chez elle, Daita, Setagaya, Tokyo
photo by Masaki SURUGA
【管理者の注】
LA MORT DU PETIT FRERE (Dans l'AMANT de Marguerite DURAS)の日本語訳。『水路』6号(2007年6月30日発行、大林律子編集代表)に掲載された。ここへの再録を快諾された訳者の内田泰子氏に感謝する。加藤多美子氏、橋本印刷の雄澤氏にも御協力戴いたことを感謝する。
photo by Masaki SURUGA
エレーヌ・セシル・グルナック
内田 泰子 訳
『愛人(ラマン)』の中でマリー・クロード・カーペンターやベッティ・フェルナンデーズについて突然思い起こし、小説の本筋とは関係なく語り出したように、マルグリット・デュラスは、その下の兄、ポーロについても同じように思い出す。中国人やエレーヌ・ラゴネルとの物語を不意に中断して、彼女は三、四頁に渡り、大好きな兄の死について語り始める。
内田 泰子 訳
『愛人(ラマン)』の中でマリー・クロード・カーペンターやベッティ・フェルナンデーズについて突然思い起こし、小説の本筋とは関係なく語り出したように、マルグリット・デュラスは、その下の兄、ポーロについても同じように思い出す。中国人やエレーヌ・ラゴネルとの物語を不意に中断して、彼女は三、四頁に渡り、大好きな兄の死について語り始める。
ある物語をするとき、いきなり沢山の話を、同時に語りたくなるものなのだ。創造力は、意識と感情のいくつもの層の上に同時に働き、確かな嗅覚は、私達の生の中に眠っているひとつまたは多くの領域を挿入することで、多かれ少なかれ決められている作品の大筋を、いつどこで覆せばよいかを知っている。それは扱われている主題にとっては、しばしば奇妙なものであり、だがその力を沸き立たせ、表面に現れるのを待っていた、そんな領域である。小説は、一直線ではなく、あらゆる方向へ向かう知性に導かれている。筆はもはや従うしかない。その基部に横たわり、しばしば私たちには合理的ではないように見えるもの全てを湧きいでるままにしておくとき、小説はまさに合理的なものになる。見えにくくあまり明白でないこの部分こそ、実際は、この物語を熱中して最後まで読み通すことができるように、通常の筋を通して、読者に発見させようとする魅惑を小説に与えているのだ。
だから、作者がこの部分をここに置いたのは、偶然ではない。〈少女〉が全てに倦み疲れ、彼女が、《漠然と死にたくなる》《漠然とひとりぼっちになりたがっている》、そして一つのことを、これからの人生において、本当の苦行となるであろう、書く、ということだけを考えていこうと確信したこの場所に。《わたしは本を書くことにしよう。それが、その瞬間を越えたさきの、大いなる砂漠のなかに、わたしの眺めているものだ。わたしの人生のひろがりが砂漠の姿をとってわたしに見えてきているのだ》。
マリー・クロード・カーペンターとベッティ・フェルナンデーズに関する頁は、著者の〈女性の夢の理想像〉、つまり、彼女たちの発する比類なく不可思議な、魅力や美しさ、そしてまた彼女たちの謎めいた生活によってこのような特別な女性たちの前で著者が強く感じたこのめくるめくようなものを明らかにする。(エレーヌ・グルナック「『愛人・ラマン』について」参照)彼女は、子供時代からの〈偶像〉に対する口にはしない賛美を持ち続け、やがて、それは『ラホールの副領事』と『ロル・Ⅴ・シュタインの歓喜』においてアンヌ=マリ・ストレッテルとなるだろう。
反対に、ポーロに対するこんなにも激しい絶望的な悲しみについてのこれらの頁は、少々予想外で、一般に余り知られていない「マルグリット・デュラス」を私たちに発見させる。デュラスは、彼女自身が個人的に構築した、形而上学を語る。そしてまた、それらの頁は、おそらく、〈母―上の兄―下の兄〉の三角形、彼女の文学的発想のもっとも豊かな源である少女時代の喜びと苦しみをもたらす三角形の中の彼女の生活に私たちをより近づかせることになるだろう。
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このように、出来事の年代を追わずに、マルグリットは、私たちに、唐突にポーロの死を告げる。《サイゴンからの電報の文句がどうだったか、わたしはもう覚えていない。下の兄が、〝死ス〟だったか、〝神ニ召サル〟だったか。記憶では〝神ニ召サル〟だったような気がする》。フランスでこの電報を受け取ったとき、彼女がヴェトナムを去り、兄と別れてから、既に十年ほどの歳月が過ぎていた。そして、彼女がこの数行を書いたとき、彼が喪われてから、四十年以上が流れていた。しかし、これに続く数頁を通して、彼女は、長い間記憶の深淵に埋められていた、しかし、彼女の大きな苦しみを、予告なく恐ろしい力で蘇らせて、私たちに共有させようとする。まるで彼女の兄が、決して動かず、彼女の前に横たわっているかのように。
