2011/01/30

追悼 エレーヌ・グルナックさん

                                                                       photo by a student at SFC, Keio University Shonan Fujisawa Campus                                             



   大 林 律 子
       (Rituko OBAYASHI)



 「水路」の編集委員であり、執筆者の一人であり、同時に私にとっては、24年間に亘るフランス文学の師であり、ヨガの先達でもあり、友人でもあったフランス人女性、エレーヌ・グルナックさんが、2010年10月31日、早朝、息を引き取った。
 享年68才、日本に来て33年になろうとしていた。
  その日の夜明け近く、見廻りの看護師が、ベッドの上で意識を失っているグルナックさんを発見した。
  連絡を受けて駆けつけた誰もが、その生前には間に合わなかった。
  私が病院に着いた時、すでに別室に移されていた彼女の顔は、化粧を施されていたせいか、頬はほんのりと赤く、高い鼻に、やっと最近もとどおり伸びてきたと喜んでいた睫が長く黒い影を落としていた。美しい死に顔であった。手を握り、額に触れると、まだ暖かかった。

  6年前、2004年のことである。私は、ふと、同人雑誌のようなものを出したいという突然の思いに駆られたのだった。しかし、最初はなぜか個人雑誌のようなものしか思い浮かばなかった。かなり長い間フランス文学を、とくに数年前からグルナックさんの指導のもと、プルーストの『失われた時を求めて』全巻完読を目差して仲間と読み続けてはいたものの、私はその時、ある種の欲求不満に陥っていたに違いなかった。私のなかに周期的に生まれてくる欲求不満、日本語への渇き、それが限界に差しかかっていたのだろうか。
  人生のかなりの時間を、<読む>という行為に費やしてきた。特に最近は、長々と難解な、しかしその魅力にはまって、足が抜けなくなったプルーストの文章を、四苦八苦しながらも読み続けている。しかし<読む>という行為だけでは昇華できない歯がゆさが必ずあとに残る。表現する場が欲しい。自分はただの愛読者の一人に過ぎないけれど、読んで、考えて、書くことによってしか、理解できないこともある。というのがその当時の私の気持だった。もちろん、プルーストについてだけの問題ではない。日本語で思いを書きたいという欲求は、おそらくもっと強かった。
  しかし、自分ひとりの力では無理だと思った私は、グルナックさんに、一緒にやってほしい、参加してくれないかと頼み込んだ。私の気魄に圧されたのか、しばらく考えていた彼女の答は「ウイ」だった。あるいは、彼女自身のなかにも、書きたいことを、書きたい時に、書きたいように書くための ―ある一定のレベル以上のものという基準はあるにせよ― 開かれた雑誌というあり方に賛同し同調する何かが生まれていたのかもしれなかった。しかし、フランス文学の愛読者、愛好者の集まりだけでは、いかにも心細かった。もっと強力な執筆者が必要だった。グルナックさんの次に参加を頼んだのが、昔の同人雑誌仲間の橘正典さんだった。
  今からもう50数年も昔になろうかという頃、京都大学の文学部の学生たちを中心にした文学グループがあった。「対話」という同人雑誌が彼らの表現の場だった。高橋和巳や小松左京がそのなかから生まれ、後に梅原猛氏も同人として参加していた。私はほんの片隅にいただけだったが、その頃から橘正典さんは有力な書き手で同時に「対話」の編集長だった。
  橘さんの参加承諾を得て、結果的に、日本語で達意の文章が書ける人たちへと縁が拡がっていくのだが、一方で、フランス文学系の人々やフランス人、フランス在住の人々への縁が確かなものになるためにはグルナックさんの存在は大きかった。プルーストの講読に参加していた仲間が、フランス人やグルナックさんの原稿を翻訳し始めたのは、今まで隠し持っていた彼らの力を彼女が後押ししたからに他ならない。
 「水路」という雑誌のタイトルについても、グルナックさんに負うところが大きかった。
  最初、私はフランス語の名前の方がいいかもと思って、少しきどって、「エクリチュール」とか「リュミエール」とか、あるいは「ミネルヴァ」などのローマの神の名前を挙げたのだったが、そうしたことばは雑誌のタイトルとしてすでにどこかで使われている。本来、日本人が日本語で書くのだから、奇麗な発音で、心を惹きつけるイメージをもった覚え易い日本語の方がいいと、当然のことを言ったのはグルナックさんだった。
  これは結果論だが、「水路」という、おそらくそれほど手垢のついていないこのことばを辞書の中から見つけ出した時は、ほっとした。
 「水」という、融通無礙、自由自在に形を変え、どこへでも流れ、浸透していくものの特性は、人と人との感性やことばを繋ぐのに、最も相応しいイメージを持っている。「水路」というこの雑誌の命名にもグルナックさんの力が大きく働いていたことをここに書き留めておきたい。


