2016/10/09

10月31日、6度目の命日

カタリ派終焉の地、モンセギュールにて。
同じく、モンセギュール山頂にて。皆既日食の時に。

                                                                            駿河 昌樹


 エレーヌが逝ってから6年になろうとしている。
 ずいぶん経ったような気がするが、時間などというものは、もう関係ない感じもする。そういう感じのほうが強い。

 エレーヌについて、いろいろなことを考えたし、思い出しもしたし、今もし続けているけれど、それらを、こと細かに記す必要も、もうないかな、と思う。
死んだ人のことを考えたり、思い出したりすると、気分はすぐに、「哀しさ」や「はかなさ」モードに入っていってしまう。ぼくらの心を染めている日本文化は、そういうモードがお得意でもある。なんでも、「~かなし」「~寂し」「~わびし」で纏めていくのが日本文化だ。
けれど、ひとりの人の存在や思い出は、そんなモードとは違う部分でいっぱいだったはずだから、人のことを思い出したり、考えたりするのは、じつは本当にむずかしい。

最期の一年半、エレーヌの人生は病気で染まったけれども、それ以外の67年間、いっさいの病気とは無縁だったのを思えば、晩年の治療生活のイメージを通してエレーヌを見ようとするのは間違っている。しかも、家族や結婚に縛られるのを嫌って、ぼくがかたわらに居ようとも、実質的な独身っぽさを手放そうとはしなかった生活ぶりを思えば、あまり、ぼくが物語的につべこべ拘束しようとするのも間違っているだろう。ぼくにしても、いろいろ記録することで、エレーヌのイメージを固定させようと思っているわけではないのだが、話される言葉、記される言葉、伝えられる言葉には、そういう性質がどうしてもある。
話をしていると、エレーヌはすぐ、「それは違います」「あなたにはわかっていません」という反論をしてきたが、彼女についてぼくが書くことのいちいちにも、こんな反論が聞こえてきている気はしている。
でも、しょうがないんだ。
死人に口無し、っていうのさ。
心の中でそう言いながら、ぼくは記し続けてきたし、思い出し続けてきた。
死ぬっていうことは、100パーセント、されるがままのオブジェにされること、素材にされ切ってしまうこと。
それも、粋ってもんじゃないかい、エレーヌ?

エレーヌを思うと、昨今は、東京の変化というものを思う。

今年は、新宿南口の紀伊国屋書店が引きはらうことになってしまったが、洋書のフロアだけは残されたので、エレーヌが毎週のように通った洋書フロアはまだ残っている。
仕事帰りの夕方に寄るので、足腰が疲れて、よくフロアに腰を下して、座った姿勢で読んでいたことがあった。今は、椅子がいくつか置かれるようになったので、エレーヌがいたら、きっとどれかに座って、長々と読み耽っていたことだろう。
紀伊国屋書店とともに、毎週の寄り道先だったフランス語書籍専門店のフランス図書は、とうの昔に店仕舞いしてしまった。小さな店内の奥にはソファがあり、そこで、学術書や文芸批評・研究書籍をゆっくり手に取って見られてよかった。エレーヌとは、よくそこで待ち合わせをした。

フランス図書や紀伊国屋書店をハシゴしてから、けっこう疲れ切り、空腹にもなって、駅地下のトンカツ屋あたりで夕食を食べることが多かった。エレーヌはふだん、あまり肉を食べなかったが、トンカツはキャベツがおかわりできるので、けっこうお気に入りだった。ヒレカツを取り、衣をぜんぶ外して、肉の部分だけ食べる。キャベツは二度も三度もおかわりする。味噌汁は飲む。ご飯は半分程度食べて、残りはぼくにくれる。カツも、半分ほどだけ食べる。けっきょく、それほど食べないのだが、エレーヌにはこれだけで十分だった。
新宿西口地下には、催し物用の広いスペースがあって、古本を売っていたり、鞄などを売っていたり、物産展をやっていたりすることがあり、たいていのものにはエレーヌはさほど興味を示さなかったが、傘にはけっこう関心があった。
リュックが濡れないですむほどの大きな傘がほしくて、あれこれ選んだことがある。エレーヌには大き過ぎるほどの傘を買って、これでどんな雨でも大丈夫だと喜んでいたことがあった。二三度は、そんな大傘を買ったように思う。

渋谷も激変しつつある。
エレーヌの渋谷といえば、なによりも東急プラザで、確か5Fだったと思うが、やはり紀伊国屋書店は行きつけの場所だった。あそこにはフランス書籍はほとんどないが、雑誌や新聞はいくらかあって、主要な雑誌をよくあそこで立ち読みしていた。
レストランフロアのニュートーキョーだったか、そこでの釜めしや焼き鳥程度の食事がエレーヌには便利で、よく行くわけではないものの、ちょっとした集まりに利用することがあった。2010年秋、王子への引っ越し契約にUR営業所を訪れた際の最後の会食も、ここでだった。
2005年頃だったか、彼女の元フィアンセがちょっと渋谷に寄った際にも、ここで夕食を取っていた。
そんな東急プラザも、今はすっかり取り壊されて、毎日けたたましい音の響き続ける工事現場に様変わりしている。渋谷駅も、その周辺も、大がかりな工事中で、この光景の中に立つと、6年経っただけでこんなに変わってしまうのかと思わされる。『方丈記』や『徒然草』に通じる無常観が、現代の空気の中にはあたり前に漂っている。

