2011/01/06

ママからのキスとマルセルと  ―プルースト『失われた時を求めて』に入り込んでいくために



à Ikenoue, Setagaya           photo by Masaki SURUGA
         


エレーヌ・セシル・グルナック
 駿 河 昌 樹    訳


        序

マルセル・プルーストと彼の作品については、すでに、たくさんの文章が発表されてしまっている。それなのに、もうひとつ、自分でも文章を加えてみようかと思っている。私だけにかかわる、個人的な、とても自由な解釈を内容とするもの。書き手の私にしても、プルーストを専門とする人たちの世界には、まったく位置を占めてなどいない。無名だが、疲れを知らぬ読者たちのひとり、とは言えるかもしれないけれど『失われた時を求めての一巻を注意深く、この上ない感動をもって読み終えたのに、あまりにたくさんの印象で頭がいっぱいになってしまっていて、ちょっと内容を忘れてしまったような感じになっている、そんな読者のひとり。けれども、こうしたたくさんの印象のおかげで、精神が疲れてしまうどころか、逆に、休みもせずに、また読み直しを始めたくなってくる。前とはちがったふうに精神を集中させての、新しい読書。そうして、ちがった感動が湧いてきて。こんなふうに、また、新しい冒険に出発、ということになるのだけれど、この冒険からはたぶん、無傷では帰って来れないと思う。前に読んだ時にも、そうだったのだから。生についての観念とか、愛や社会についての信念などが、また、ぐらついてしまうかもしれない。でも、私がこの素晴らしい文学作品を読んだり、再読したりするのを好むのは、やっぱり、このためなのだ。きっと、今度も、このことははっきりすると思う。
この作品を読んでいると、自分について考え直さねば、と思わされる。命あるものは、みな、漂う地面に乗っかっていて、そこでバランスをとるには、不安定さからこそ確かさが来るのだとか、真理などいつも相対的なものなのだとか、そういったことを自覚していなければいけないとも感じさせられる。生きているということは、もう、ひとりでなどない、ということなのだ。他の人たちとともに揺れ動いていく、ということ。

                         
人びとは、マルセル・プルーストにいまだに夢中になっているし、あいかわらず、彼について語るのを強いられてもいる。彼が亡くなってからというもの、世界中で、有名無名を問わず多くの批評家たちや、彼について優れた論文を発表しようと夢見る学生たち、無条件の賛美者たち、あるいはまた、一徹な敵対者たちなどが、皆、抗しがたく執筆の欲求に吸い寄せられていったものと見える。そうして彼らは、まことに傑出した、かつてないほど今日的な彼の作品を読んで心に抱いたものを、才能の多寡こそあれ、自分自身から引き出し、紙の上に記していったのだ。けれども、もし彼らが誠実だったなら、自分たちの野心を実現する難しさもわかったにちがいない。というのも、プルーストとその作『失われた時を求めては、容易なことでは読み解けないのだから。近づくほどに、それらは遠ざかる。いたずらが仕掛けられているわけでもなく、悪意をもって、こちらを苦しめてくるわけでもない。複雑すぎて、作家と作品に入り込んでいきたくても、拒否されてしまうのだ。この複雑さには絶望させられる。さながら水のようで、捕捉したと思う間もなく、指の間から漏れ落ちる。というのも、いかにも深く、かつ微妙なプルーストによる分析は、思考と感情の無限の領域の全容を直観させるばかりか、それらを超えた、到達手段を欠くゆえに永遠に手つかずとなる、至りえぬ別の領域をも、やはり、垣間見させてくれるからだ。それほどまでに天才的な描写をしたといえるのに、プルーストはしかし、いつも、さまざまな制約だの無力さだのを感じていて、不満だった。言語表現の面でもそうだったが、自分が人間であるという、ただそれだけのことさえもが限界と感じられて、苦しんでいた。自己を表現するのに、歌手には声しか手段がなく、ダンサーには身体、画家には画布と絵筆しかない。プルーストにはペンしかなかったわけだが、それでも彼は、内的な均衡を最後まで維持しつつ、みごとにペンを走らせ続けて最高のものを書きおおせ、ニコラ・ド・スタールのようには自殺に至ったりはしなかった。並外れた画家であったのに、スタールの場合などは、頂点に達していた創造のさなか、自らの画業に飲み込まれるがままになってしまった。放棄とも言えそうな素晴らしい簡潔さに到達したにもかかわらず、逆説的ながらもこれによって、乗り越えるすべもわからず、乗り越えようもない不満足の中に沈み込んでいってしまったものだろうか。