まず、彼女はその電報を読んだとき、精神はもうろうとし、ぼうぜん自失した。彼女はそれを〈理解不能なこと〉と呼んだ。ついで全てを揺り動かす苦しみ、彼女が息子を失ったときよりももっと強い苦しみがあった。なぜなら、ポーロについては、彼女には彼を知るための時間があったから。彼は彼女が十七才になるまで、生活を共にしていた。デュラスは、ここで、『愛人』におけるもっとも主要で、もっとも象徴的な、水と流動性のイメージに立ち戻る。それは、彼女が中国人と、そして運命と出会った、メコン河の膨大な水の上であり、彼との最初の性的経験で彼女が連想した、厳かな海、であった。《変えられ、ゆっくりと剥ぎ取られ、悦楽のほうへと運ばれ、悦楽と混じり合う。海、かたちのない、単純に比類のない海》。しかし、ここで暗示される海の要素は、恐ろしい。それは、足元をすくう高波のような、こんなにも彼女が愛した死者を思うときの不安定さだった。《急激に、いたるところから、世界の奥底から、苦しみが押し寄せてくる。それはわたしをすっぽりと包み込んだ、運び去った、わたしには何もわからなかった、わたしはもはや存在することをやめてしまった、ただ苦しみだけが存在していた》。
マルグリットは、おそらく、彼女自身の子供の死を受け入れていた。しかし、彼女は兄の死を受け入れることを拒んだ。《生まれてすぐ死んだわたしの子供のほうはわたしは知らなかったし、そのときは自殺したいとは思わなかったが、こんどはちがった》。デュラスは、兄の死を嘆いたが、それはもはや私たちを驚かすことのない、彼女らしい方法であった。いつものように、興奮は、心底まで達し、打ちのめす短刀の一突きのように、彼女の筆の下に滑り込み、もっとも削ぎ落とされ、もっとも禁欲的な言葉となる。それは、彼女が語ろうとするものに、ほとんど異議を唱えることができない一種の悲劇的な真実を与えるのだ。彼女は、悲嘆にくれた妹の悲しみを大声で叫ぶが、それはまた、その兄の〈不死〉の終わりを嘆くものでもあった。常に、彼女にとって、ぴったりな言葉を見つけ、もっとも具体的で、もっとも肉体的な事がらを言い表すために、彼女は二―三頁にわたってこの言葉で語る。彼女のポーロに対する愛着は、不条理に近く、透視力や、身体の不思議や、彼女が完全に信じていたように見える不死の不思議にたいする洞察力、ともいえるものを彼女に与えるものだ。ポーロの身体は、不死を〈秘める〉ための完全な集積所であった。彼の身体がなければ、それは存在できなかっただろう。反対に、ポーロの身体は、〈神が顕現した〉身体であり、言いかえれば、光の、神々しい本質の身体であった。二十七年の間、彼の身体を生きさせたこの力の巨大な美の前に、デュラスはひれ伏していたように見える。信者であろうとなかろうと、彼女の兄に対する無条件の情熱は、彼女を神秘主義にめざめさせ、兄のためにキリストの受難を引き受けるかのように苦しんだ。彼女にとって、兄は聖母マリアの息子と同様に純粋であったのだから。
だが、彼女は言おうとはしないが、彼の魂の存在、まして、あの世、仮にこの言葉を使えば、あの世での彼の運命が重要なのではないのだという事実に着目するとおもしろい。ただ彼の〈身体〉だけが重要であり、それはつまり存在であり、物質であり、感触である。彼女にとって、愛は本質的に、欲望の中に、身体を通して表現されるものである。彼女が小説の中で語ったことに戻ろう。《わざわざ欲情を抽きだす必要はなかった。ある女のなかに欲情が棲まっていれば男の欲情をそそる、あるいはそもそも欲情など存在しない、そのどちらかだった。女のなげかける最初の眼差、それだけで、すでに欲情がある、あるいは欲情はかつて存在したことがない、そのどちらかだった。欲情とは性的関係への直接的な相互了解、あるいは何ものでもない、そのどちらかだった。このときも、同じくわたしは実地の経験以前に知った》。
愛? 近親相姦的傾向によってかきたてられる、官能と性欲? ある意味で、彼女の母親の上の息子に対するそれと似通っている、度を超した独占欲?誰がそう言えるのか? デュラス自身も、彼女がここでこう言っているように正確にはそれを知ることができない。《わたしが彼に抱く非常識な愛情は、わたしにとってうかがい知れぬ神秘のままにとどまっている》。
いずれにせよ痛切な第一段階で、電報によるポーロの死の知らせにすぐに続いた、あんなにも大切な、理想化された彼の身体の〈最期〉に対して、マルグリットが反乱をおこした。人は、ポーロが〈不死〉であったことを理解しない。どうしたら人はこの点で誤ることができたのだろう?!
情熱的で、同時に感情的である長口舌の中で、妹はこの恐るべき〈過ち〉の責任者を非難する。それは誰? それは〈ひと〉。では〈ひと〉とは誰? それは人間? なぜなら、彼女の兄は、薬がなかったために、救うことができなかったのだから。それは戦争中だった。《下の兄は気管支肺炎で、三日で死んだ、心臓が持たなかったのだ》。
あるいはそれは神?《神の規模に達する無茶苦茶だ》と彼女は断言する。彼女はこれによって厳密には何と言おうとしたのだろう? 神は、その子を十字架上に見捨てたように、兄を見捨てた、と言うのだろうか?