68歳で亡くなったエレーヌも、6年経った今ともなれば、生きていれば74や75になるのか、と思う。
68で亡くなるのではまだまだ若いと思わされるが、75にもなってくると、いろいろ支障も出てくると考えるのが常識だろう。ガンに罹りさえしなければ、誰より丈夫であり続けたはずのエレーヌだが、そういう彼女でも、さすがに75から80にかけての年齢ともなってくれば、少しは疲れてくるだろう…と思われてくる。
そんなことを思いながら、週に何度か、買い物に行くついでに、エレーヌのために契約して準備したURの部屋がある建物の前を通る。11階の見晴らしのいい部屋で、遠くに六本木ヒルズまで見渡せるところだったが、そこを見上げながら、もしそこにエレーヌが住んでいたら、こんな秋の日、商店街にいっしょに買い物に行ったりしただろうか、とか、あたりの猫と友だちになったりしていただろうか、とか、考える。

住めば、エレーヌが見ることになったであろう風景

エレーヌが使うことになったはずの台所。
11階まではエレベーターがあるから、車イスを使うようになっても不便ではなかっただろうし、この数年、この住宅の高年齢者が増えたこともあって、手すり付けやスロープの変更などの配慮が充実してきてもいるので、やはり住んで悪くはなかっただろうと思う。
2010年2月、方々の引っ越し先を内覧中のエレーヌ。
4月に体調が急変する前のこの頃、調子はよく、
病気はこのまま治っていくかと思われた。

やはり、2010年2月、契約した物件ではないが、
その近くの王子神谷の他の物件を見ながら。

今年の9月、エレーヌの住んだ界隈へ、ひさしぶりにセンチメンタル・ジャーニーしてきた。
下北沢で下り、遊歩道を通りながら、代田へ。途中、信濃屋を覗いて、チーズの塊なんかを買い込んだりもして。
エレーヌが毎晩、野良猫たちにエサをやっていた小公園にも寄って、猫たちが集まっていたベンチをしばらく眺めたり、変わったもの、変わらないものを確かめたりした。





そこからしばらく上り坂。林で囲まれた駐車場があるが、そのあたりに昔、グレゴワールというオスの野良猫がいた。



エレーヌがあれほどの猫好きになるきっかけのひとつとなった一匹。早くても遅くても、帰宅頃にはいつもこの猫が駐車場付近で待っていて、エレーヌに撫でてもらい、家までいっしょにとことこついてきて、玄関先でエサをもらう。姿が見えない時には、「グレゴワールちゃん、今日はどうしましたか?」と言って、見まわしたりした。クリスマスや正月には、トロの切り落としを持って来てやって、ご馳走したりしていた。
2016年の秋の夕方、もちろんグレゴワールの姿はなく、他の野良猫の姿さえなくて、あたりはひっそりしていたが、1990年代のこのあたりの様子やエレーヌの様子が、細かく、いろいろな時のいろいろな光景のまま浮かんできた。

京都にて。偶然出会った猫と。

エレーヌの旧宅の路地へ

エレーヌ旧宅路地

左側の塀の上も、右側の塀の上も、外猫ミミの縄張りだった。

エレーヌの住んでいた家に行くと、暑い夕方だったこともあって、後に住み出した住人が台所の窓を大きく開けている。台所と奥の6畳間が少し覗けて、夫婦だろうか、中年の男女の姿があった。



エレーヌがカレンダーや仏像の写真を掛けていたあたりには、この人たちはなにも掛けておらず、白い壁がそのままになっている。
20世紀の終わりまで、夏や初秋の暑い夕方には、こんなふうにエレーヌやぼくのことも外からは見られたのだろうか。そう思いながら、あまり覗き込むようなことはしないまでも、エレーヌの旧家前をふらふらと行ったり来たりした。

空き地だった隣りにはマンションが立ち、家の玄関側にいっぱいだったツツジの植え込みはなぜか抜かれてしまって、すこし様変わりしてしまったが、付近の家のブロック塀は昔のままで、古くなったものだから、苔や汚れでずいぶん凄い様相を呈しているところもあるが、それらは、エレーヌやぼくの飼い猫同然だった外猫ミミが、毎日、飛び跳ねたり、とことこ歩きまわったりしたお馴染みのブロック塀だった。ミミはよく、大きな通りのブロック塀の上でぼくらの帰宅を待っていて、ぼくらが家の細い通りに入ってくると、塀の上をとことこ歩き、離れているところはピョンと飛んで、家の敷地に飛び降りて、ぼくらより先に玄関前に着いて、ちょこなんと立っているのだった。

「時間などというものは、もう関係ない感じもする」と、この文のはじめに書いたが、こんなふうに、起こったことのすべてが見え続けているので、時間が経ったと思っても、思わなくても、どうでもいいという感じがつよい。開高健などは『戦場の博物誌』あたりで、こんな感覚を、今も「ある」という視点で纏めたものだったが、今のぼくは、「ある」とか「ない」とかいう言葉遊び、レッテルづけ遊びは、もうどうでもいい感じがしている。

 言葉で言おうとすれば固着する。もう、言葉は捨てよう、と思ったりする。



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