        *
じつに豊かで具体的な内容を作者が提供してくれているうえ、さらにそこに、目に見えないながらも、読み手の想像力が提供してくるものが加わってくるとなれば、読者にとって、比類のない省察の場が与えられるということにならないだろうか?
 プルーストについて、あらゆる感じ方が可能であるのは、こんな事情があるからだろう。読者だれもが、プルースト自身の判断力に沿いながら、生の限りない、変化して止まぬ諸々の謎を彼と共有することができる。プルーストとその世界を、どのように感得し、どのように愛しているか、語ってみるよう誘われているのだといってもいい。これはもちろん、彼を貶めたり、乗り越えようとしたりするための誘いではない。生や時間というものは、どんな時であれ、話しことばや書きことばによって、あるいは他の様々なかたちでの創造によって、新しい見方、考え方、感じ方、表現のしかたなどを人間の精神に提示してくるものなのだから、ここでもやはり、語るということによって、新たなものを見出すように誘われているのだ、というべきだろう。もっとも、忘れないでおいてほしいが、文学としても、批評としても、この文章にはどんな野心もない。なにかを主張したり論証したりするような研究ではないし、中身が重くならないようにと、引用も、ごくわずかしか用いていない。それでもこれを書いておこうと思ったのは、考えたことがらにかたちを与えたいという素朴な喜びのためだった。それらを、観念の世界に、そのまま放っておきたくはなかったのだ。なんとも、自分勝手な楽しみではある!
とりあえずは、子どものマルセルのことから語り始めたいと思う。目の前に、現に彼がいるようなぐあいに。もっとも、数ヶ月もすれば、違ったかたちで彼について考えたり、書いたりもするかもしれないけれども。今回の文体や言葉選びにはずいぶんと不満が残り、力が欠けているのを痛感させられたが、ともかくも、これから読まれるようなかたちで書いてみる他はなかった。




作品のごく始めのほう《コンブレーの中に、マルセルが『フランソワ・ル・シャンピの朗読に耳を傾けるところがある。今回は、そこまでの数ページについて考えてみたい。
眠りというものが、マルセルにとってとても重要であることは「長いこははやく寝るようにしていという文からも察することができるし、彼自身、大人になってから、眠りについていろいろと細かい分析を行っている。だが、子どもの頃のマルセルも、いろいろな印象と混ざり合ったそれなりの分析を試みていて、そちらのほうがもっと興味ぶかいように思う。子どもながらに、すでに敏感すぎるマルセルが、寝に就く前の時間をどのように過ごしていたか。寝に行くのが、彼にとって、どうしてあれほど問題なのか。そうしたことについて、考えていってみたい。



