à Chidorigabuchi photo by Alain Colas |
エレーヌ・セシル・グルナック
駿 河 昌 樹 訳
フランソワーズ・サガンが死んだのは、二〇〇四年九月。私にとっては、彼女のことを見直すよい機会となった。フランスや他の国々の作家たち、とくにプルーストの世界にすっかり夢中になっていて、書架のいちばん上に仕舞い込んであったサガン。当分、読み直すことはないと思ってきた。『悲しみよ、こんにちは』や、他の一つ二つの小説をのぞけば、本当に何年もサガンには触れないできたのだし。それが今、ざっと見てみると、作品とか伝記の類とか、古い新聞や雑誌の中に見つけたインタヴューとか、彼女に関わるものならなんであれ、ずいぶんと興味を惹かれるし、親しみも覚えてくる。
学生の頃、パリで見る機会のあった彼女の劇作品は今でも忘れがたい。絶品だった。とっても繊細で、深刻でもあった劇。けれども、そこに混じり入っていた明晰さは、少しも重くなかった。どんな時でもそんなふうだった彼女。生の中の諸々の真実を強調し過ぎないようにと、ちゃんと心得ている。なにかを断定しようにも、どんな真理もあまりに相対的だと知り過ぎていた彼女だから。生の現実についてのこういう理解は、ちゃんと作品に描きこまれている。もちろん、けっして言い募ったりはしない調子で。
彼女については、いろいろと論じられてきた。いわく、「幻滅」の作家であるとか、十九五〇年から六〇年にかけての「世紀半ば」の白けた青春をもっともよく表わしているとか。ブルジョア化して死ぬほど退屈だったフランスでは、あまりに彼女は自由奔放だったものだから、当時、あの生き方はスキャンダラスで衝撃的でもあった。こんな彼女について、一体なにを語ったらいいのだろう。フランソワ・モーリアック言うところの、この「小さな聖なる怪物」について。伴奏にはエリック・サティあたりのピアノが理想的な、モノクロームの美しいセシルのメランコリーを、あんなにシンプルに、それでいて巧みに描きおおせた彼女。だれにも真似できなかったのだから、きっと伝説になっていくに違いないこの女流作家について、一体なにを?
率直なところ、十二分にサガンを知っているというわけでもない私だから、彼女について正確で妥当な意見を表明するというわけにはいかない。だから、ここで私が語れるのも、せいぜい、一読者のたんなるコメントといった程度のもの。たしかに彼女の作品はたくさん読んだし、読み返したりもしてきた。それなのに、今でも彼女についてはぼんやりした印象しか持っていない。格別気に入ったところを指摘しようとしても、なかなかうまくいきそうもない。どうしてこうなのかわからないが、ひょっとすると、『悲しみよ、こんにちは』だけが忘れがたく、ありありと心に刻まれて残っているからかも。彼女が後になって書いた作品がどんなにいいものでも、それらはあまり関係なくて。他の読者たちと同じように、私だって彼女が好きだし、私なりに理解している。そんな私の理解のしかただって、よかろうが悪かろうが、結局のところはどうでもいいのだ。作者が言いたいことなんて、本当にわかるとは誰だって主張できないのだし、言葉の力に騙さる人だっていないし。言葉というものは、いつも、どこかで、それを用いる者の意図を制約してしまうのだ。
そんなこんなのためか、サガンの場合、処女作の中にこそ最良の彼女自身が出ていて、彼女の人格的な本質も、そこでこそ理解されうるように思う。十九歳で書いたというのに、あそこにはすべてが投入されているように見える。物事の表面をさっと突き抜けていくように活発な知性の彼女が、どんなふうに、不謬の確かさで人生を見ているか。そういったことがよく見てとれる。彼女のものの見方はとても鋭い。それが、非常に感じやすい優しい調子で表現されているものだから、なおさら心を打たれる。
この小さな傑作ほどには、これ以降のサガンには、私はあまり惹かれない。彼女の書くものは成熟もしたのだろうし、生や存在についての考察においても進歩したのだろうけれど。もっとも、こういう点については、いつか、意見は変わったりするかもしれないけれど…