それとも彼女の兄は、すでに見たように、〈神が顕現した身体〉であり、彼の死は神自身の死に匹敵するものであって、全世界を永遠の闇の中に陥らせるものだとでもいうのか?おそらく、これら全てだろう。いずれにしても、私たちは宇宙的な悲劇にかかわりあうのだ、全世界にとってもっとも貴重な物質の取り返しのつかない消失という悲劇に。《ところがわたしたちは、この身体にこそ不死が宿っていたということ、それを見抜かなかったのだ。兄ちゃんの身体が死んでしまった。不死も兄とともに死んでしまった。しかもこうして、いまも世界はつづいてゆくなんて、神の顕現したあの身体が、あの顕現が奪われてしまったというのに》。
極度の悲しみの中で、熱狂的なまでに情の深い妹は、ある種の言語散乱に捕らえられたように見える。動揺が原因で精神が錯乱し、言葉を選び損ねて、発言しながら口ごもってしまうかのように。この知らせの与えたショックは、彼女に、いくつかの言葉や表現を幾度も繰り返させる。《間違っていたのだ。(……)小さい兄ちゃんは不滅の存在だったのに、その姿がもうみえなくなってしまった。(……)完全に間違いだ》。十行程の間に、著者は、不定代名詞を五回、〈不死〉という語を三回使うのだ。彼女は同様に、〈過ち〉〈無茶苦茶〉〈全世界〉の語も繰り返す。
確かに、私たちに衝撃を与え、無知な麻痺状態から目覚めさせる、とても強い言葉がそこにある。彼女は、この運命的な局面を、ほとんどの動詞を、複合過去と大過去とを用いることで、より一層強調する。このように立体的に、不幸が起こったことを書くと、もうそこに戻ることはできない。しかしもしその動詞が単純過去で書かれたら、出来事は歴史の中に入ってしまい、決着のついた事件となるだろう。反対に、複合過去の場合は、過去の中に入るが、現在や未来におけるその影響は、必ず感じさせられるし、永遠に人類の生活を悪化させ続けるだろう。世界はもう以前のようではない。
それは、突然私たちを包み込む聖書の息吹のようだ。ゴルゴタの丘で、キリストが息を引き取った後に轟いた荒々しい雷鳴を思わずにはいられない。
もっとも現世的で、もっとも肉体的な苦しみは、その中に人間と神とが共存する身体への壮麗な敬意を通してあるのだ。
不器用で、稚拙なように見えるこの節の全てが、実際はデュラス自身の文体をよく示している。極端に削ぎ落とされているが、とても個性的である。あえぐような、しかし恐ろしい力のエネルギーを内に秘めて、これらの繰り返しは、文章のリズムと、疑いや批判を許さない主張を帯びた断固とした調子を加速する。独特の文体は、その言葉本来の意味において、愛についてだけでなく、生と死についての哲学の神秘と普遍のなかに出来事を刻み込む。
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そして、この兄の死、この〈無茶苦茶〉、この〈過ち〉の最初の犠牲者は、マルグリッ卜である。彼女は彼とともに死んだ。そこにはこの明晰さ、〈じつに単純な〉この全知を与える愛しかなかったのだから。一方の死を理解することで、他方の死も同じ時間の閃光のなかにある。愛するものと愛されるものは、ひとつでしかない。そして、身体がなくては愛することができないので、それはデュラスにとって絶対に必要なものだった。《わたしのほかは、だれひとり見抜いていなかった。わたしがこの認識に、じつに単純な認識、つまり下の兄の身体とはこの私の身体だという認識に達していた以上は、わたしは当然死ぬはずだった。そしてわたしは死んだ。小さい兄ちゃんがわたしを自分のほうに寄せ集めた、自分に引き寄せた、そしてわたしは死んだ》。そしてまた、彼女は波が〈運び去る〉のを感じた。海の波ではなく、虚無か、あるいは二人ともに、もう戻って来られないどこかの波にである。しかしもっとも重要な点は、彼らが永遠に一つになることだ、下の兄は、彼女を自分のほうに〈寄せ集めた〉のだから。
ここで彼女はもう一度、彼女が彼をいとおしみ、どれほど、不幸にも、人が愛することを知らず、愛や感情移入の本当の意味についてほとんど理解していないように見えるかを強調する。しかし彼がいなくなれば、それでおしまいだ。《あのひとが、下の兄が死んでしまったのだから、何もかも、かならずつづいて死ぬはずだった。あのひとのために死ぬはずだった。一連の死が、兄ちゃんから、死んだ子供から始まるのだった》。こんなにも若い人、デュラスがしばしば、彼は〈子供〉だったと繰り返すが、その死は、残された人びとを荒廃させる。それは、妹の息の根を止め、彼女から、彼のため、その思い出のためでさえも生き続けるエネルギーを奪ってしまう、出口のない絶望のようだ。彼女にとって、生きるとは、他者を欲望することなのだ。他者とは、この欲望の具体化なのだ。だから、兄の死は、彼女の彼への欲望の死と同格なのだ。ただ一つの望ましいことは、生きることをやめること、それほど耐え難い状況なのだ。
それ以前に、調子と文体は拒絶と抗議のそれであり、その二番目の局面において、すべては短調になり、死のうえに集中する。デュラスは、何回もこの言葉を違う形で繰り返す。〈死、死ぬ、死んだ〉、彼女の兄を指し示す代名詞〈彼〉、〈彼に〉をまたしばしば繰り返しながら。それは、このすべての行に、苦しいあきらめと認めざるを得ない悲壮な距離の保持という印象を与える。それは墓前で瞑想するようなものだ。その墓のなかに、妹は彼女白身の身体をおいて来たのだ。永遠に、とても愛した身体の横で安らぐかのように。