 2

スワンが家の晩餐にやって来ることになる、あの運命の晩のことから見ていくことにしよう。この客は、マルセルにとっては幸せをそこなう敵ともいうべき存在で、まったくもって招かれざる客だ。彼のおかげで、マルセルは晩餐の場から追い払われることになる。大人たちとともに夜を過ごすには、まだ小さすぎる彼だから。これが意味することはなにか。今夜は、ママのキスはおあずけ、ということだ。食堂での、家族みんなに見守られてのキスさえもなし、ということ。ママが拒むのは慎みからなのだ。客のいる場所では、このキスはちょっと親密過ぎると思い、彼女としては、そこまではできない気持ちでいる。生活の一部をこんなふうに取り除かれ、その場所を離れるようにと、父親からも厳命されて、彼は寝に行くことになるのだ。悲嘆にくれて上る階段は、まるで、処刑台のそれのようだし、寝室に入ったら入ったで、いつもの闇が待っている。よろい戸を閉め服を脱ぎ「経帷子をまとうと墓の中に横たわらなければならない。永遠に、そこで眠ることになるかのようだ。
はじめてここを読む読者には、文体と内容との意図的なコントラストが面白い。悲しみに重くなった心で、マルセルが一段ずつ階段を上っていくところなど、力のかぎり十字架を担いでゴルゴタまで進んでいくキリストを思わせるし、彼が寝ようとするところなどは、墓への埋葬を思わせる。プルーストは、ごく些細なことを、ひどく厳粛な趣で描いてみせるのが好きだった。その逆に、重大な事柄については、むしろ、軽いタッチで描いたり、穏やかな皮肉を込めてみたりしたものだ。深みもさることなが失われた時を求めを読む時非常に鮮やかなユーモアのセンスも味わえる気がするのは、このためだろ『失われた時を求めては、笑えるだけの心の準備がこちらに出来てさえいれば、信じがたいほど軽妙な作品でもあるのだ。
とはいえ、どんな場合であれ、プルーストはいつも、登場人物たちの喜びや苦しみ、欠点などのあれこれに寄り添い、彼らの感情をたっぷりと汲み取ろうとする。登場人物たちを大切にし、尊重しているからだ。彼らの内面が解剖されているように見える時でさえ、それはかわらない。彼の文や、ことばの背後の調子、息づかいなどには、いつもどこかに、大きな開口部や、ゆたかな寛大さが感じられる。ひどく長いうえ、込み入ってもいる描写に困惑させられることもしばしばだとはいえ、そうした描写は、書かれている内容が重大な場合でさえ、あまりそれに影響されないみずみずしい感性で支えられていたりする。
いま問題にしている場面で用いられている文体の場合は、この子が本当に苦しんでいる場合の絶望を表現するのに、じつに適したものだと言えるだろう。母のキスは、彼にとっては生きるか死ぬかの問題なのだ。彼としては、キスをしてもらえるからこそ強くもなれるわけで、彼自身の存在も、母の揺るぎのなさも安心できるものになるわけである。彼の生が、この愛の身振りにかかっている。母とのこの接触にかかっているのだ。あらゆる問題がここにある。この接触の中に。母の愛がいかに大きかろうとも、身体的な温かみを伴わないかぎり、この子には不完全なものでしかない。彼としては、この世でいちばん慕っている存在の吐息やなじみの匂いを、ほっぺたや唇に感じる必要があるのだ。そのため、この子が自分のベッド「横たわりにいく時の描写というのは、彼に生命を授けた者とのとり返しのつかない別れの描写ということになり、そればかりか、寒い中での、涙にかきくれた強い孤独感の描出されている場面ということにもなる。この時のマルセルは、本当にひどく孤独な気分でいる。彼がとても敏感だからで、彼を動揺させるものすべてが、法外なスケールを持っているからだ。彼のこの時の苦しみを、単なる子どもの苦しみとして矮小化して見るのはよくない。苦しみというものが持ちうる大きさの可能性を最大限に考えた上で、この苦しみを尊重しておいたほうがよい。描かれようとしているのは、普遍的な苦しみというものなのである。ここでも、キリストが思い出されてくる。神からさえも見放されて、悲嘆の淵に沈んでいる時のキリストだ。半ばユダヤ教徒、半ばカトリック信者だったプルーストは、読者がよりよく作品に参加してきてくれるようにと、抽象的で哲学的な説明をしながら、聖書を引き合いに出すのが好きだった。
キスのことに戻ろう。母親の乳房から新生児が貪欲に飲む乳や、愛しあうふたりを結びつける性行為のように、マルセルにとって、母のキスは生きていくのに欠かせない。突然なにかが欠けると、そこに生まれる欠落や空虚は、子どもにとっては大人以上に、いっそう恐ろしく耐えがたいものになる。大人ならば理性的に自制することもできようが、子どもの場合には、すべてを純粋にとらえ、手加減できずにダイレクトに経験してしまう。就寝の時間というものにしても、大人にとってならば、ふつうは非常にポジティヴなものとして捉えられる。一日の心労をようやく忘れ去り、体と心を休ませることのできる時間なのだ。けれどもマルセルにとっては、多くの子ども同様、それは虚無の時間とでもいえるようなものを意味しうる。明るみや生活の活動に別れを告げねばならない時であり、ランプをつけっ放しておいたり、ドアを少し開けたままにしておかなければ眠れない子どもたちもいる。マルセルはずいぶんと賢く、こんな時には状況を変えようとする。母への愛のべつのかたちを、心の中でふいに思いつくのだ。気難しく、辛抱のきかない愛、こんなふうに追放されるのを拒む愛、キスをおあずけにされた上、ひどい欲求不満のまま「埋葬されたりするのを断固として拒もうとするような愛だ。とはいえ、とても賢く、育ちもいい彼としては、ことを荒立てたりはしないし、お腹の痛むふりをしたりもしないし、わがままを演じてみたりもしない。逆に、ひそやかな、もっと微妙なやり方で、外交術的戦略とでもいうべきもので、失われた領土を回復しようと図るのだ。彼は母に手紙を書き、母のほうからも手紙で返事をよこしてくれるように要求する。宛名人にこれを伝えるのはフランソワーズだが、彼女にはこの策略は見抜かれているので、郵便配達夫としては不快な人物であることこの上ない。作戦は失敗し、ママは、子どもが仕掛ける愛の罠に陥ったりはしない。しかし、マルセルとしては、ここで、ずいぶん勇気があるところを見せたことになるのだ。彼は極端なまでに内向的なのだから、いくらでも受動的になりうるのだし、ふつうの子どもが機嫌を損ねた場合よりもはるかに反応は遅くなりうるのを考えれば、こんな勇気を発揮したことは、彼の場合、たいへんなことなのである。こうした感受性のあり方は、自分というものを、自分の中で、また、自分自身とだけ生きるよう押しやっていく。周囲に見えるあらゆるものを、自分のうちに吸い込ませもする。彼はスポンジのようにすべてを飲み込み、それら内部に集めたものを精神と心とで覗き込み、取捨選択をする。