  去年の5月、ゴールデンウィークの終わり頃、私は、グルナックさんから体調の不良を打ち明けられた。
  今まで経験したことのない胸やけと腹部の膨満感があるという。
  それが、卵巣癌の、すでにかなり進んだ症状であったことを知るのに、そう時間はかからなかった。癌性腹膜炎が起きていたのだった。増えてくる腹水のため、息をするのも苦しいと、プルーストの授業のあと、彼女は訴えた。卵巣癌はサイレント・キラーと言われ、多くの場合、余程進むまで無症状で、症状が出た時はすでに手遅れだという。
  そんな状況のもとでの抗癌剤、手術、様々の免疫、代替治療の一喜一憂の闘病生活が始まったのだった。そして、今年、10月31日に遂にそれは終わった。1年と6か月の希望と絶望の交錯する壮絶な闘いの日々であった。

  グルナックさんは20代からヨガをやっていた。若い頃、本当はバレリーナになりたかった。そしてもう一つのなりたかったものは現代物理学の研究者、そういう話は、彼女と知り合って24年の間に何度か聞いた。バレエの訓練を始めたのが10代になってからと遅過ぎたのと、経済的事情もあって諦めた。でも私、舞踊家の脚をしていると言われていたのよ、と彼女は一瞬、昔を懐かしむような表情のなかに少し羞じらいを見せて笑った。バレエの訓練をやめたのは、それだけではなく、ライバル同士の苛酷な競争と、修道院生活のような節制と訓練が自分には合わなかったからだとも言った。
  そこから彼女はヨガへの道を自分自身で探り始める。誰に教わることもなく、ほとんど独学で訓練を続けた。グルナックさんがなぜヨガを選んだのか、その理由はわからないが、彼女を深いところから衝き動かしていた無意識の欲求がそうさせたに違いなかった。
  日々、ひたすらヨガを続けていくと、いつの間にか、ふっと自由になっている自分に気がつく。ヨガは現代人が思い描いているような健康法ではなく、解脱のための行法だからだ。この世の執着や欲望を洗い落とし、脱ぎ捨てることで、日々が生き易くなる。グルナックさんは当然そのことを知っていたはずである。
  縁あってヨガを教えることになった禅寺の道場で、彼女は、私たちには到底不可能なあらゆるポーズを楽々とやってみせた。
  ヨガをやっていると楽しくて、いくらでも、何時間でも続けられると、彼女はいつも満足そうにそう言って、私たちの眼を丸くさせるのだった。
  独りで無心にヨガをやっている時、グルナックさんは、肉体という不自由な限界から抜け出て、見えない世界に飛翔していたのだろうか。
  あるいはそれは、自分がこの世に生まれてきたこと自体が不本意なこと、この世のことすべてが自分の心身にそぐわない重荷なのだと、彼女が生まれながら感じていたらしいペシミズムから解放される一瞬だったのかもしれない。
  グルナックさんのそうしたある種の絶望、現実嫌悪の感覚に気づいていた人は、そう多くなかったのではないかと思う。彼女は感情や気分に支配されるようなところを人に絶対見せなかった。その、よくコントロールされた明るいペシミズムは、常に、彼女の表情を清々しく冷静に保っていたから。

