた生涯だったのだ。



1983年頃、池ノ上の自宅で。

ブルターニュの小さな教会で。







2013/10/19

10月20日前後とエレーヌ

                            

   (エレーヌ・グルナック こんなこと 11)








 
 駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)


 10月に入ると、エレーヌ・グルナックのことがいっそう多く思われる。今生で長いつきあいだったので、どの季節も思い出でいっぱいだし、晩年の2年ほどの闘病期間だけが浮かんでくるわけではもちろんないのだが、1031日に亡くなる前のひと月ほどのあいだは、やはりたくさんのことが凝縮して押し寄せてきていた。
このところ、エレーヌをめぐる文章をここに掲載しなくなっているが、どれほどひとつのテーマを絞って短く書こうとしても、他のいろいろな事柄にたちまち思いも記述も広がっていくので、纏めるのに窮するためだ。軽く短く書けばいいとは思いつつ、短くも軽くもなってくれない。
病中だけでなく、誰よりも健康だった頃のエレーヌの数十年の無数の姿やエピソードの数々も、切れ目もなく際限なく押し寄せ続けるので、なにか一言言ったり書き記したりしようものなら、まとまりがつかなくなる。


 すでになんども書いたが、2010年の1020日(水)にエレーヌ・グルナックは再入院した。末期ガンから来る重度の腹水や浮腫が奇跡的に収まって8月末に退院しており、自宅でリハビリを続けながら療養していたが、10月に入ってから急速な衰弱が襲ってきていた。1012日の私の手帳には「エレーヌ、起き上がりや歩行困難。浮腫や硬直のためか。リハビリのための足の運動のやり過ぎ?ストレッチの手抜きのためか?」とのメモがある。翌日、13日には介護施設より介護ベッドが届いている。
 十日後の30日(土)には台風14号が東京に接近し、交通機関のストップもあって大荒れになり、誰も病院にエレーヌを見舞いに行けなくなった。この日のエレーヌの状態はブログの他のページに記してある。非常な疲れを感じ、傾眠が生じていたらしい。食事はいつも通りに多少とったという。31日の3時頃から意識を失い、710分に亡くなることになったのは周知のとおりである。


 死去の年の一年前、2009年の1020日(火)のことも思い出しておこう。この日には、公証役場でエレーヌの遺言公正証書を作成し終えている。
この年の6月に末期ガン宣告をされたものの、抗がん剤が一応(表面的にも)功を奏して驚異的な回復をし、仕事もそのまま継続していた頃である。遺言状作成は、手術を前にしての万が一のための準備のためだった。
公証役場では一悶着あった。
エレーヌは複数の銀行に生活資金の預金を置いていたが、万が一の場合それらを私が相続し、整理や支払いなどを担うことになる。しかし、三菱UFJ銀行の場合だけは相続手続きが極めて困難で、日本人の家族に対しても三代前からの戸籍確認を求められる。そのため、全国で紛争が起こっているとの情報を、特別に公証人が教えてくれた。エレーヌの場合、両親がチェコやポーランドからフランスに移住した家族であり、すでに両親が死去していて、長兄や長姉も他界していて祖父母の関係について知る者が皆無となっている以上、三代前まで遡るのは至難のわざである。まして、第二次大戦の戦禍で祖父母の地の家族情報はすっかり失われたか、混乱したままになってしまっている。不可能ではないまでも、チェコ語やポーランド語で私が戸籍を取りよせなければならなくなるのか、と思うと、気が遠くなるようだった。
公証人は好意からこの点を教えてくれ、できればUFJからは預金を早急に移動させたほうがよいとアドバイスしてくれた。
これに対して、エレーヌが激怒したのである。公証人や、来てもらった証人ふたりを前にして、エレーヌは、遺言証書に署名などしないと突っぱねた。預金してあるのは自分のお金だというのに、それを自由に使わせないような理不尽な銀行を野放しにしておく日本という国は何なのだ、と怒った。そうして、なんでそういう情報をもっとはやく言ってくれないのか、と公証人をなじった。
30分ほどは膠着状態となり、私はエレーヌの説得にかかりきりになった。遺言証書への署名を拒むことで損をするのはエレーヌ自身であること、さらに言えば、UFJの預金も動かせないまま、一切の整理や処理をせざるをえなくなる私こそが最大の被害者となること等などを言い聞かせ、ようやく署名させたものの、公証役場を出るまで、エレーヌはもうニコリともせず、公証人に目も合わせず、挨拶さえしなかった。「性格もあるし、重病で気分も疲れているのもあるので、あんな態度で申し訳ない」と公証人に私が頭を下げ続けたが、公証人もさばけた人で、「いやあ、実際、ひどい銀行なんですよ。それにこの国もひどい。怒るのは当然です。でも、怒っても現実というのは動かせないから…」といったことを言ってくれた。


公証役場でのこのような出来事は、じつは日常茶飯事だった。エレーヌは本当に年中怒っている人間で、いっしょにいる時には、私はたびたび仲介役をやらざるを得なかった。亡くなってから、葬儀などの場面でお会いしたエレーヌの生徒さんたちや、お茶友だちだったような人たちには見えていない場合が多かったようだが。
闘病の際に手伝ってくれた人たちは、さすがに、エレーヌのこうした面にも付き合わざるをえなかった。タクシーで医療機関などに出向く際など、いろいろな人たちがエレーヌに付き添ってくれたが、道のよくわからないタクシー運転手や煙草くさいタクシーには癇癪が爆発することが少なくなかったし、ブツブツと不平や批判を言い続けることもあった。「タクシーはいっぱいあるから、それじゃ、降りよう。次に来るのに乗ろう」ときつくエレーヌに言うと、目が覚めたようにようやくハッとなって、「私が言い過ぎた」と静かになった。


ついでに1979年の1021日のことも思い出しておきたい。
34年前のこの日、私ははじめてエレーヌと出会った。ある哲学教授と学生たちが集まって、秋の一日、鎌倉散歩を行ったことがあったが、エレーヌは、他のフランス人とともに、そこにひょいとやってきたのだった。
背の低い、鼻のやけに高いフランス人女性だと思っただけで、特別な印象は受けなかった。ただ、政治や平和問題について話した時に、核軍備は絶対に必要であると主張し、アメリカの核の傘の下にいる日本が平和国家を自称するのは矛盾していておかしいと、この「エレーヌさん」は言っていた。当時、やはり日本の右傾化が危険視され、その問題にも思うところ多かった私は、小さなフランス女のこうした発言にあまり心穏やかではなかった。
この時の初対面の印象はこれだけで、エレーヌに特別関心もわかず、4年間はなんの音沙汰もなく過ぎることになる。


言っても誰も信じないだろうし、信じられない人たちといまさら付き合う気もないが、1983年の3月のある日、目が覚めようとしていた時、半醒半夢の中で、私は突然、「エレーヌさんに電話しろ」という男の声を聞いた。
エレーヌのことなど、まるまる4年間は忘却していたので、なにより私自身が不思議でもあり、不審にも思った。下らない夢を見たものだともちろん思ったが、そういえば「エレーヌさん」の電話など控えていたっけ?と思い、4年前の手帳のページを繰ると、どういうわけか、メモがあった。まだ日本にいるのだろうか、どうしているんだろう、などと思い、電話だけでもしてみるかと、家の黒電話でダイヤルした(当時は、子機などなく、携帯電話もスマホもなかった)。
なにを話すでもなく、それでは喫茶店で雑談でもしましょうか、ということで、4月のある日、新宿の紀伊国屋で待ちあわせをすることを決めたが、そこから互いの人生が変わるすべてが始まることになったものだった。