そうしながら、彼をもっとも内省させ、成熟させうるものを選んでいくといった印象がある。この振舞いは、すでに、ほとんど大人のそれというべきで、彼はあまり自己表現もしない。彼の歳にして、ふつうの子どものようには振舞っていないのだ。毎瞬毎瞬、生活から与えられるもののすべてを、とほうもなく生まじめに受け止めている。たくさんのおもちゃで、騒々しく彼が遊ぶさまを思い描くのはむずかしい。自分の部屋に入ると悲しい気分になるし、魔法のランタンでそれを紛らわそうとしても、どうもうまくいかない。それというのも、たったひとつの思いに、すっかり支配されてしまっているからなのだ。太陽はまもなく地平線の向こうに逝ってしまうし、母からは離れなければならないし、という思い。だからこそ、晩餐のさなかの母に、なにがなんでも接触しようとするのである。ずいぶんと気力が要るし、恐ろしいジレンマに心は引き裂かれんばかりになる。それだけに、この試みにはいっそうの決断力が要る。これ以上ないほどの気持ちで、彼女にはキスをしに来てもらいたいのだが、同時に、この大切な人の顔に、ちょっとでも怒りや落胆の影が漂うのが見えるのはこわい。今度ばかりはやり過ぎてしまった、とはわかっているのだ。自分のエゴイズムをとにかく満足させつつ、もうひとり、あれほど好きな相手をも満足させようとするのは、彼にとっては大変なことなのである。手紙についてのこの箇所は重要なのだが、それも、彼の性格のあり方がよく見えるからだ。母とひとことも交わせず夜を過ごすのに耐えかねて、スワンの辞去した後に、階段の上で母を待つ箇所も同様に重要といえる。病的なまでに影響を受けやすい気質というのに、母の激怒を恐れれば恐れるほど、余計に勇気を発揮するのだ。この勇気から彼が引き出すのは、スワンの来訪で突然こわされてしまった貴重な関係、すなわち母との接触を再構築しようという力なのである。この晩は、たとえ罰として家を出されねばならなくなるとしても、彼はどんなことでもする気でいるのだ。
こうした頑固さは、いかにも子どもの頑固さではあるが、それだけには留まらない。それは、習慣や継続というものが、彼にとってきわめて重要だということを意味する。それが、たえず補給され、日々くりかえされていく安定した幸福というものの同義語であるがゆえに、なおさら。たとえば、マルセルが寝室を換えるのを好まないということを思い出そう。そうしなければならなくなるたび、新しい家具や、新しいカーテンに、彼はなかなか順応できないでいる。それらの色にしても、それ以外の細部にしても、思い出すことさえできないほどなのだ。ホテルの部屋にしても、あまりに人間味がないので、彼は嫌っている。大人になってからばかりでなく、子どもの頃にも、物質的にも心理的にも、深く、習慣というものを愛しているのがマルセルなのだ。時間というものが、遅かれ早かれ、ものを別れ別れにさせていくものであるとすれば、習慣へのこうした偏愛は一種の保存本能のようなものかもしれない。これが、彼の中にはいつも在り、あたりを注視していて、そう見えない時でも、つねに目覚めている。キスを一日中持ち焦がれているからといって、それを毎晩受けたいがために、習慣というものにひどく執着しているというわけではないのだ。それが彼を安心させてくれるからなのであり、予想できるあらゆる危険の可能性から、それによって守られていると感じるからだ。習慣には、それ以上の意味もある。退屈してしまうかわりに、強度をもって彼を生かしめてくれる第二の自然なのだ。あるいはむしろ、とほうもない能力を持っているのはマルセルのほうなのかもしれない。彼のほうこそ、習慣を生き生きしたものにし、それにまとわりつく重さを取り除いて、高邁なものにするすべを知っているのかもしれない。そのかわりとして習慣は、もっとも平凡な日々の行為や見聞の中でさえ、彼を幸福にしてくれるのだ。西洋サンザシや、コンブレーの教会のステンドグラス、そこの鐘楼などについて(例をあげるのはこれくらいに留めておこう彼の語り方は、それらを観察したり賞美するのに、幼い時から一度も飽いたことのない人のそれだといえる。子どもの頃からすでに、習慣というものを、自分の心と精神とを豊かにしてくれてやまぬ創造的なエネルギーとして感じとっていて、これは生まれつきの傾向といえる。
ひとりで自分の部屋にいるマルセルに戻ろう。彼が望んでいるのは、母と彼とのあいだの愛情の流れがけっして断ち切られることなく永遠に流れ続けることだ。数時間でもこれが断ち切られれば、彼には耐え難い。とても感じやすく、心を動かされやすいマルセルにとっては、これは根源的な不安といっていい。母の心臓が、彼の心臓と同じリズムでいつも脈打っているのを感じ、しかも、それが彼の間近あると感じられることが、彼にはどうしても必要なのだ。これは非常に独占的な愛着で、あらゆる妥協を拒むものだが、それ以上のものと感じられるし、遠くから見れば、単に子どもが親を思う愛情とも見える。ここにあるのは、永遠に存在していくひとつの関係である。これは壊しえない。主役ふたりの身体的な死までは、生きたものとして、無傷のものとしてあり続けるほかないものだ。この点については強調しておきたい。というのも、作品全体が成立している基盤はおそらくここにあり、より正確にいえば、こうした人間的な原型のうちにあると思われるからだ。『失われた時を求めてにおいては、無意志的回想によって時間を探求し、甦らせていこうとの試みがなされるのだが、ここで用いられるのは、この無意志的回想の力ばかりでない。その力の欠落もまた用いられるのだ。これは知的であるとともに精神的な作業である。まさに、精神や思考の領域に触れる芸術作品と呼ぶにふさわしいのだが、この企てには、いささか常軌を逸したところもある。これが、読者に受け入れられうるものとなり、読者の心に触れ、読者に身近なものとなるためには、作品はとりわけ生き生きとした泉に滋養を求めねばならないだろう。プルーストは、そうした源泉のひとつとして、母に対するマルセルの愛情を選んだように思われるのだ。これは母のキスによって、また「編まれた小さな藁の綬のさがっている青いモスリンの庭着の軽い音によって具象化されている。『失われた時を求めて全編のあちらこちらに見られ、成人後もマルセルの心を養い続けるキス。マルセルにとって、それはとても必要なキスなのであり、アルベルティーヌが彼から離れていくのも、おそらくはこのキスのためだったのだ。というのも、アルベルティーヌはたんに彼の愛人、すなわち、外部からの遺伝子だったに過ぎなかったのだから。彼の心は、すでに母との接触の思い出の、あのかけがえのない、忘れがたい甘美さによって占められていた。彼女は、そういう彼の心に接木されに来たに過ぎなかったのだから。