  フランス語、フランス文学の授業において、その指導力は抜群だったし、あらゆる質問に期待以上の豊かな反応が返ってきた。明晰な発音、ユーモアもあった。彼女自身が授業を楽しみ、生徒は彼女の人間心理や存在についての洞察力に心を動かされ、文化的なバックグラウンドの広さに驚き、たったひとことのことばの裏に隠された真実を見抜く繊細な感受性に舌を巻いた。
  それらは、文学を教える以上、誰にとっても欠くべからざる能力ではあるが、私は自分を顧みて、24年間のグルナックさんの授業に退屈したことが一度もなかったことに、今更ながら驚いている。彼女自身が昂揚し、生徒は時間を忘れた。
  ヨガと文学の講読、この二つがグルナックさんの本領だった。それはまた彼女がこの世の憂さを忘れることのできる束の間の至福の時間だった。この二つを共にした私はそう思っている。

  グルナックさんは1941年11月22日、フランス、オーヴェルニュ地方、ロゼール県で、チェコ人の父とポーランド人の母との間に生まれた。生地は、中央山塊(マシフ・サントラル)と呼ばれるフランスで最も山深い高地である。
  父親が鉱山技師として招かれた人とはいえ、言わば、第一次世界大戦後の移民の子であり、子沢山のなかの一人であった彼女は、あらゆる意味で、決して恵まれた豊かな環境で育ったわけではなかった。生きていくためには早くから自立し、働かなければならなかった。その意識は強かった。
  パリ大学ではロシア語を学ぶが、ロシア語教師の職が地方にしかなかったため、パリに残り、図書館で働くことになる。パリで働きながら、東洋語学校で森有正などに日本語を学んだ。私が聞いたところによると、半年で森鴎外を読み始め、森有正が当時関心をもっていたせいか、道元の『正法眼藏』の一部を読むことになる。これは驚きであるが、彼女の仏教への関心は、こうしたところから始まったのかもしれなかった。実は、彼女は発病前に、次の「水路」のエッセイのテーマとして、道元を考え、『正法眼藏』のフランス語訳を再読していたのだった。
 こうして1977年、彼女は留学生として日本にやって来ることになる。

  私が初めて横浜の朝日カルチャーセンターでグルナックさんに出会った時、彼女は40代半ばだった。ストレートな黒味を帯びた栗色の髪とほっそりとした体型のせいか、ヨーロッパ人という印象を強くもたなかった。彼女はピンクのブラウスに、姉から貰った自分のたった一つのアクセサリーだと言って、金の鎖の細いネックレスをつけていた。
  その後、10年、20年と経つにつれて、グルナックさんの服装は、ピンクのブラウスとも、金のネックレスとも縁のない、チャコールグレーや紺のTシャツにGパン、あるいはニッカーボッカー風のズボン、紺のスカート、冬になれば、その上に地味なカーデガンという、まるで禅僧の作務衣のようなシンプルな色彩と形のものに変わっていった。
  しかし、ヨガで鍛えられた体型は若い頃と少しも変わっていないというし、シミ一つない透明な肌は年齢を感じさせなかったから、彼女が60才をとっくに越えていると知ると、人は、それ本当  と驚くのが常だった。
  余分な女性的なものを削ぎ落とした彼女の雰囲気に、どこか中性的な感じがする、と言った人は何人もいるし、亡くなるまで一生独身だったから、男性を愛さなかったのかと思っていた人もいたが、そうではない。美しい人だったし、心優しい人だった上に、話し出すと奥が深くて楽しかったから、多くの男性からも女性からも愛された、ただ、結婚という形式は彼女の望むところではなかった。結婚に幻想や夢をもっていなかったし、束縛されることも好まなかった。それに好みも難しかった。それより、執着が自分をも相手をも苦しめることを、現実の愛のなかで知ってしまったことは大きかったのではなかったかと私は思っている。
  マルグリット・デュラスは彼女の最も愛した作家であるが、デュラスの作品で描かれる性愛についても、プルーストで描かれる同性愛についても、その他多くのフランス現代文学で描かれる様々な愛の形を、その作品のなかに分け入って、楽しみながら読むことを教えてくれたのはグルナックさんだった。独身であったけれど、この人が異性との愛のことを深く知らない筈はない、という確信のようなものが、簡単に読めると思われているデュラスの『愛人(ラマン)』の、ひとこと、ひとことのフランス語のニュアンスを指摘する彼女のことばからは伝わってくるのだった。
  プルーストについても同じだった。贅沢や華美や、女性が着飾ることには全く縁のなかったグルナックさんだったが、彼の描いた世界が貴族やブルジョワの社交界やホモセクシャルを描いたものだから、などと言って偏狭な批判をするようなところは全くなかった。プルーストも彼女の大好きな作家だった。小説のフィクションが、現実以上の真実を描き得ることを、普遍的な真理を提示することを、理屈でなく、読みながら自然に感じさせる能力があった。
  グルナックさんは「書くこと」に多くの情熱を注いだ人ではなかったけれども、「水路」に掲載されたデュラスについてのエッセイ二点と、エッセイのように装われた表題の作品「ロル・V・シュタインの書かれなかった日記」(「水路・7号」)は、彼女にしか書けなかっただろう秀作である。デュラスの作品とグルナックさんの合作のようなこの小説は、彼女のある時期の精神状況と失われた愛の一端を伺わせるもの ―彼女はそれを否定していたが― と言ってもいいのではないかと私は思っている。

