2011/02/05

『結婚』 ―アルベール・カミュ著― について


                                          1999年夏、ポワチエPoitiersあるいはペリグーPé§rigueuxのカフェで
                        こぼれたコーヒーを拭きながら?
                                        Photo by Masaki SURUGA



 エレーヌ・セシル・グルナック
 加 藤  多 美 子  訳


『結婚』は4つのエッセイから成る約60頁の薄い本である。1936年-1937年頃に書かれたが、カミュは1950年にこれを出版した。作者はここで、生まれ故郷のアルジェリアにインスピレーションを受けた印象を書きしるしている。特に、それぞれの様子のうちでおそらく最も心に刻まれたもの、つまりアルジェリアの本質である太陽と、その背後で人々が生きた歓び、またこの歓びや光につきものの不安と孤独のすべてを、まさしく描いたのだった。今これを書くにあたって、4つのエッセイのうちのはじめの2つを取り上げたいと思う。2つとも、過去の遺跡という非日常の世界を背景に、太陽と自然の支配しているようすを論じている。死んだ町を訪れて、人間は自分の存在をどのようにみるのだろうか? そこを去るとき、彼の心を占めるものは何なのだろうか?

チパサでの結婚』
1935年、カミュはアルジェ地方で、シェヌア山をあおぎ見る古代の廃墟チパサを見つけた。彼は春を選んでそこを訪れる。訪ねるのに最もふさわしい季節なのだ。あらゆるものが動きだし、新しい生気で息づきはじめる。それは、暗に恐れの混じった尊敬や感謝を強いる、全能の神のおかげではない。カミュは、より謙虚で温かい多数の神々のほうが好きなのだ。彼らは天地創造の大仕事を進んで分担し、みな熱心に協力してこの世界をそれも永遠に維持しつづけているようにみえる。その神々は非常に大勢で親しみがあり「陽光やにがよもぎの匂いのなかで語っている」。
カミュは、大地から突然現れたこの素晴らしい生を、詩的で自由な、古代の異教文明を思わせるような表現でほめたたえる。しかし、唯一神であれ、複数の神々であれ、結局は同じことだと考えられる。光り輝く自然を前にすると、何か神々しい存在が思わず私たちの心に浮かんでくるのだが、それはどうしてなのだろう? ほぼ人類のはじまり以来、人々の争いの種となってきた神という言葉など、どうでもいい! そこに崇敬の念、もしくは天地創造の神秘を感じる気持があるかないか、それは人それぞれである。なによりも大切なことは、祝祭がこのうえなく華麗に開催され、誰もが、光、色彩、香りの満ちあふれるなかで、それに招かれることなのだ。まず、海辺の村へ行こう。海は「銀の鎧を着け」、「皺一つない」美しい女の顔をして、「そのきらめく白い歯で微笑んでいる」。そして次に廃墟を訪れよう。

チパサはおそらく輝かしい過去のあかしなのだ。しかし、人々が建て、そして遺した、偉大で忘れがたいものすべてにまさって、訪れるカミュの心を打つのは、自然がそれをどのように変えたかということである。「この廃墟と春との結婚で、廃墟はふたたび石と化し、人間(ひと)の手が加えられた光沢(つや)を失って自然に還ってしまった」。これらの石は生きかえった。ついに文明の重いくびきを逃れて、石はふたたび宇宙リズムと呼応して振れ動くことができる。廃墟のこの調和は、非常にひそやかで、複雑なので、人間の目には混沌とまではいかないにしても無秩序に近いようにみえる。建造者が自分たちの「芸術」のため、むりやり制限した偏狭な形のなかに、石はもはや閉じ込められてはいない。
カミュは廃墟の石をこんな風に、全く単純で飾り気もなく、そのまわりに伸びほうだいの草のように非常に自由なものとして好んだ。そして、生はこの場所特有の伝染(うつ)りやすい感覚的欲望に満ちあふれており、彼は石とともにその分け前にあずかるのだ。「ぼくの全身を奪い去るのは、自然と海のあの偉大な放縦だ」……「太陽と接吻と野生の香りのほかには、一切がぼくらにはむなしく思える」と、この自然に魔法の飲み物を飲ませられて、それに酔ったかのように彼は言い切る。ここチパサでみられるように、時折自然の芸術が人間の芸術をふたたび乗り越えること、あるいはむしろ、この2つの芸術が幸福な融合をなしとげることは、喜ばしいと、カミュは私たちに感じさせてくれる。