『悲しみよ、こんにちは』は、言ってみれば、小さな宝石。ポケットに忍ばせておいて、ちょっとした時に開いてみるような薄い本で、ホームで電車を待っている時とか、映画館の列に並んでいる時とかに再読しはじめると、内容もかたちも最高に見事なものだから、もう止まらない。そんな本のひとつだ。内容とかたちは始めから終わりまで緊密に絡みあい、互いの価値を高めあっている感じだし、ユニークなカデンツァのリズムが生まれ出てくるようで、読者は抵抗できずに、最初の文から最後の文に到るまで引き込まれていってしまう。
とはいえ、そこでは、すべてが古典的。だいたい、物語からして二部構成になっていたりする。第一部。生活を楽しんだり、理想的な父親とともにやりたい放題をしていると、本当の家族を三人で作り上げたがっているアンヌのおかげで、謹厳実直とか定時の食事とかを押し付けられかねないとわかってくるセシル。第二部では、大好きな父親を奪おうとするアンヌの追い出しに、セシル、まんまと成功。
「このヴァカンスが、父の言うほどシンプルにいくかどうか、けっこう微妙」。セシルがこう考えてしまうとはいえ、はじめのうちはまだ、波風は立たない。けれども、維持されうるにはあまりに上っ面だけで構築されている感のある彼らの雰囲気の中、裂け目はすぐさま露呈してくる。三人の女たち(言い忘れていたが、父親にはこの時、エルザという愛人がいる)に取り巻かれていたらよい結果になろうはずもないのに、無責任もいいところで、まったくそれを意に介さない父親のせいなのだ。で、ひとたびメカニズムが始動するや(なにがなんでもアンヌを打ち負かそうとセシルが決意した時だ)、避けられなくなっていくこのドラマの証人となるのは、唯一、太陽と海と空の三つだけ。揺らぐことのない、素晴らしい証人たちなのだが、人間の狂気の前では無力でしかない。登場人物たちについて言えば、だれもが親切で魅力的。とはいえ、ひとたび自己愛や自分のエゴイスムを犠牲にしなければならなくなれば、話はまた別。そういう意味で古典的。
こういうわけで、もしサガンのあの文体がなかったなら、結局のところはありふれた、すでにどこかで読んだことのあるような内容ではある。けれども、文体のほうは、本当に、文句のつけようもない。十九歳の作家の卵が、たったひと夏で、遊び半分やそこらで書いてしまったにしては、『悲しみよ、こんにちは』の文体は、信じがたいほど確かな本能で選ばれている。人物たちやその行動の描写にも、彼らが成長していく風景のそれにも、無駄な修飾的な言葉は見出されない。簡潔な文体ながら、同時に非常に濃密なので、すべて、こちらの感性に永遠に刻まれていくようで、素晴らしいものを目の前にしているということが読者にはよくわかる。長くて、美しい自由詩のようなもの。たいてい、文はとても短くて、読者の目には澄んだ軽快な水のように流れていく。小説の最後は悲劇的で、それをサガンは見事な節度でまとめ上げていくのだが、そこへ向かってどんどんと内容の深刻さが引き立っていくにつれ、逆説的に、きらきらと輝きを増していくようなささやきの中を流れていくのだ。
一五〇ページほどのこの小説を読み直すたびに思うのだが、ここで物語られるストーリーは、これほど完璧な形式で書いてもらうことができて、なんと幸運だったことだろう。そうして、やはり毎回思うのだが、私にとってのサガンというのは、あのエレガントなペン運びそのものだし、慎み深くも十二分に雄弁な、感情と言葉におけるエレガンスそのものでもあるのだ。こうしたエレガンスは、とくに彼女の用いる形容詞の類のおかげで(その点、彼女は秀でている)非常に精緻でもある。サガンの形容詞ときたら驚くべきシンプルさなのだが、それでいて、いろいろなニュアンスの可能性を含んでいて、いつも感嘆させられる。いくらでも例が引けそうだし、どれを引いてもうまくいきそうだが、ひとつだけ挙げておきたい。色の例だ。
「入ってらっしゃいよ、と彼女(アンヌ)は私に声を荒げた。敷居の上で、私は立ち止まった。彼女はグレーのドレスを着ていた。ほとんど白と言ってもいいような素敵なグレーで、そこには光が、夜明けの海の色あいのようにまとわりついていた」。