  グルナックさんは、私たちのイメージのなかでは、最も病気とは縁遠い人であった。私の記憶でも24年間、一度も授業を休んだことがなかった。自分でも疲れを感じたことはほとんどない、と言っていた。ヨガをやっているから―。それが過信になっていたのだと、発病後、私たち彼女を知っている者は口々に言い合った。
  食生活には余り意を払っていなかった、と言うより、食べること、眠ることという人間生活の基本を支えることがらに、ほとんど関心がなかった。黒パンとチーズとコーヒーと果物があれば、それで十分だと思っていたようだった。それと少しの野菜と。ベジタリアンだと称していたが、自分では滅多に料理を作らなかった。人と一緒なら食べられるけれど、一人では食べる気がしない……と。
  睡眠時間はつねに2、3時間、長くても4時間ぐらいだった。夜こそ自分の最も充実し、集中できる時間、自分のことを「夜の女王」と嘯いていたので、改める気配はなかった。
  その上、10年ほど前から、年令に逆らうように、益々仕事が増えていった。フランス文学を教えられるかけがえのないフランス人 ―そういうフランス人は日本には稀にしかいない― であったから、頼まれればほとんど断らなかった。大学、カルチャー、個人レッスン、個人的な仏語訳の仕事、休息の時間はあるのだろうかと首をかしげるほどの忙しさだった。
  どうして身体の声が聴こえなかったの?と発病してから私は何度か問いかけたのだが、返ってくるのは、少しぐらい辛くても辛抱していると、次第に感じなくなってくるから……。という珍しく自信なげな答でしかなかった。それは感受性が麻痺していたということではないの?と、私も、今更言っても仕方のないことばを繰り返すしかなかった。
  彼女のことを人は冗談で宇宙人だと言い、自分でも半ば本気でそう思っていた。魔女だとも自分で言い、人もまた冗談でそう言っていたが、人間が、「うつしみ」である以上、生きている間は肉体を超えることはできない。彼女にとって、癌という病は、そのことの残酷な証であったかもしれない。

