2013/10/19

10月20日前後とエレーヌ

                            

   (エレーヌ・グルナック こんなこと 11)








 
 駿河 昌樹
 (Masaki SURUGA)


 10月に入ると、エレーヌ・グルナックのことがいっそう多く思われる。今生で長いつきあいだったので、どの季節も思い出でいっぱいだし、晩年の2年ほどの闘病期間だけが浮かんでくるわけではもちろんないのだが、1031日に亡くなる前のひと月ほどのあいだは、やはりたくさんのことが凝縮して押し寄せてきていた。
このところ、エレーヌをめぐる文章をここに掲載しなくなっているが、どれほどひとつのテーマを絞って短く書こうとしても、他のいろいろな事柄にたちまち思いも記述も広がっていくので、纏めるのに窮するためだ。軽く短く書けばいいとは思いつつ、短くも軽くもなってくれない。
病中だけでなく、誰よりも健康だった頃のエレーヌの数十年の無数の姿やエピソードの数々も、切れ目もなく際限なく押し寄せ続けるので、なにか一言言ったり書き記したりしようものなら、まとまりがつかなくなる。


 すでになんども書いたが、2010年の1020日(水)にエレーヌ・グルナックは再入院した。末期ガンから来る重度の腹水や浮腫が奇跡的に収まって8月末に退院しており、自宅でリハビリを続けながら療養していたが、10月に入ってから急速な衰弱が襲ってきていた。1012日の私の手帳には「エレーヌ、起き上がりや歩行困難。浮腫や硬直のためか。リハビリのための足の運動のやり過ぎ?ストレッチの手抜きのためか?」とのメモがある。翌日、13日には介護施設より介護ベッドが届いている。
 十日後の30日(土)には台風14号が東京に接近し、交通機関のストップもあって大荒れになり、誰も病院にエレーヌを見舞いに行けなくなった。この日のエレーヌの状態はブログの他のページに記してある。非常な疲れを感じ、傾眠が生じていたらしい。食事はいつも通りに多少とったという。31日の3時頃から意識を失い、710分に亡くなることになったのは周知のとおりである。


 死去の年の一年前、2009年の1020日(火)のことも思い出しておこう。この日には、公証役場でエレーヌの遺言公正証書を作成し終えている。
この年の6月に末期ガン宣告をされたものの、抗がん剤が一応(表面的にも)功を奏して驚異的な回復をし、仕事もそのまま継続していた頃である。遺言状作成は、手術を前にしての万が一のための準備のためだった。
公証役場では一悶着あった。
エレーヌは複数の銀行に生活資金の預金を置いていたが、万が一の場合それらを私が相続し、整理や支払いなどを担うことになる。しかし、三菱UFJ銀行の場合だけは相続手続きが極めて困難で、日本人の家族に対しても三代前からの戸籍確認を求められる。そのため、全国で紛争が起こっているとの情報を、特別に公証人が教えてくれた。エレーヌの場合、両親がチェコやポーランドからフランスに移住した家族であり、すでに両親が死去していて、長兄や長姉も他界していて祖父母の関係について知る者が皆無となっている以上、三代前まで遡るのは至難のわざである。まして、第二次大戦の戦禍で祖父母の地の家族情報はすっかり失われたか、混乱したままになってしまっている。不可能ではないまでも、チェコ語やポーランド語で私が戸籍を取りよせなければならなくなるのか、と思うと、気が遠くなるようだった。
公証人は好意からこの点を教えてくれ、できればUFJからは預金を早急に移動させたほうがよいとアドバイスしてくれた。
これに対して、エレーヌが激怒したのである。公証人や、来てもらった証人ふたりを前にして、エレーヌは、遺言証書に署名などしないと突っぱねた。預金してあるのは自分のお金だというのに、それを自由に使わせないような理不尽な銀行を野放しにしておく日本という国は何なのだ、と怒った。そうして、なんでそういう情報をもっとはやく言ってくれないのか、と公証人をなじった。
30分ほどは膠着状態となり、私はエレーヌの説得にかかりきりになった。遺言証書への署名を拒むことで損をするのはエレーヌ自身であること、さらに言えば、UFJの預金も動かせないまま、一切の整理や処理をせざるをえなくなる私こそが最大の被害者となること等などを言い聞かせ、ようやく署名させたものの、公証役場を出るまで、エレーヌはもうニコリともせず、公証人に目も合わせず、挨拶さえしなかった。「性格もあるし、重病で気分も疲れているのもあるので、あんな態度で申し訳ない」と公証人に私が頭を下げ続けたが、公証人もさばけた人で、「いやあ、実際、ひどい銀行なんですよ。それにこの国もひどい。怒るのは当然です。でも、怒っても現実というのは動かせないから…」といったことを言ってくれた。


公証役場でのこのような出来事は、じつは日常茶飯事だった。エレーヌは本当に年中怒っている人間で、いっしょにいる時には、私はたびたび仲介役をやらざるを得なかった。亡くなってから、葬儀などの場面でお会いしたエレーヌの生徒さんたちや、お茶友だちだったような人たちには見えていない場合が多かったようだが。
闘病の際に手伝ってくれた人たちは、さすがに、エレーヌのこうした面にも付き合わざるをえなかった。タクシーで医療機関などに出向く際など、いろいろな人たちがエレーヌに付き添ってくれたが、道のよくわからないタクシー運転手や煙草くさいタクシーには癇癪が爆発することが少なくなかったし、ブツブツと不平や批判を言い続けることもあった。「タクシーはいっぱいあるから、それじゃ、降りよう。次に来るのに乗ろう」ときつくエレーヌに言うと、目が覚めたようにようやくハッとなって、「私が言い過ぎた」と静かになった。


ついでに1979年の1021日のことも思い出しておきたい。
34年前のこの日、私ははじめてエレーヌと出会った。ある哲学教授と学生たちが集まって、秋の一日、鎌倉散歩を行ったことがあったが、エレーヌは、他のフランス人とともに、そこにひょいとやってきたのだった。
背の低い、鼻のやけに高いフランス人女性だと思っただけで、特別な印象は受けなかった。ただ、政治や平和問題について話した時に、核軍備は絶対に必要であると主張し、アメリカの核の傘の下にいる日本が平和国家を自称するのは矛盾していておかしいと、この「エレーヌさん」は言っていた。当時、やはり日本の右傾化が危険視され、その問題にも思うところ多かった私は、小さなフランス女のこうした発言にあまり心穏やかではなかった。
この時の初対面の印象はこれだけで、エレーヌに特別関心もわかず、4年間はなんの音沙汰もなく過ぎることになる。


言っても誰も信じないだろうし、信じられない人たちといまさら付き合う気もないが、1983年の3月のある日、目が覚めようとしていた時、半醒半夢の中で、私は突然、「エレーヌさんに電話しろ」という男の声を聞いた。
エレーヌのことなど、まるまる4年間は忘却していたので、なにより私自身が不思議でもあり、不審にも思った。下らない夢を見たものだともちろん思ったが、そういえば「エレーヌさん」の電話など控えていたっけ?と思い、4年前の手帳のページを繰ると、どういうわけか、メモがあった。まだ日本にいるのだろうか、どうしているんだろう、などと思い、電話だけでもしてみるかと、家の黒電話でダイヤルした(当時は、子機などなく、携帯電話もスマホもなかった)。
なにを話すでもなく、それでは喫茶店で雑談でもしましょうか、ということで、4月のある日、新宿の紀伊国屋で待ちあわせをすることを決めたが、そこから互いの人生が変わるすべてが始まることになったものだった。








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