そこで作者は、彼の文体と反比例するような感動をこめて、この受け止められないほどの美すべてを称賛しはじめる。その文体は、あらゆる種類の草花や植物を豊富に数えあげながらも、それでもなお、簡素ともいうべき地味さである。ここには、シャトーブリアンばりのロマン主義に染まった豊かな陰影に満ちた記述もなければ、プルーストにみられるような長々と描かれた暗喩もない。むしろ、この「放蕩娘たち」である石の廃墟のあいだで、たくさんの植物の名が無遠慮にほとんど唐突に列挙され、黄褐色の地に、芳香を放つ色とりどりの花が咲いて、私たちをうっとりとさせる。そして石も植物も、すべてが、海と空の比類のない青を背景に、歓びに輝いているのだ。

ここでは、「ぼくらは、教訓も、偉大なものに人が求める苦い哲学も、求めはしない」。人がふつう誇らしげにふりかざす高尚な思想にすがる必要もない。しかし、人間は自己に忠実であり、内在している性質から逃れられずに、どうしても熟考し、思索してしまう。なぜなら人間は完全に理解したい、感動させるもの、つまり自分を生かすものすべてに言葉を貼りつけたいと願っているからだ。状況を把握し自分を位置づけるために、たえずあらゆることについて距離を置いて考えなくてはならない。そうしなければ、自制できない一種の狂気にとりつかれたように感じてしまうだろう。

そういうわけで、稀にみる陶酔のさなかに、やがて抽象的、論理的、知的な言葉が少しずつ彼のなかに入り込んでくる。「あるがままのものになろうとし、自分の深い節度を探りだすのはそれほど容易ではない」。存在の苦悩が、ごくかすかではあるけれどもたしかにそこにあり、ディオニュソス的な歓びと同時に、彼の胸を締めつける。この苦悩を、彼は「不思議な確信」のおかげで抑えることができるのだ。「不思議な確信」は訪れた彼の心を静め、彼は幸福感に満たされてそこに留まることができる。なぜなら、自分を成り立たせている肉体と精神によって、彼をとりまくものと一体となって、彼はこの大地となり、エキスとエネルギーに満ちあふれて、大地の宝庫ともなることができるのだから。「ぼくは息をすることを学んだ。ぼくは自分を全体のなかに加えた。そしてぼくは、自分を成就するのだった》と、彼は続ける。なぜなら、彼は人間が生きうるかぎりの最大の真実を自らの内に感じるのだ、すなわち、愛、「節度なく愛すること」、この大地、この海、この青、この赤、この緑、この草花、この蝉の声……この陶然としたにがよもぎの香り……を。
「不思議な確信」という言葉は矛盾しているようにみえるけれども、実は正しい。人が愛するということはわかっている。だが、実際どうすれば愛とは何かをはっきりと説明できるのだろうか? 誰もできはしない。言いかえれば、この魅惑的な舞台でこんなに幸せな者は、彼であると同時に、なにか彼を超えたものなのである。それはどこかわからないところからやって来て、言葉では説明できないけれども、生の真実、彼自身の真実を生きるように彼を力づける。それがわかるように、満足のいく定義づけをすることはけっしてできないだろう。なぜなら、生の真実はあまりにも豊かで微妙なものなので、自分の意識だけでは理解できないと、彼は感じているのだから。しかし彼はそのことを単純化して何らかのレッテルを貼ることは頑として拒絶し、一部の人たちが他の人たちを苦しめるために考え出したあらゆるモラル、あらゆる宗教、あらゆるタブーにむしろ果たし状をつきつけ、そしてごくあっさりと、「享楽を怖れるものを愚者と呼ぶ」のだ。