  死ぬことは全然恐くない。とみに痩せの目立つ顔で腹水を抱えながら、グルナックさんは私にそう言った。生きていることも、死んでしまっても、実は同じことなのよね、と彼女は以前からよく私に言っていたものだった。それをどのように受けとるかは人それぞれだが、この世と死後の世界は繋がっているからとも、死ぬということは、死者が生者によって感覚的に捉えられない存在になっても、やはり同じこの世にいることだからともとれる。あるいは、生きている人間も、死んで魂だけになってしまった死者も、本来は同じ生命エネルギーのそれぞれの在り方であり、生者とは、そのエネルギーが人間という身体に宿っているだけの存在なのだから同じことだ、と言いたかったのだろうか。私はこのように様々に考えてわかったつもりで頷いていたのだったが。
  しかし、死が彼女の射程距離に入ってきてから痛感したのは、生命(いのち)というものは、本能的に、「生きたい、生きよう」という方向に人を仕向ける力そのものなのだ、ということであった。グルナックさんの生命力もこのように働いた。死の2日前まで彼女は歩くためのリハビリをしていたのだった。
  だが一方、人為の力では及ばないなにかが、人の生死を支配している。人は自分の運命を生きるしかないという厳粛な事実をも、知らされることになる。

  今まで自分が書いてきたことを読み返すと、グルナックさんの表向きの面ばかりを描いてきたように思うが、彼女が何年にも亘って近所の野良猫を愛し、猫たちからも慕われ、彼らの病気の治療費や餌代に、自分の生活費以上のお金をつぎ込み、深夜まで面倒を見ていたこと。不思議なことが大好きで、難解な現代物理学の本や、イスラム神秘主義の本を読む一方で、占いに熱中し、カードや振り子を手放さず、別に信じているわけではないのよ、と言いながらも、時には霊媒や霊能者、催眠術師のところへ出かけることもあったこと。無類の映画好きで、信じられないぐらい多くの映画を、気に入ったものは何回も繰り返し見ていたこと。これらは、彼女の生活を豊かにした欠くべからざる悦楽であった。人は誰しも現実を堪えうるものにするために、いくばくかの狂気を必要とすると、プルーストも書いている。
  グルナックさんは一瞬一瞬を全力を尽くして生きた。十分生き切ったのではないか。そう思うと、折に触れて哀しみはこみ上げてくるが、そこに虚しさはなかった。

  グルナックさんの葬儀は11月2日、神奈川県藤沢市の曹洞宗長福寺で行われた。彼女が9年近く、月2回ヨガの指導をし、一時は坐禅をもしていた禅寺である。

  その日は、それまで何日も続いていた曇りがちの日々が嘘だったように晴れ上がり、朝から秋の冷気を感じさせる透明な光が、地上のものすべてを洗い清めるように降り注いでいた。
  仏式でもキリスト教式でもなく、教派、宗派を超えた葬儀が住職の先導で始まり、最後の瞑想の最中、寺を囲む森や木立から気の流れが鳥の声と共に心身に流れ込み、彼女の闘病生活を支えた友人たちや、教えを受けた生徒たち70人近くの会葬者が参列する会場が、完全な静寂に包まれた時、グルナックさんの魂はその祈りと共に、永遠の宇宙の光のなかに旅立っていったのかもしれない。

 2010年12月




【管理者の注】
 この追悼文は『水路』13号(2010年12月25日発行、大林律子編集代表)に掲載された。ここへの再録を快諾された大林律子氏、データを提供された橋本印刷の雄澤氏に感謝する。
 大林氏は、2009年5月より過酷な闘病に入ったエレーヌ・グルナックを支えた友人たちのひとりである。見返りをまったく求めることなく、18か月のあいだ、徹底的な献身によってグルナックの治療の現場に添い続けた。よりよい治療を飽くことなく見出そうとする努力と研究心は、友人たちのあいだでもつねに際立ち、グルナックの闘病への意志を大きく支え続けた。エミリー・ディッキンスンに、「そしてひたすら自分の天使の性質のために…」という章句があるが、グルナックの闘病中の大林氏は、まさに「天使の性質」の顕現そのものだった。
 このブログに収録しているグルナックの文章の多くも、大林氏の慫慂のおかげで書かれ、残されることになったものである。

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