さて、階段の上にいるマルセルに戻ることにしよう。両親が寝に上ってくる。ここで、興味深い場面が展開されることになる。いつもなら、上って来る父は、どちらかというと息子に断固たる態度をとる。息子に対する母の情愛に行き過ぎがあると考えてのことなのだが、この晩に限っては、予想に反して逆のことが起こる。この父は、息子に厳しすぎると妻を難じ、はやく息子を慰めにいってやるよう促しさえするのだ。その後の展開は周知の通りだ。ママは、ベッドのマルセルに掛け布団をしっかりかけてやりもせず、キスもしなければ、ランプも消さず、おやすみも言わない。彼に与えてしまった苦しみを埋め合わせるには、そんなことでは不十分だというように、かわいそうだがフランソワーズに休息時間の途中で来てもらって、息子のわきにいられるよう、部屋にベッドをひとつ運び込んでもらう。フランソワーズときたら、スワンと家族みんなのために、コルドンブルーにもふさわしい腕前を披露してずいぶんと時間をかけて料理を作ってくれていたというのに! さて、母はそうしてから、ジョルジュ・サンド『フランソワ・ル・シャンピを朗読してやるのだ。これは、本当なら数日後に、洗礼名の記念日のプレゼントとしてマルセルが受け取ることになっていた本の一冊である。
それにしても、母からの、なんとふんだんな愛の証拠であることか! キスをされなかったことで、どれほどマルセルが苦しんだか彼女にはわかっているのだ。彼女は、自分に非があると感じている。ふたりを結びつけていた取り決めがあったのに、それを裏切ってしまったのは彼女なのだ。そもそも、晩餐の間じゅう、彼女自身、そのことで苦しまなかっただろうか。息子がキスを受ける必要があるのと同様に、それを与える必要が彼女にもなかっただろうか?晩餐で疲れているというのに、彼女もまた、息子同様、少しも眠くならない。なにを思うにつけ、スワンの話につき合っている時でさえ、息子がひどく自分を必要としているように感じられる。こうしたことは、このふたりの場合のような愛のかたちで結びつきあっている時には、当然のことともいえようか。苦しみながらも、マルセルが彼女のことを思い続けているとすれば、母のほうの心の中でも、事情は同じではないのか。そうだとすれば、彼女にしても、この晩、彼らがいっしょに、少しでも長くいられるのを望んでいることになろう。とはいえ、同時に、息子にはもっと強くなってもらわねばならないし、人生に立ち向かっていく準備をするのには、彼女なしでやっていってもらわねばならないのだ。こんなに繊細な子どもの場合には、そうしたこともなかなか難しいのはわかり切っているわけで、彼女としても、実のところ、息子が本当にそうなってくれるよう望んでいたものかどうか。彼女が本当に自分自身に正直であるなら、ここでいちばん大切なのは、彼が彼女に属しており、彼女のほうは彼にとって、生きる喜びを体現しているのではないか、と認識することだろう。後になってからのことだが、マルセルがアルベルティーヌとともに家族の住まいで暮らすようになった時母親はこの状況を「変則的な度合いのもっとも少ないものとして受け入れている。とはいえ、そのことで彼女が苦しんでいるとは感じられるわけで、彼女としては、なんらかのかたちで「正式化を望んでいるのである。だが、彼女は独占欲のつよい母親にはならないようにと努め、マルセル自らに決めさせるのだ。
それでも、彼女がなんとかして、息子を自分のもとに引き止めておきたがっているのは見てとれる。彼女の細胞のもっとも深いところで、母性というものが、まさにそれが、自分の創造したものや自分から生まれ出たものから離れられないで苦しんでいるのだ。
さて、いま問題にしている場面においては、彼女は彼を慰めようとしている。が、マルセルの心は穏やかにはならない。彼は、母をひどくがっかりさせたとわかっている見えない手で、親不孝にも彼女の心にはじめての皺をつけてしまったうえ、はじめての白髪を生えさせてしまったと感じていた。しかし、これほど愛する存在を拒む力は彼にはないし、いずれにしても、状況を変えるには遅すぎるのだ。先刻までのマルセルはスワン彼に対して厳しかっ本人に自覚のないままに残酷な祖父、それ以上に理解があるともいえない父などのせいで苦しんでいた。今度は彼のほうが苦しめる番になったのだ。愛は喜びではあるのだが、時間の中に生まれてくるものだから、苦しみでもある。それはけっして、あるがままではいられない。愛すれば愛するほど、こうした愛というものは、私たちの手をすり抜けていくように見える。つかみどころがないのだ。マルセルが彼なりの人生修行をはじめるのは、人が存在しよう、生きようと決意するやいなや、すべてを変質させていってしまう時間なるものとともになのである。時間の素材は、人間にとってはひどく息苦しく、重い。そこから解き放ちさえすれば、時間はひとつの透明性へ、ひとつの光へと変換されうるだろう。そうすれば、ふだん見えている生を超えた向こう側の生も垣間見られることだろう。マルセルの見者としての感受性と直観は、もしこう言ってよければ、創造者である精神のほうへ最大限に遡りつつ、時間とはなにかを見出す助けとなってくれるだろう。時間とは、私たちに向けて彼が描き出していってくれる存在やものを形成する、それぞれに異なった諸々の層のことである。たとえば、性的な逸脱をはじめとするシャルリュスの行為の背後に、マルセルは、この人物の至上の知性と法外な善意を輝かせるすべを知っている。また、ゲルマント公爵夫人に会うたび、彼女を描けるだけの作家としての才能の持ちあわせがないと悔やみつつも、その瞳の淡青色や、まなざしの冷たい紫にこの夫人の魂を探ろうとするだろう。あのスワンにしても、その心の奥底では、人間というものの性質に対して、幻想などまるっきり抱いてなどいないということも、老練な地質学者さながらにマルセルは私たちに教えてくれる。スワンがオデットの気まぐれにすっかり服従することにしたのも、つまりは、それ以上の苦しみに苛まれないがためなのだった。その根本には、時間というものは、抗いようもなくすべてを退色させていくという認識さえあったのだ。人生の終わりに至って、マルセルの思考の糸をコンブレーに引き戻していコンブレーの庭から呼び鈴の音を聞いていた時代、それはずいぶんと遠ざかってしまったが、なおも私の内部にあって、ひとつの道標のようになっている。所有して自分のものにしようにも、そうするすべとてない、あの大きな空間の中の道標だ。何年も何年もそうだったのだが、私の内部のことであるというのに、私の下を見ようとすると目まいがするようだった。まるで、長い距離へだたって、自分が上のほうにいるかのようなぐあいだった。どちらの方向に自らの生を向けたらいいのかがわかると、もうマルセルは逡巡しない。彼はなにからも、誰からも離れて、自分の生き得てきた時間と空間を甦らせようとする。彼自身、その中の出演者であり、証人でもあった時間と空間。とはいえ、目下のところ彼は、子ども時代のまったくの無垢の中で耐えているにすぎない。対抗するに足るなにものも、まだ持ちあわせていないのだ。そういうわけで、小さなマルセルにとり、この夜の晩餐は短調で始まり、そのまま短調で終わっていくことになる。母にとっても、彼自身にとっても、彼が感じ取ったことのすべては、目に見えるものを超えたところのものだったからだ。甘美で哀切なチェロの響きのように、とても優しいメランコリックな無限の低音が、彼の心を後々まで包み込んでいくことになる。