マルグリットが彼女の兄を兄妹としての愛情だけで愛したのだったら、疑いなくその喪失をほかの方法で受け入れることもできただろう。彼女はそれを余りに芝居がかって、あまりに大仰に見ている。なぜなら、妹として以上に、それは、その半身から荒々しく切り離された苦しみにうめいている身体なのだから。そして、書くのもまたデュラスである。彼女のすばらしい筆は、異論なく、個人的な悲劇をラシーヌや古代ギリシャの作家の悲劇と同じ高みに引き上げることを許すのだ。
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反抗、次いで深刻でゆっくりした反応の中での〈内的な〉死の後で、三番目の局面が続く。そこで、長口舌は、再びほとんど断定的な調子で、とりわけ一連の補足節によって再開される。ここで、著者は彼女の論拠に反対するすべてを拒否しようとしているように感じられる。それは不死の死への拒絶ではない。デュラスはこの明白な事実を前にもう後退はしない。不死は死ぬ。ポーロの死は、このことの明白な証明である。
だから、この避けて通ることのできない真実を人々に知らせなければならない。なぜなら、今のところ、それを知るのは彼女だけなのだから。《わたしのほかは、だれひとり見抜いていなかった》と彼女は明言する。その戦いの計画はとてもはっきりしている。私たちを説得したいと思うすべての論拠に従うだけだ! しかし、もう一度言うが、デュラスにおいては、抽象的に、簡単に述べられていることは、そこに言外の意味がいろいろと含められており、存在論的あるいは形而上学的な問題についてあまりくわしくない読者にとっては、常に明瞭だとは限らない。
まず、彼女は言う。《人びとにこのことを知らせねばなるまい、不死とは死すべき運命にあるということを、彼らに教えなければなるまい。不死も死にうるのだということを、それが起こってしまったということを、また起こるということを。不死とはまぎれもない不死としてはっきり見えているものではない、断じてそうではないということ。それは完全なる二枚舌だということ。それは細部には宿らず、ただ原則のなかに存在するだけだということ》。これによって彼女は、不死は決してそう見えるものではないと言いたいのだ。それは二つの顔を持つ。それは存在する、同様に、もはや存在しないこともある。彼女が数行後で私たちに説明するように、それは私たちの身体を伴う私たちの生に結び付いているからだ。そのために理解することがとても難しい。一方、それは〈原則〉である、つまり、すべての根本的な原因の一種であり、それは説明されず、人間にとって謎のままで永遠に残されるものなのだ。あるがままに受け入れるしかないのだ。
次に、デュラスの考えは、明確でより具体的になるが、より単純ではない表現法を用いる。例えば、彼女はこう述べる。《ある人びとがそれの現存をうちに秘めることのできるのは、自分ではそうだということを知らないという条件においてだということ。また同様にほかのある人びとが、そういう人びとのなかに不死の現存を見破ることができるのも、同じ条件つまり自分にそれができるということを知らないという条件においてなのだ》。それは、人間を二つの種類に分けているようだ。一番目は、生まれながらに、自身の中に不死が存在することを知らない状態のなかに生きる人々、この人たちはそれを〈うちに秘める〉。それに対して、二番目の人々は、一番目の人々のなかに、すべてまた直感的に不死を〈見破る〉人々だ。いいかえれば、不死とは完全に自然で無意識的な、交換の流れ、望むものと望まれるものとの間の抵抗できない魅惑的な引力なのだ。そして両者の融合は、説明し正当化するいかなる論理もなく、行われる。
不死は、だから、欲望と愛である。しかしデュラスはこの二つの状態、欲望と愛に、あまりにも大きな、あまりにも強い力を付しており、ただ〈ある人びと〉だけしかそれを生き、共有することはできないことを明言する。不死はすべての人々にもたらされるものではない、それに値しなければならない。ポーロは、そうと知らずに、彼の無知の全体的な純粋さのなかにそれを持ち、マルグリットに、彼女の彼に対する優しいイメージの中に完全に溶け込むために、受け取ろうとしている彼女に、もちろん知らずにそれを与えた。それが彼女にとって、不死だった。それはあまりに単純だと考えることもできる。だが、全然そうではない。計り知れない宇宙と同じほど大きな感情だった。それは私たちに、神の息子に対する愛を思わせる。人が今まで説明できず、これからも説明できない愛、なぜならそれは生きているから、それは、〈身体〉のなかの〈原則〉だ。
デュラスは不死を時と突き合わせながら、その哲学的〈教育〉を続ける。彼女は、不死が、現在のなかに、私たちの身体のなかにその生がある間だけしか存在しないことを確信している。それがなくて、私たちはどうやってその存在を知ることができるだろう? 不死は私たちには見ることができない。私たちは毎日の生の中に生きているのだから。私たちはむしろ死の後に、どこかの永遠の中に、それを遠ざけようとする。だが実際は時間の観念の中に不死を見ることはできないのだ。デュラスは言う。《不死がおのれを生きているかぎり、生は不死であり、その一方で不死は生のなかにある。不死とは時間の多い少ないの問題ではない、それは不死の問題ではない、それは何かほかのことの問題なのだが、その何かほかのこととは、いまなお未知のままにとどまっている》。彼女は、その本質の理解には、人間の意識は決して到達できないことをより一層明確にする。
