2018/10/21

ハロウインの日はエレーヌの命日

駿河 昌樹
(Masaki SURUGA)

  
 エレーヌの8回目の命日が近づいている。
 ハロウインの日、10月31日に亡くなったので、いまになってみれば、思い出しやすい日に亡くなったものだと思えてくる。街にハロウインのグッズがちらちら目につき始めてくると、あゝ、エレーヌの日が来る…と思うのだ。
 日本には関係のないはずのハロウインの騒ぎが近年派手になってきていて、日本人のあまりにあっけらかんとしたお祭り騒ぎ好きには首を傾げたくなるが、エレーヌの命日をたくさんの人たちがわざわざ思い出させてくれている、と思えばよいのかもしれない。冗談好きだったエレーヌが、最期に仕掛けた演出でもあったのだろうか。東京のあちこちで、お化けの装いをしたり、怪異なものの衣装を着て歩きまわったりしている人々のなかに、エレーヌはそっと紛れて、束の間、現われてみていたりするかもしれない。お化けや幽霊の大好きだったエレーヌには、やはり、とてもふさわしい日だといえる。

 エレーヌについては、このブログにだいたい書いてしまったし、写真も主なものは出したので、写りがよくなくても、いままで出してこなかったものをなるべく出してみたい。
 ということで、今回は、1980年代後半のものを。

 まずは、目黒の自然教育園に、ある夏に行った時の写真を数枚出しておく。
 エレーヌは40代なかばで、まだまだ若い。
 黒や灰色や墨色のTシャツに、白や黒やカーキなどの短めのパンツ、薄手のジャケットというのが定番になっていた頃。暑さに強く、汗もあまりかかなかったエレーヌだが、この日は暑い日で、さすがに暑そうにしている。後年、エレーヌは、夏の外出時、扇子や団扇を手放さなくなるが、この時にはまだそれらを手にしていない。ひょっとしたら、持ってくるのを忘れたのかもしれないが、夏のエレーヌにしてはめずらしい姿。
 歳を取るにつれ、どんどんと装いがパンクになっていったエレーヌは、値の張る上質の団扇でなく、どこかの店でもらうような安い団扇を手にして、それで陽ざしを避けたりするのを好むようになっていった。





 次は、やはり80年代後半の同じころ、住んでいた池ノ上の2階からの眺めや、室内の若干のようすなどを。







 箒とちりとりを持って立っているのは、家の戸を出たすぐの場所。これは、近所のゴミ出し場の掃除当番の際に撮ったもので、週に一回ほどの割合で、当番が回ってきた。次の写真の道の角に掲示板が見えるが、そのあたりがゴミ収集場になっていて、朝、ゴミ収集車が去った後にそこの掃除をすることになっていた。近隣の奥さんたちも、エレーヌが外国人でも当番に加えてくれていて、よい意味で街に受け入れられていた。
 住所は、世田谷区北沢1-12-4で、一戸建ての2階部分を借りて住んでいた。部屋は三つで、いちばん広い部屋は12から14畳ほど、中ぐらいの部屋は8畳ほど、いちばん小さい部屋は6畳ほどで、古い木造の、隙間風の入る住まいながら、ひろびろとした様子はとてもよかった。
 住宅地ということもあって、外を見ると電線があちこちに見え、エレーヌの好きだったベルナール・ビュッフェの絵の雰囲気を思い出させた。


 晴れた日には、布団を干すのが好きだった。ヴェランダの手すりに敷布団も掛け布団も持ち出して、夕方まで干しておく。布団叩きで、けっこうビシバシと叩いてから、取り込んだ。