アンヌの美しさのすべて、その装いの美しさのすべてが、このユニークな形容詞節の中に完璧に描きこまれている。十七歳にすぎないというのに、セシルは(サガンは十九歳だったが)、このぐらいの年頃だとふつうならあまり好まないような、こうした色に幻惑されている。この小説をはじめて読んだ時には、これには感心させられたものだった。
この作品の明らかな長所については、他にもいくらも言うべきことはありそうなのだが、私としては、セシルについて最初に私が抱いた印象を語ることで、この小文を終わりにしようかと思う。笑われてしまうようなものかもしれないけれども…
私がはじめてこの作品を読んだのは、本当のことを言えば、中学校でだった。ずいぶんと若かったわけだが、私としては、まあまあ面白いという程度に感じた。というのも、当時の私は、その年頃にしては生真面目すぎたのだ。私は、すべての事柄を大文字で受けとるという感じだった。あの頃、セシルのことをエゴイストだと思ったか、それとも残酷だと思ったか、もう覚えていないけれども、このヒロインのエネルギーや、人生に対する並外れた本能に感心したのは覚えている。それがあってこそ、彼女の場合、いろいろな行動が可能になったのだ。エルザと共謀してアンヌを追い出し、父親を自分だけでひとり占めにしたり、本当には愛してもいないのにシリルを愛してみたり、あれほどうっとりと幸せに泳いだり、焼け付くような黄金の太陽を全身で吸収したりして、結局、十七歳の自分というものを彼女があんなに謳歌できたのも、ああしたエネルギーや本能あってのことだったのだ。当時の私は彼女より年下だったけれど、私の世界は、彼女のそれとはまったく違っていた。第一に、太陽を見ると落ち込んだし、ショーペンハウアーにかかずらったりして、なんだかやつれてしまっていた。他のことにしたところで、これと似たようなものだった。まったく、どういうわけでこんな哲学者など選んで、わざわざ自分の頭と哀れな魂を悩ましたりしていたのかわからないけれども、とにかくも彼に身を捧げることで、私なりに生の意味を見つけようとはしていたのだった。最良のやり方でとは到底言えなかったにしろ、私としては、とにかくも本当に生の意味を、私なりに把握しないで済ますわけにはいられなかったのだ。
そう、他にももうひとりいた。サルトルだ。彼の有名な『嘔吐』はそれ以前に読んでいて、たびたび読み返し、一生消えないようなぐあいに心に刻み込んでいた。
こんなわけで、セシルがあれほどの喜びや怒りとともにたっぷりと生きていたものを経験しようにも、すでに、かなり傷めつけられてしまっていたのだった。本当に、私にはまったく不可能だったろうと認めるほかない。パスカルとベルクソンについて見事な考察をするかたわら、なにも考えずに泳いだり、毎晩バーで楽しんだりということを、彼女はどんなふうに両立させたのだろう? 私のような性格では、彼女の立場になっても、あんなふうにヴァカンスを過ごすのには耐えられなかっただろう。泳いだり、楽しんだりするのが悪いわけではない。そんなことが問題なのではなくて、私にとってあまりに…形而上学的と感じられてしまう風景のせいで、きっと、ひどく苦しむことになっただろうからだ。やりきれなくなるような黄金の太陽や、底知れないほど青い海や、いつも目の眩むように青い空。こういったたぐいの美しさに、夏のあいだじゅう毎日、夜が明けた時から直面しなければならなくなるとなれば、とてもではないが、私には我慢できそうになかった。生についての問い、死についての問い、宇宙が始まる前のものについての問いなどを、こうした風景はたえず私に投げかけてくるはずだけれど、雄大な裸形の自然は、当然のことながら、けっして私に答えなど与えてはくれないだろう。そうしたら、地上にいること自体に嫌気がさしてしまい、自分という存在の空しさにひどく苛まれてしまって… で、この場合、私なら、なにもしないということになってしまうのだろうと思う。海岸に肌を焼きになど絶対に行かないだろうし、アンヌとは争わず、シリルを愛したりもしない。愛などというものにしたところで、知りたい、けっして知り得ぬようなものを知りたい…、そんな抑えがたい渇望からは、私を癒してはくれなかっただろう。空や海が大きければ大きいほど、私はさらに動揺してしまうだろうし、存在することの孤独さも深まっただろうと思う。素晴らしくも絶望的な無限の青に吸われるような感じがして、私は苦しむばかり。そこからはなにも得られずに。ただ、雨が降る時だけは気が休まるだろうから、いつも煮えたぎっているような頭が冷えるようにと、毎日のように雨が降って、地上がいくらかは過しやすくなるよう望んだだろうとは思う。