一方、それが精神から来たということは、また全く不条理だ。精神もまた、定義できず、捕らえることのできないものなのだ。それは風を捕まえようとするようなものだ。《不死とは始めもなく終りもないと言うことが誤りであるのと同じように、不死が精神を分有し、そしてまた空なる風の追求を分有している以上、それは精神の生とともに始まり、また終るというのも誤りだ》。
著者は、身体の中の不死に関して、私たちに一つの例を挙げて、彼女の立派な論証を終える。それは、人がすぐに、その生において、眼前に見ることのできる、一つの耐え難い真実だ。《砂漠の死んだ砂を、子供たちの死んだ身体を見てごらんなさい。不死はそこをとおりはしない、足を停め、迂回してゆく》。
このデュラスの考えに、間違いなく近い、アルベール・カミュについて考えてみよう。なぜ私たちにとって、存在の苦悩を静めるために、死後の方がより良くより慰められるというのか?すべては現在にあり、どこかほかの時のほかの場所を探す必要はないというのに、私たちはなぜ現在を拒むのか?《なぜなら、人間にとって現存を意識するとは、もはやなにものにも期待しないことだからだ》(……)《この世のあらゆる〈もっとあとで〉をぼくが執拗に拒絶するのは、同時に、ぼくの実存の豊かさを断念すまいということを物語っている。死がもうひとつの生をひらくと信ずることは、ぼくには嬉しくない。死はぼくにとっては、閉じられた扉だ》(……)《ぼくに提起される一切は、人間から、その固有な生の重荷を取り去ることに汲々としている》。(『結婚』、ガリマール刊 1950年)
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ポーロの固有の不死から、デュラスは、一般へ、普遍へと移って行く、もう一度固有へ、兄の不死へ戻ってくるために。重要な細部を付け加えることは、彼女の関心を強く引くようだ。彼の不死の例外的な純粋さを、彼女はキリストのそれと対比しようとしているようだ。キリストのそれよりも、もっと純粋な不死。なぜならキリストはこの地上に実現するべき宇宙的規模の使命を持っていたのだから。彼は世界の醜さと隣り合わなければならず、その父なる神の教えを、それを聞こうとしていない群衆に説かなければならなかった。しかし彼はすべてを成し遂げる力をもっていた。ポーロ、彼は、何も、あるいはほとんど何も知らなかった。彼はなにものでもなく、だれも彼に期待しなかった。彼は奇跡を起こさなかった。彼は生きることへの恐れ、すべての不安を体現していた。《下の兄に関しては、問題となったのは、欠陥なく、伝説なく、事故のない、純粋の、ひとかたまりの不死のことである》(……)《彼は教養がなかった。何であれ知識を身につけることがどうしてもできなかった》(……)《それは、ものごとを理解せず、そして怖がる、というようなひとだった》。
そして、《彼には何も言うことがなかった。あそこでも、ここでも、何も》、デュラスがこう付け加えたとき、キリストへの暗示はより鮮明になる。《あそこでも、ここでも、何も》と言う言葉によって、地上のメシヤとなり、キリスト教の信仰によれば、天国においてもその仕事を続けているキリストと、ポーロの何もない生との対比を、彼女はより一層強調しようとしたのだろう。あるいは、彼女は単に家族の中で、そして家族の外に、他人にと言いたかったのだろうか?何も彼に触れたことはない、汚れも。何も彼の透明さの輝きを失わせない、苦しみさえも。彼は何も感じていないようだった。ある意味では、彼は完全だった。《ときには苦しみかたも知らないんじゃないかと思われたほどだ》。ここで、彼女は、二人のために苦しむのは彼女しかいなかったと言いたいのだろうか? そして、その苦しみの中で、とても孤独に感じていたと?
デュラスは、その兄の死について語るのをやめ、子供時代の思い出を語ることで、兄についての熱狂的で信じがたい想起の輪を閉じる。上の兄の恐怖の影や母の不幸の中での彼らの日々の生活について。妹が作家になるという願望を持っていることを考えると、驚くほど単純なポーロの好み(車、狩猟用カービン銃、機械)について。そして、彼女が記したその生活の平凡な細部のすべてが、もっとも美しい不死が人間の中で、ポーロとして表れたことをも示そうとしてはいないだろうか?
だから、私たちの目に兄の価値を減少させるのではなく、反対に、そのかぼそい肩に完全に引き受けたかに見える妹の大きく揺るぎのない愛によって、このくだりは彼を気高くしている。《わたしは永遠に彼を愛している、この愛には新たな事態はけっして起こりえない、と思われた。わたしは死ということを忘れていたのだ》。ポーロ、この世でただ一人彼だけによって、マルグリットは不死に生きられたのだ。
彼女は、彼について語るのをやめた。多くの年月が過ぎた。彼女は眼前の自然を眺め、鳥の声を聞いていた。鳥は、《あらんかぎりの力で啼く、気のふれた鳥たちが》。だが、彼らの、啼き声が、もし不安と悲しみを表しているのならば、また、それは生が再び始まることを示してはいないだろうか。《雨につづく超自然的な光》による新しい不死を?そして、その〈光〉とは、そこから始まり、永遠に繰り返す〈精神〉ではないだろうか?しかしそれは私たちの身体のお陰であり、身体がなければ、私たちは精神がそこに存在することを意識することはできないのではなかろうか?