しかし彼は他者である女のことを忘れてはいない。それがなくては、この幸福はないだろう。「女の身体を抱きしめることだ。それはまた、空から海に降ってくるあの不思議な歓びをわが身にひきとめることだ」。カミュは後に彼の小説『ペスト』について、「女のいない世界は息苦しい」とさえ言っている。ひとりの女を通して自然を愛するのでなければ、この自然と交わっても十分ではない。女なしでは「結婚」は未完成なのだ。彼はもう一度、この愛に対しても「不思議な」という言葉を選んでいる。だから、女の肉体と結びつくことは、天――人はその恩恵をこうむるけれども理解することはできない次元――から、ありがたくも授けられたようにみえる説明不可能な至福なのだ。語り手は私たちにマルグリット・デュラスのことを考えさせる。彼女にとってもまた愛は、私たちを貫き、私たちを変貌させながらやがて海へと流れ込む、光の河のようなものだった(『愛人 ラマン』)。カミュは男と女の結びつきを、それが愛の最も美しい姿のひとつだから取り上げたのだが、人々の運命にあれほど敏感な彼だから、愛が人々に宿り、みな彼と同じように歓びのうちに自然と交われることを当然願っている。

チパサはたしかに心をゆさぶる美しいところだが、それはまた秘儀を教えてくれる場所でもある。作者はそこで、自分の「人間の条件」や、「生きることの難しい知恵」を学ぶのだ。以上に述べてきたことから、次のことが確認できる。人間の生は、「節度」と「不思議なこと」のあいだで、理解できることと永遠の謎――人がと呼んでいるものの存在は彼にとって永遠の謎である――とのあいだで、揺れ動いているのだということを。彼がたとえ深くかかわったとしても、生はやはり苦しい混迷の尽きることのない源のままだろう。そのことを彼はよくわかっている。

だからこそ、自分自身に対してできる最も美しい行為、それはありのままの自分を受け入れ、すっかり決められてしまった自分の知力のこの限界のなかで、いつまでも窮屈だろうけれども、生きとし生けるもののあいだで彼に与えられた自分のこの場所で、生きたいと思うことである。つまり、今、太陽と青い海の下で全身全霊をあげて、「優しく」、「誇り高く」生きること。「青春に躍動する心」と「塩辛い身体」で、固定観念のない愛情を自分に与えること。これが、若いカミュが歩んでいこうと敢然として決めた道である。「それを獲得することにこそ、ぼくは、ぼくの力と腕を振るわねばならない」。

しかし、まさにこの道に従うことこそ最も困難なことなのだ。なぜなら、「生きる」かわりに、人はすぐその意味を説明しようとし、そうして生を実際に感じたことのないままに、生から遠ざかっていく。あるいは、ぜひとも創作したいと思うのだけれども、それはどのように生きたらいいかわからないということを隠蔽しかねない。それでも人は自分の生活をよく実現してきたと思っている。しかし、語り手は人間の生においては、状況によってうまく定められた順序のままに、すべては為されるはずだと確信する。「生きるための時があり、生きることを証言するための時がある。同様に、創造するための時もある。つまり、それほど自然でない時だ」。カミュは人間の創造力を警戒しているようにさえみえる。なぜなら、創造力は現在から彼を遠ざけ、現実から、したがって真実の生から逃れさせるからだ。しかし、この作品の最後のエッセイのなかで、この今を永続させることができるのは、芸術、彼にとっては特に絵画だと力説するだろう。プルーストの場合は書くことだったが。