ヴァカンスを大いに楽しもうとして南フランスにやってくるような、エネルギッシュなパリジェンヌの生活は、結局、私には縁遠いものだっただろう。十月にふたたび受けなければならないバカロレアの試験に出題される哲学者たちとか、ああいったありとあらゆる享楽とか、セシルはいったい、どんなふうにして、それらすべてとうまくつき合っていったのだろう? 彼女があれほど単純で、健康的で、即物的で、幸せいっぱいで、その上こんなふうに言えるのが、私には心底うらやましかった。
「砂の中に横になり、砂を片手に握りしめていた。指のあいだから流れ落ちていく時、黄色っぽいやさしい煙のようになった。時間みたいに消え去っていくんだわ、と思った。だれでも思いつきそうな考えだけど、こう考えるのって、気持ちがいいと思った。夏だった」。
そうして、歳月ののち…
はじめて読み終えて、本を閉じたあの時、心にまず残っていたものを、今でも完全に覚えている。物語でも人物たちでもなく、文体でもなかった。風景だったのだ。サガンの風景が、ずっと私に語りかけ続け、私を掻き乱し続けた。
何年も経って、この小説の映画化を見た時、私は風景の中の大きな空しさをとても強く感じ、あの苦しみをまた心に感じて、それに苛まれた。いまだに、これにはとても敏感なままなのだ。この頃はいくらかよくなったとはいえ、たぶん、あいかわらず私が形而上学に熱中しているからなのだろう。
『悲しみよ、こんにちは』では、なによりも、パリと、セシルがヴァカンスを過ごす土地とのあいだのコントラストが印象的だ。
ヒロインは、首都の「すべての陰影、すべての埃から身を漱ぐために」急いでそこを離れる。パリについては、彼女はこれしか語らない。これだけで十分なのだ。肺を掴まれるような、いつまでも変わらないだろう汚れた灰色の憂鬱から、南へと、空と海の光と純粋さのほうへと降っていく。
そこにはやはり、首都とは著しく対照的なものがある。わずかな言葉だけで、地中海の美しさや、そこで目につく幾つかの色彩は描かれる。別荘のまばゆいばかりの白。それを不躾な視線から隠してくれる小さな森の松の、心癒されるようなグリーン。セシルが好きで、よく泳ぎに行く小さな入り江の砂の金色。それに、岩場の赤褐色も。音楽だって、忘れずにつけられている。「羽をこすりあわせて奏でる」蝉たちの歌。ここでもやはり、パリの場合と同様、必要不可欠なものだけで最大限のものが表現されているのだ。
こうした風景の中に描かれるもの。
それは、ヒロインがそこにやってくる時の幸福感だけではない。すべてはすぐさま過ぎ去ってしまうし、なにもかもが、語るそばから過ぎ去ってしまっているということへの、彼女の密やかな悲しみも描かれているのだ。
フランソワーズ自身でもあるセシルの、その指のあいだから流れ落ちていった砂の粒、そう、あれは、時間の粒なのでもあったのだから…
終
2005年5月
【管理者の注】
先にアップした『SUR LES TRACES DE FRANÇOISE, DERRIÈRE CÉCILE』の日本語訳。ミドルネームも含めたグルナックの本名がエレーヌ・セシル・グルナックHélène Cécile GRNACであることに注意されたい。『悲しみよこんにちは』のセシルに、もちろん安易な自己同化などしないものの、同じ名を通じて向こう側に展開されるヒロインの物語と語りに、その気になれば自己同化できもするのだということは忘れずに、グルナックは沿いつつ、添いつつ、離れつつ、読んでいた。
原文もこの訳も、雑誌『水路』2号(2005年6月30日、大林律子編集代表)に掲載された。
0 件のコメント:
コメントを投稿