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そこで、このような疑問を提起することができるだろうか。デュラスはなぜ、この単純すぎるほどの兄を、この二歳年上の〈小さい兄ちゃん〉をこんなにまで愛したのだろうかと。
作家の人生を簡潔に見直してみると、彼女の父が彼女が四歳のときに亡くなり、彼女には重要な父の思い出が何もないということに気づく。彼女の家族、三人の子供達のすべてを担っていたのは、母親だった。二人の息子は、彼らの人生において、何一つよいことをしなかった。そして娘は、マルグリットは、際立った知性を持ち、その二人の兄とは正反対だった。
しかし、彼女の母は、すでに彼女自身解決できない問題を抱えていた。それは、過度の責任に押し潰された母親であり、寡婦であるという彼女の状況では完全に説明しきれない、慢性的な鬱状態のようなものに悩まされる一人の女だった。デュラス自身、すべての子供達に影響を与えた、この不治の憂鬱の本当の原因を決して理解できなかった。《そのようにがっくりと生きる気力を失ってしまうことを、母は毎日のように経験していた》(……)《どれほどつよい生の幸福でさえも、ときとして、母の気持を絶望から完全に引きはなすまでにはいたらない、それほど純粋な絶望によって絶望した母親を持つという機会に、わたしは恵まれたのだ。いったいどんな種類の具体的事実のおかげで、母の気持がそんなふうに毎日のようにわたしたちからはなれてしまったのか、それを知ることは永遠にないだろう》。
一方で彼女はその一番目の息子に、まるでほかの二人の子供が彼女にとって存在しないかのように、執着していた。彼女が、むだに終わったとはいえ、金銭を得るために試みた、ヴェトナムでの〈太平洋岸の払い下げ地〉あるいはフランスでの〈電気孵卵器によるひよこの飼育〉のすべては、ポーロのためではなく、マルグリットのためでもなく、その長男のためだった。この盲目的に愛された息子は、三人の子供のうちでただ一人、彼女が〈うちの子〉と呼んだ子だった。彼に、彼女は言った。《おまえ、あたしはおまえが、いまだにその年で、そんなふうだっていうことを自慢に思っているよ…… 猫みたいに痩せててね…… ねえ、おまえ……》(『木立の中の日々』ガリマール刊1982年)彼女は、娘が中国人と関係を持ったことを恥じ、すすんで、溺愛する息子が、妹をなじり、叩こうとするままにさせていたが、彼女は、たとえ息子が彼女から盗み、差恥心もなく最後まで彼女から搾取し続けても、揺るぎない誇りを彼に感じていた。《そういうのは、あたしだけにしかわからないちがった誇りなのさ。だから、あたしがつらいのもそのことだけなんだよ、おまえ、それだけなのさ。あたしだけにしかそれがわからないっていうのに、そのあたしが死んで行く、あたしが死ねばだれも、そんなことを誇りには思わないだろうって考えることだけなんだよ》(『木立の中の日々』)。母親の子供に対する、特に最初の子供に対する、盲目的な愛と人は言う。しかし、マルグリットにおいては、そのほとんど病的なまでの同様な愛着は、その兄、ポーロに向けられ、後には、彼女の二番目の息子に向けられているのだ。娘は、その母親と同じ《過ち》を再現したかのようだ。
ところで、このような状況の下で、この家の唯一の娘であるマルグリットは、どのように成長したのだろうか? 彼女には、まず少女時代、次いで青春期の個人的な小さな問題の数々を打ち明けることができる姉妹がいなかったし、母親に対してそうすることなど、不可能に思えた。他方で、この母親は、娘に実際的な教育をすることが不可能であっただけでなく、教育することを実際は望んでもいなかったように推察できる。彼女は、何よりも熱愛する息子に関心を寄せ、実際、マルグリットは邪魔だったのだ。《貧弱な少女の身体》(……)《みっともないあの痩せた姿》の子供が、彼女のように、母親のように女になっていくだろう。そして母親はおそらく、思春期の難しい時期、そして若い娘というもっと難しい時期を通って行く娘を手助けしようとは、面倒を見ようとは、思わなかったのだろう。彼女はその時代にもう戻りたくはなかった。それは彼女に、若いときを思い出させるだろう。彼女の若い時代は、すべてを自分の中に秘めて、彼女自身でやっとのことで、彼女に出来る限り、切り開かなくてはならなかったのだ。なぜなら、その時代、そういうことについて、たとえ実の母に対してさえも、話すことは無作法なことだったのだ。個人的な問題の分野で、謹みは厳格だった。母は知っていた。女性にかかわるすべてのことは、常にタブーであると。それで、彼女はマルグリットにも同じ方法で振る舞ったのだ。デュラスは、決して、少なくともこの小説の中では、その母との、例えば性に関する、開放的で自由な、本当の会話、というものを想起していない。娘が中国人の愛人になってからは、もっと少なくなる。それでも、この点に関して、とても早熟で、こんなに知性的なこの娘は、このことについて母親と話し合うこともできただろうに……。
しかし、マルグリットが母を当惑させたのには、まだほかの理由があった。娘との本当に親密な関係は、母の姿を剥き出しにし、母に疑いなくその人生における挫折を気づかせるのだ。娘は、彼女の母親がすべてを疑うようになったことを知っていたように見える。《この結婚を、この夫を、この子供達を》。実際、母は本当の愛を一度も知らなかったのだ。彼女はいまだかつて本当に愛されたことも愛したこともないのだ。《繕ったストッキングをはいた女の幻像が部屋を横切った。女はついに子供のような姿をあらわす。息子たちはすでに知っていた。娘は、まだ。彼らは妹と一緒になって母の話をすることはけっしてないだろう、自分たちのもっている知識、自分たちを母からはなす知識、あの決定的な、最終的な知識、母親の子供っぽさについての知識のことを。母親は悦楽を知らなかった》。