 4

だれかの訪問のある時にマルセルが苦しむのは、なにも晩に限ってのことばかりではない。毎日、就寝時間が来るずいぶん前から、彼はつらい気持ちになっている「コンブレーでは、毎日きまって午後の終わりから床に就かねばならなかった。母や祖母からは離れ、眠れもせずに、ずっとそこにいなければならなくなるものだから、寝室は、就寝の時間が来るずいぶん前から、私の気がかりが辛く凝集していく場所になってしまうのだった
彼にとって重要なのが、このふたりの女性であり、女性的存在なのだということに注意しておこう。母は、模範的な愛と調和の生きた例だが、彼は祖母のことも敬愛している。彼女から大きな印象を受けているのだ。祖母が彼を魅了するのは、おそらく、彼とは対照的な存在だからであり、孫の病的な弱さとは反対のものを持っているからだろう。彼女は、自然のさまざまな要素に立ち向かうすべを知っている力ある存在であり、雨の中や風の中を歩くのを好む。マルセルはひそかに彼女をうらやんでいるのだが、真似はできそうにない。
ところで、母からけっして目を離さないマルセルが、言葉やしぐさによらず、まなざしだけで表明するあの言葉を伴わぬ不安には、心を揺さぶられるものがある。大人たちの中にたったひとりでいる子どもにとっては、唯一、母だけがSOSの送り先なのだ。それをいつも敏感に察知してくれるのは、母だけなのだから。いつも同じ方向に向けられている、この言葉を伴わぬまなざしは、マルセルの性格の強迫的な面を、はやくもありありと表わしている。二次的知覚とでも呼んだらいいだろうか、ある意味では、暗示的なものでさえある知覚について、彼は長々と語っている。いったん皮膚から記憶された苦しみは、その後、彼の中にあまりに深く居座ることになるために、もう後戻りはできないように見えるのだ。子どもたちというのは、怒りや、涙や、その他いろいろのつけ込みの手段を巧みに用いるすべを知っているものだが、いったん抱え込んだ苦しみをそういったやり方で発散させて、存在の表面にでも戻れれば、おそらく問題は解決してしまうのだろう。しかし、マルセルの場合、そのようには事は運ばない。彼の場合、知覚された中でのとりわけ強い印象は、彼自身の奥底に頑強にくっついてしまう。そのため、どうしたらいいかもわからず、マルセルは内側から食われるままになってしまうのだ。こんなわけで、抵抗もきっと可能ではあるのだろうが、彼がほぼ毎晩、苦しみながら、無言であ「大嫌いな階を上って部屋に赴いていっているのは、容易に想像できる。
しかし、彼のこうしたまなざしや沈黙には、心を動かされる。それらが子どものものだからで、多くの経験を経た後に大人がたどり着くような、諦めや忍従や諦観といったものを意味してはいないからだろうか。そこには、毎日のように、同じように強く経験される終わることのない意気消沈のさまが現れている。母のキスの後でさえ、マルセルは落ち込んだりするのだ。彼の心にあるのが、もし諦めだったならば、ある意味で、この子は、期待するという病から守ってもらえるのだということにもなろう。というのも、時間の助けを借りながら、諦めは、期待という病を衰弱させていってくれるだろうから。時間からは、事実、なにひとつ逃れることはできない。遅かれはやかれ、時間はすべてを和らげていってしまうのだ。しかしながら、マルセルの抱えている苦しみは、こういった類のものではない。この落ち込み、この悲しみは、毎日、この子の心にじつに鮮烈なかたちで存在している。強迫観念にまで至らんばかりに、マルセルは母を愛しているからだ。この強迫的な情熱は、大人になってからアルベルティーヌを苛む時のそれとかわらない。母のキスへの病的なまでの欲望は、やがては、アルベルティーヌへの所有欲から来る嫉妬に変わることになる。彼はこの若い娘のすべてを知りたくなり、息の詰まるような居室で、彼ひとりだけのために彼女を見ていたいと思うようになる。それでもある日、彼女に飽きて、関係を断ち切りたくもなるのだが、それを実行する決意はできない。つねに非常に協調的で、けっしてマルセルに不愉快な思いをさせまいとするアルベルティーヌの心に、ようよう彼から離れる準備ができるたび、逆に、彼女にもう少し居てくれるよう望むのはマルセルのほうなのだ。彼女に飽きてしまったと彼はいうのだが、そうだろうか?むしろ彼自身が、アルベルティーヌとの倦怠の源ではないのか? マルセルは、その魂に至るまで、彼女のすべてを欲してはいる。しかし、ふたりの愛を育むために、病的な所有欲以外のなにを彼は与えたというのか。しかも、この伴侶の同性愛生活に気づく以前に?