 作者はチパサを訪れて、官能的な歓びだけでなく、精神的にも大きな歓びを味わった。ここにただ「恋と欲情との邂逅を求めて」やって来たと彼が言うとしても、この貴重な場所が彼に示したのは生の哲学のすばらしい教えだった。彼はチパサを去るとき「心に不思議な歓びを覚えていた。それこそ平穏な意識から生まれる歓びだった」。この歓びは知的な理解を超えているので、ここでもまた、「不思議な」という言葉が彼のペンの下に滑り出ている。この歓びは、たしかに、平静な心が伴われてはじめて可能となる。だが、平静な心はこの歓びを見渡して客観視することができ、味わって、それを歓びと名づけるのだから、この二者は一致したものなのだ。
だが、私たちの意識のこの「平穏な」力は、どこからやってくるのだろうか? カミュはこれについて何も言うことはできない。しかし、もしこの力が再生の平安を彼にもたらすのならば、彼がそれを直観的にこうとらえているからだと考えられる。つまり、人間の省察では理解できないからこそ、この力はそれ自体で永久に完全でいられるということ。そうでないならば、この平安は彼のなかであれほど恩恵豊かに広がることはできないだろう。この平安こそ、彼が「自分の人間としての仕事(メチエ)」――天と地のあいだで宙に浮いている人間としての仕事――を果たすために、特に必要な条件だということも彼にはわかっているのだ。

 チパサはたしかに観光地なのだが、立派なカメラを携えて、大いにしゃべったり、笑ったり、おいしいレストランを探してたくさん食べたりする人たちのする観光旅行は、そこではまったく感じられない。訪れた人たちはみな、帰りに「港の端の小さなカフェ」に寄るだけだ。そこで彼らは「大きなコップに一杯の緑の冷えたペパーミント」を飲んで太陽から受けた火傷をいやし、果実にじかにかぶりついて汁(つゆ)のしたたる桃を堪能する。この快楽は非常に単純なものであり、この訪れ時を超えた美、快楽の単純さで持続させているかのようだ。だがまた廃墟のなかで人々が覚えた深い感動とうまく釣り合いをとるために、この単純な快楽がぜひとも必要だとも思われる

 作者は「長い1日のあいだじゅう歓びを覚えた」。将来、自分が遅かれ早かれ遭遇するであろう不遇や苦境――私たちにもみな起こりうるのだが――にあっても、これからは幸福になる力を、「幸福になるという義務」を果たす力を持つだろうと、彼は考える。「そのときぼくらは、ふたたびある孤独につきあたるのだが、しかし今度は、そこに満たされたものがあるのだった」。なぜなら、夜が来たなら、闇とともに、疑念が湧くことはないにしても、とにかくこの調和――それを人は植物や動物とまったく同じように、とりわけ太陽の下で享受する――は冷めていくことが、彼にはよくわかっているから。なぜなら、夜陰とともに、「昼間のきらびやかな神々は、やがて彼らの日々の死にたちかえる」のだから。なぜなら、結局人は今をいつまでも生きることはできないのだから。時の犠牲者である人の意識は、すべてを識別させばらばらにしてしまう。この性質のせいで、人は今と別れていかねばならない。

だから語り手はこの廃墟をしばしば訪れるとき、1日以上いたためしがない。そうでなければ、「ながめる」ことをしないで「見過ぎる」ようになってしまっただろう。つかの間だからこそ、愛の衝撃を、まともにいつも新たに受けることができる。そして人は愛するときだけは永遠も関係なく瞬間を生きるのだけれども、そのように、無限でもある瞬間を生きることを、ふたたび学ぶことができる。こうしてチパサを訪れるたびに、印象はそのつど深くなっていき、彼は自分の運命を生きつづける力を与えられるのだ。

だから、彼はチパサを離れるまえに、「ベンチに腰かけて」この世での自分というものを総括する。「そうだ。大切なものはぼくでもなければ世界でもなかった。ただ単に、調和であり、沈黙だった。そしてその沈黙は、世界からぼくに向って、愛を生ませたのだ」。大切なのはおそらく、完全なる調和そのことである。そのとき、人はもはやどんなものとも自分を比べる必要はなく、生きつづけるためにどうすればよいかを、はっきりと知る。そして私たちのすべての矛盾は、実り多い、深い了解のうちに受け入れられたのだ。