それでも、世界のすべての若い娘たちと同様に、すばらしい理想的な愛のイメージを彼女自身育まずにはいられなかった……《やつれた顔》《身なりにうかがわれるある種のだらしなさ》そして《眼差のけだるさ》の中で、それは消えうせていた。
しかし、母は、やっと十五歳で、そのかぼそい身体にもかかわらず既にこんなにも熟れて、女である娘にたいして、ひそかな羨望を感じていたのかもしれない。マルグリット自身こう述べる。《欲望のための場所がわたしのなかに用意されていた。十五歳で悦楽を知っているような顔をしていた。でもわたしは悦楽を知らなかった。そういう顔立ちがじつにありありと見えていた。母でさえ、それを見たはずだ。兄たちには見えていた》。
母は、決して娘と愛について話さない、しかし、彼女の犠牲にされた、そして彼女の人間としての一番奥深いどこかにまだ巻きついていた女らしさが、突然、恐ろしい力をともなって、《狂気を爆発させ》、目覚める。彼女は、ある日、娘が男性と出会ったことを感じ取ったが、それは、不名誉に対する恐れと同様に、ある種の嫉妬の大変な発作でもあるのだ。《ショロンで何が起こったか、母は何ひとつ知らない。でも、母がわたしをじっと観察している、何かあったらしいと気づいていることは、わたしに見てとれる》(……)《母の人生に突如訪れた激しい不安。娘がいまこの上ない危険を冒しつつある、断じて結婚なんかしない、社会のなかで位置なんか定めない、社会をまえにして徒手空拳のまま、身をもちくずし、孤独でいるという危険を冒しつつある》。そして、ヒステリックな母は、上の兄の同意の下に、娘を叩く。
したがって、十五歳まで、マルグリットは、母親の危機的状況と、二人の兄たちのけんかと恐ろしい孤独という息詰まるような環境で、ただ、書くという飽くことのない執拗な望みだけによって耐えて、生きていたのだろう。しかし、彼女と母親の間には、常に、上の兄の意向が存在している。彼女は、決して母親との〈普通〉の関係、愛と拒絶、対立と愛情の関係から生じる自己を形作ることができない。要するに、親密さが耐えがたくなって初めて、彼女はある日、そこを去って、《思い通りに生きる》力を得ることもできるのだろう。そういう訳で、彼女はこの小説の最初の頁でこう述べる。《わたしの人生の物語などというものは存在しない。そんなものは存在しない。物語をつくりあげるための中心などけっしてないのだ。道もないし、路線もない。ひろびろとした場所がいくつか、そこにはだれかがいたと思わされているけれど、それはちがう、だれもいなかったのだ》。
彼女がついに、生まれたこと、自分という存在を見いだしたという感情をもったのは、メコン河の上で十五歳半の時だった。それは、しかし、彼女たちは互いに影響しあうことがなかったので、母親からの解放によってではなく、ただ彼女だけの、彼女自身の力によってであった。《まさにこの旅の途中で、あの映像ははなれて浮かびあがったのであろう、あの映像が全体から取り出されたのであろう》(……)《写真を一枚撮るということがありえたかもしれない》(……)《しかし、それは写真には撮られなかった。あまりにささやかで、写真に撮ろうという気持ちをそそらぬ対象だった》。デュラスはここで、どれほど彼女が母親にとって重要ではなかったかを、あるいはもっと正確にいえば、どれほど彼女の母親が、彼女が《つくられる》ことを手助けしなかったかを、苦しげに強調する。そうして、それは起こった。《映像だけがはなれて浮かびあがり、全体から取り出されることは現実にはなかった》(……)《この像がつくられることはなかったというこの欠如、まさにこの欠如態のおかげで、この像は独自の力、ある絶対を表現しているという力、まさしくこの像の産出者であるという力をもっている》。
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それで、妹は、その〈小さい兄ちゃん〉に執着する。彼女のすべての力をもって。彼女は、彼に〈とてつもない愛情〉を抱く。多かれすくなかれ、二人で放っておかれたので、彼らの二歳だけの年齢差は、ほとんどすべての彼らの生活、とりわけその遊びを分かち合わせた。ボーロが兄に対する母親の愛をどう思っていたかはわからない。彼女はまさにこう言った《苦しみ方も知らないんじゃないかと思われたほどだ》、しかし、それは確かだろうか? いずれにしても、彼女は上の兄から下の兄を守ろうとしていた。ポーロは弱く、すべてを恐れていたから。そしてもしデュラスの人生において、実際、近親相姦があったとしたら、彼は、彼女が永遠に愛し続ける最初の男性であっただろう。だが、ポーロは妹をどのように愛したのだろうか? この〈情熱〉は、相互のものであったのか、それとも一方的なものだったのか? デュラスは、『愛人』のなかで、この点については明確にしていない。彼女は、ただ弱い男たちへの愛着をのぞかせているだけである。彼女の優れた作品の一つである『ラホールの副領事』の主人公もまた、あまりに繊細すぎて、美しいアンヌ=マリー・ストレッテルをプラトニックに愛することしかできない男だった。
ポーロは、確かに、他人に周到に隠していた家族の中のつらい生活を耐えるために、マルグリットの大きな助けであっただろう。《こうしたことすべてについて、わたしたちは外では何も言わなかった、わたしたちはまず、うちの生活の原則をなすもの、貧困については黙っているということを学んだ。それからまた、ほかのすべてについても、打ち明け相手 ――こんな言葉は途方もないように思えるけれど―― として最初に登場してきたのが、わたしたちそれぞれの愛人であり、まず白人居留区の外で、サイゴンの街でわたしたちの偶然出会った人びとであり、次いでフランス航路の商船で出会った人びと、汽車で出会った人びとであり、ついでどこで会った人びとでも、となっていく》。妹がこの兄との間にもつ境遇の共通性は、彼女が母に対して感じていたすべての愛情を彼に振り向けようとする。しかし、彼女の母は、お気に入りの息子のことしか考えていなかったので、それに気づかなかった。この愛はまた、彼女に生を与えたその人から、受けることを絶望的にもマルグリットが望んでいたものだった。その感情の中で二重に妨げられた若い娘にとって、ポーロは、彼女の内面の均衡を少しでも守ることができるように、幸運にもそこにいた。