マルセルは、アルベルティーヌを愛しているとはいえない。彼にはそれができないのだ。そのための真の力は、彼にはない。なぜならば、その力は、はやくも幼年時代から、母によってすでに巧みに吸い寄せられてしまっていたのだから。べつの言い方をすれば、かつて母からキスを求めていたようなぐあいに、アルベルティーヌからも求めようとしているのだ。彼自身はなにも与えず、なにひとつ与えたこともないように見えるのに、受け取ることばかり欲している。つねに一方通行なのだ。母との間でならば、事情がこうであっても、いかなる問題も起きないだろう。母親というのは、無条件に愛するようにできているのだから。アルベルティーヌとのあいだにも問題は起こらない。というのも、彼女は、自分自身の二重生活をたくみに成功させるから。若い男に対して完全に受身で、従順でありつつも、いっぽうでは、自分の本当の性質にかなった同性愛の生活をもひそかに送っていく。母やそのキスにつねに依存しているマルセルなどより、アルベルティーヌは計り知れぬほど強いのだ。べつの女性を本当に愛するのを妨げるようなキス。マルセルにとって、アルベルティーヌは外部から来た愛というものを体現しているのだが、本当なら、それに彼は自己を合わせ、自我を犠牲にしなければならなかったはずだろう。それに比べて、母を愛する場合には、なにも諦めずともよかったのだし、母への愛は幼時から感じてきたそれの継続でもあって、そこから開放されることなど望む必要もないし、そんな必要さえ感じないでよかったのだ。
そもそも、ヴェネチアに行く夢がついに実現されたのは、アルベルティーヌの死後のことであって、彼は、他ならぬ母と旅立つのだ。母とのヴェネチア行が幸せだったにしても、これがもしアルベルティーヌとの旅だったならば、はたして彼はヴェネチアで幸せだっただろうか?こんな疑問が、ちょっと心に浮かんでくる。おたがい、いかに愛し合っている愛人同士であれ、嫉妬や疑いといった苦悩の影は、たえずすべり込んでくるものではないだろうか?まさに、愛人同士であるがゆえに、なおさら。ヴェネチアの公国宮殿に賛嘆しながらも、かわいそうにアルベルティーヌのことを、マルセルが苛んでやまない様子が想像されてならないのだ。しかしながら、母といっしょだと、彼女に対する愛についての隠れた、苦悩に満ちた考察はなされず、魂を蝕まれるようなこともなく、無意味に疲弊させられるようなこともない。安心できる透明な愛がこの場合にはあり、これについては、なにひとつ問うべき問題もないのだ『アルベルティーヌ失踪の第3章では、マルセルは、このうえなく繊細に、ながく、母のことを語っている。すでに彼女の髪も、白いヴェールで包まれたように白くなってしまっている。彼らは時間に苦しめられてきたのだ。彼女のまわりで、ひとり、またひとりと失われていく親愛なる存在たちの消滅に、多くの涙を流してきたのだ、といってもいい。
これに対して、マルセルのあのまなざしは変わってはいない。とはいえ、今、そのまなざしで母を探すのはマルセルではなく、むしろ、彼女のほうこそが、まなざしを彼へと向かわせるのだ。それは、ふとマルセルが思ってしまうような、病人へと人が向けるようなまなざしなのではない。そうではなく、筆舌に尽くしがたいような愛に満ちたまなざしで、こんな愛情に自分がふさわしくないようにマルセルが感じさえするほどのものだ。すでに、母子のヒエラルキーのない愛がここにある。母としては、もう、マルセルのことを教育したり、強くなってもらおうとして自分を律する必要もない。今、ヴェネチアにあって、母はマルセルをあるがままに愛しており、かつてのように、心が締めつけられるような思いのすることも、もうなくなっている。彼にとって、今や彼女はまるごとの愛であり、母の役割を超えて、愛そのものになっている。ここに来て、マルセルは、目に涙を浮かべながら、自分にとっての人生の泉を回復するのだ。このまなざしによって、彼は、世界でいちばん愛している存在との接触を取り戻すのである。母の、かくも貴重な存在に、彼はすっかり動顛してしまう。彼女のおかげで、ヴェネチアは、魔法にかかったようにすっかりコンブレーに、あるいは、ほとんどコンブレーのようになり変わってしまうのだ。なにを見ても、聞いても、触れても、彼の好きだったあの小さな街が思い出されてくる。あれらの道々、店々、そして、住人たちが思い出されてくる。
ところが、こんなふうに、なにもかもがとても素晴らしかったというのに、ひとたび母が去ることになると、ヴェネチアも、その美しさも、たちどころに死に絶えてしまうのだ。マルセルはもう、ひとりで残りたいとは思わないし、気分にあわせて滞在を延長しようとも望まなくなる。不安に胸は締めつけられ、恐ろしいまでの逡巡の数瞬間の後で「私は全力で急ぎ、到着した。扉はもう閉まっていたが、間に合った。見つけると、母は感動で赤くなり、泣き出さないようにこらえていた。彼女は、私がもう来ないものと思っていたのだ。彼女にはしかし、彼の来るのがわかっていた。彼女の心は過たなかったのだ。こんなふうに、ふたりのヴェネチアでの幸せな滞在は、どちらにとっても、最後まで完全なかたちで続いたのだった。
だからといって、アルベルティーヌについてのもの思いを、マルセルがしなくなるわけではない。街の美しさを見ていると、彼女への愛が甦るような気持ちになることもしばしばなのだから。そうはいっても、彼女についての思い出は、多くの場合、「くすんだ調子をとっていくことになるだろう。彼女とともに生きた時間を遡るのは、彼にとってはまだ無理なのだ。完全には消えていない火山のように、なおも嫉妬は燃え続けている。強迫的な滓も下り切っていない。アルベルティーヌとの時間をデカンタするのは、すなわち、純化し、明確化するのは、まだまだ不可能なのである。彼自身、こう言っていなかっただろうか「アルベルティーヌを甦らせるのは、私には不可能だっただろう。というのも、私自身、甦ることができないでいたのだし、当時の私の自我を甦らせることもできないでいたのだから