 家のなかの写真は、今回、たくさんは見つからなかったが、長く使い続けた魔法瓶の写真を上げておく。



 お湯を作ると、これに入れておいた。エレーヌはフィルターで本当のコーヒーを作るのが好きだったが、インスタントコーヒーも常備していたので、そちらを飲むときにはこの湯を使った。サーモン色と白の、あまりパッとしないデザインに思えるが、エレーヌが自分で選んで買ったのではなく、人から譲り受けたものだった。たぶん、留学を終えて帰国する誰かからの貰いものだっただろう。
 いっしょに移っている小皿も、ぼやけてむこうに写っている時計も、ながい間、エレーヌの手もとにあった。小皿は、亡くなるまでエレーヌの台所にあったはずだが、亡くなった後の形見分けで、だれかに貰われていったのではないか。いま、わたしの手もとには残っていない。代田に引越してからは、この子皿は、よく、猫のミミの食器の役を果たしてくれた。海苔が好きだったミミが、この皿から海苔を口に入れようとする光景が、いまでも思い出される。



 カーテンの写真は、6畳の部屋のもの。
 大きな部屋のほうのカーテンは、床から40センチほど上までしかない薄いレースのカーテンと、同じような長さの青緑のカーテンだけで、カーテンレールに走らせるランナーに安全ピンで止めてあった。ランナーもじゅうぶんな数がなく、カーテンを閉めても、ところどころカーテンが垂れ下がって、すこし開いてしまう。
 後からここに住むようになったわたしは、横着な学生がやりそうなインテリアのこの誤魔化し方をひどいものだと思ったが、エレーヌは、こういうところをあまり気にしなかった。


 2階から階下に降りる階段のところには、西に向いた小窓があり、近くの家々のあいだから夕暮れがよく見えた。
 この写真は、夕方、下北沢に買い物に出かけようとする前だろうか、西空を見ている姿を撮ったもの。
 池ノ上の家から下北沢までは、歩くと15分ほどだったので、電車には乗らず、ふだんは歩いて行き来していた。
 あるいは、下北沢とは逆の方向、駒場東大前のほうへ散歩に出かけようとする時の写真かもしれない。
 東大の構内もよく散歩し、春などはグラウンドの端に桜が満開になるので、週に何度も出かけた。
 駅を挟んで東大の向かい側には、駒場野公園があり、明治期に開かれた実験田や森もあって、四季を通じて散歩の絶好の場所だった。
 そこの公園へは、日中も夕方も、夜も、よく歩きに行ったが、ベンチに座って、エレーヌはよく煙草を一本吸った。銘柄は両切りのゴロワーズと決めてあって、味も強いが、吸っていると、唇に煙草の葉がくっ付いてくる。それを、フッと吹き飛ばしながら吸っていた。ゴロワーズが店で切れていたりすると、ときどき仕方なく、フィルター付きジタンを買う。フィルター付きのジタンだと、煙草の葉が唇につくことはなかったが、エレーヌはゴロワーズのほうを好んだ。
 煙草を買うといえば、下北沢駅からマクドナルドの通りを南に向かってずっと歩いていくと、1980年代から90年代頃には八百屋があって、(現在の「餃子の王将」の向かい)、そこには昔風の煙草売りの小さな店がまえが残っており、ずいぶん歳をとったおばあさんが日がな一日座って、煙草を売っていた。しゃべっていても、時どき要領を得なくなるところがあるおばあさんだったが、煙草の銘柄などは間違えることがなく、エレーヌが「ゴロワーズ、ください」と言うと、迷うことなく、ピタッと出してきた。
 エレーヌはこのおばあさんに会うのが好きで、このあたりに行った際には、いつもここで一箱買い、おばあさんとすこしおしゃべりして行った。
 ある時、このおばさんの姿が急に見られなくなった。八百屋の主人に聞くと、亡くなったと言われ、エレーヌは非常に残念がっていた。

1 件のコメント:

  1. 和光大学でフランス語を教わっていた頃のグルナッチ先生(和光ではそう講義要目にも書かれてました)に近い時代のお写真、大変懐かしくおもいました。また、驚いたことに、父の誕生日が先生の命日だったのですね、、、ブログ書いていただきうれしいです。

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