だが、それにもかかわらず、彼女は上の兄により似通っているように見える。彼女は彼を嫌っていた。彼女は嫉妬によって、彼を殺したいと思った。彼の後には、彼女の母の心の中にもう場所はなかったから。しかし彼はポーロとは全く違っていた。彼は、皆に強制することを知っている。例えば、家族みんなが、中国人からレストランに招かれたとき、全員が上の兄の態度に従った。《上の兄が口をきこうともせず、わたしの愛人の存在を無視する態度は、まったく見事といっていいくらい、そっくりそのままこのような確信に発している。わたしたちはそろって、上の兄の態度をモデルにして、この愛人に対している。わたしも、兄たちのまえでは、彼に話しかけない。家族の見ているところでは、わたしはけっして彼に言葉をかけてはならないのである》。そしてもう少し後で、彼女は愛人についてこうまで言うのだ。《上の兄のいるところでは彼はわたしの愛人であることをやめる》。(……)《いわば火傷をした痕になってしまう。わたしの欲望は兄に服従して、愛人を締めだす》。マルグリットはその悪魔的な兄を恐れたが、その激しい恐怖は彼女に影響を与える魅惑と見合ったものだった。人は、ポーロの《神の顕現した身体》、その完全な無垢から遠く離れている。ここで、妹の心に侵入するのは、悪の抗いがたい力だ。その上、彼女はポーロや愛人とは踊るが、決して上の兄とは踊らないことを明言する。《彼と踊ったことは一度もない。いつでも、わたしの気持の邪魔をする、ひどく気がかりなことがあるからだ、――危険じゃないかという危惧、兄があらゆる人びとに及ぼすあの不吉な魅力がこわい、わたしたちの身体が近づくのがこわい》。
この兄には、マルグリットをひきつける何かがあった。彼はすべての過度の行為を身につけていた。阿片を吸い、母から盗み、妹とポーロをこわがらせた。彼はハンサムで、魅了することを知っていた。だれも彼に逆らえず、彼にひれ伏していたのは、彼の母だった。家の中で、彼はまるで神のようだった。勿論マルグリットは彼女なりのやり方でしたのだけれども、彼は将来の彼女のすべてを予告しているのではないだろうか。もし、この小説を自伝あるいは、作家の実際の人生から多くの着想を得ているものと受け取るならば、彼女は、とても若くして、愛していない金持ちの男の世話になるままでいて、彼女のすべての家族の面倒を見ることまで彼に頼んだのだ。そして、ずっと後に、パリで、アルコールにふけり、狂気すれすれになり、作家の人生の〈大いなる砂漠〉を横切って行く。既に年とって、彼女の崇拝者の一人との最後の関係に生きるが、そこで彼女はそれでもやはり、彼の同性愛の関係に嫉妬するのだ。彼ら二人、上の兄と彼女は、自身の内にある運命を担っていて、存在論的重さはその肩に重くのしかかる。ポーロの純粋さがマルグリットに衝撃を与えたとするならば、上の兄の邪悪さが彼女に呪いをかける力はそれよりも大きかった。上の兄は、明らかに、ある種の彼女の精神の反映と、十二才のときに書くということに人生を捧げようと決めた彼女にとって興味深い材料とを体現している。
ついに、マルグリットは、メコン河の上で言う、《わたしはよくあの映像のことを考える、いまでもわたしの目にだけは見えるあの映像、その話をしたことはこれまで一度もない。いつもそれは同じ沈黙に包まれたまま、こちらをはっとさせる。自分のいろいろな像のなかでも気に入っている像だ、これがわたしだとわかる像、自分でうっとりしてしまう像》。彼女は、彼女自身が作り上げたということもできるだろう、しかし実際は一人ではない。彼女は、《映像が全体から取り出されて、はなれはしなかった》と考える。私たちの考えでは、彼女は、〈全体からはなれて〉、母親からすっかりはなれていた。しかし、鉛色の光の陰気さ、不透明さの中にいる母親は、ただ、その娘に、意気消沈させる欲求不満、愛情の欠如という恒久的な感情を成長させるに至るのだ。マルグリットは母親の〈ネガ〉から、母親――彼女が何年もの間となりあっていたある種の影から、はなれた。そして、彼女が中国人に近づくままにさせたとき、彼女には、兄弟たちや母との恐ろしい生活から学んだことのすべてによって、その愛情関係を引き受ける準備ができていた。渡し船の上、閃光のようなもののなかで、母親が彼女を憔悴させる力を押し返す並外れた快挙を成功させるに充分な強さを持っていることを、彼女は不意に悟った。彼女を吸い込み、破壊するだろうこの力は、彼女を、いつか、この衰弱させる影響力による取り返しのつかない痕跡を持った人間にしたかもしれなかったのだ。
疑いもなく、マルグリットは途方もないエネルギーを内に秘めていた。
引用は、『愛人』清水 徹訳
『結婚』高畠 正明訳
『木立の中の日々』平岡 篤頼訳
但し、本稿の論旨により、一部変更した。
【管理者の注】
LA MORT DU PETIT FRERE (Dans l'AMANT de Marguerite DURAS)の日本語訳。『水路』6号(2007年6月30日発行、大林律子編集代表)に掲載された。ここへの再録を快諾された訳者の内田泰子氏に感謝する。加藤多美子氏、橋本印刷の雄澤氏にも御協力戴いたことを感謝する。
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