 2004年10月-11月
  
       
【管理者による注記】
 プルーストについてのエッセーとしては、エレーヌ・セシル・グルナックの最初期のもの。すでに長くプルーストを読み込んでいたが、大学論文のような体裁を嫌ったので、それまで紀要などに書くことはなかった。愛読者として、愛好者として、アマチュアとして、すなわち、アルベール・ティボーデのいうところのamateurとしてどのように文学作品についてのエッセーを書くべきかを、静かに、真剣に考えていた。
 文学作品についての考察やエッセー執筆は、読書経験、理性、知性、心、執筆者の全人生などが融け合った状態でなされるべきだとグルナックは考えていた。理性と知性のみでなされる大学的な考察態度や論文執筆を彼女は否定しなかったが、それらを自らのスタイルとすることはなかった。他人のようにするのでなく、往々にして空虚でもある一般的な態度の安易な反復でもなく、ほかならぬ一回限りの存在者としての自分が、ある固有の作品と向きあった時に、どのように考察し、どのように書けばいいのか。自らの血や体液の流れ込んだ考察やエッセーはいかにして可能か。こういう点について、自らへの要求が厳し過ぎるほどだったので、彼女なりのスタイルの開拓は容易ではなかった。その探求は、密やかに長い時間をかけて行われていった。いかなる作品についてであれ、中年後期まで書こうとしなかったのは、そのためであったろう。
 横浜朝日カルチャーセンターのプルースト講読クラスに参加し続けた大林律子氏が雑誌『水路』を創刊した時、大林氏からの依頼を受けて、プルーストについてのこのエッセーは書かれた。この依頼がなければ、グルナックは書き始めることがなかったかもしれない。
 訳を頼まれたのは私だが、多忙の中、限られた時間でなんとか訳し終えた記憶がある。グルナックの文体や思考法には理解しづらく感じたところもあり、訳しづらいところが多く、いまなお不満の残るものだが、当時のままで掲載することにした。
 「プルースト『失われた時を求めて』に入り込んでいくために」という副題は当初はなかったが、今回、文章のスタンスをわかりやすくするために添えた。
  原文もこの翻訳も、雑誌『水路』創刊号(2004年12月1日)に掲載された。『水路』は大林律子氏が編集代表を務める非同人誌的開放型自由雑誌と呼ぶべき雑誌で、「同人雑誌でも、投稿誌でもなく、そのどちらにも属さない、自由で柔軟な性格の雑誌」である。グルナックは編集委員の一人であった。


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