 カミュにとっての生きがい、それは明らかに、太陽であり、最愛の恋人である。おそらく太陽が彼を、自分自身でそう思っている以上に、偉大な神秘主義者にしたのだ。この作品全体に、生の神秘的な力が感じられるけれども、カミュは自分でもそれを説明できない。彼は完全に幸せそうだし、「満ち足りていた」とさえ言っている。彼はこれと逆の状況を、避けることができた。というよりむしろ、幸せすぎて、そんなことは考えなかった。つまり、チパサの不滅の輝きが、彼を打つ手もない絶望に陥れたかもしれなかったのだ。なぜなら、この美しいものすべてが、なぜ、どのようにして可能なのか、いったいどこからやってきたのかを、彼は理解したかっただろうから。しかしそうしたならば、チパサは彼にとって挫折、自分の人間としての本性を受けとめることができなかった挫折となってしまっただろう。結局は不毛に終わる形而上学的思索よりも、地に足をつけたままでいることをよしとして、彼は太陽を賛美しつづけたのだろう。もっともなことだった。

        
ジェミラの風』
 ここではチパサのようにはいかない。私たちは別の世界に入り込むのだ。最初の文章から、カミュの下す非常に断定的な言葉に、私たちの心はゆすぶられる。「精神それ自身の否定という一つの真理を生むために、精神の死ぬ場所がある」。それは非常に荒涼として、自然によってまったく愛されず、精神の存在を力のかぎり示す場所である。ここでは風と太陽に不足はない。だが、鉛のように重い大気のうちに、生とその対極にあるもののあいだで耐えがたい宙吊りの状態にある。「亀裂のない大いなる重い沈黙――秤の平衡のような何かが支配していた」。語り手が私たちを誘ってさまよわせるのは、落ちこんだこの風景のなかであり、そこで私たちは間違ったほうへ、もはや私たちではないほうへ倒れ、不運な軽業師のように綱から落ちる危険にたえずさらされる。チパサで彼が生について「それはぼくに、ぼくの人間という矜持を与えてくれる」と言うならば、ジェミラでは、どうなのだろうか?
 
 ジェミラのローマ遺跡は海辺にあるのではなく、小高い丘にあり、廃墟に沿う峡谷がよりいっそう廃墟を孤立させ、魅力のないものにしている。ジェミラは見に行くのに多くの労を要し、そこにたどり着くのに多くの時間がかかる。まるで世界の果てにあるようだ! 人がそこを訪れ、そしてついでに他の場所へ行ったりすることはない。それは不可能だ。「その町からはどこへも行けないし、またどんな地方にも通じてはいない。それは、人がそこから帰ってくる所だ」。そこでは、チパサの緑、陶然とさせる花、さわがしい蝉の声は、陰鬱な沈黙に入れ替わっており、小鳥のさえずり、山羊の物音、ある羊飼いのフルートの音がその沈黙を際立たせる。もし人がチパサで輝かしく、晴れ晴れとして調和のうちに自らを誇ることができたとすれば、ここではもはや無力であり、決着をつけるべく、「いくばくかの樹木や枯れ草」を唯一の背景として、たったひとりで自らを作り直さなければならない。自然が申し出ているのは、もはや融合ではなく、挑戦である。

それは愛されるために何もしない死んだ町だ。その町は「卑俗な賛嘆やピトレスク趣味や希望の戯れを拒んでいるのだ」。人々にとって執拗で残酷な風の存在――風は太陽に焼かれ、うなり声を上げてこの町を吹き渡らねばならない――にとりつかれて、この町は人々に愛着を抱いてもらうことができない。かつては美しかったのだが、今日では「まるで骸骨の森のような黄色味がかったその骨格」しか、もう残っていない。人はそこを訪れるのではなく、「荒野の壮麗のさなかを彷徨するのだ」。私たちの身体の内も外も痛めつけ、内臓も生きる力も食い尽くす町だ。「こうした場所によって穿たれ、目は焼かれ、唇はかさかさになり、ぼくの肌は、もはや自分のものではなくなるほどに乾いていた……海の潮にニスをかけられた砂利のように、ぼくは風に磨かれ、魂まですりへらしてしまった」。チパサで覚えたような、自分の生を引き受けようとする自信にあふれた力はもはや感じられない。ここで、「こうして太陽と風の熾烈な浴みは、ぼくの全生命力を使い果たしてしまった」と作者は打ち明ける。

 しかし、カミュが言うように、この町は人間にまた別の次元を、「ただそれだけがぼくたちを世界の鼓動する心臓へと導く、あの愛と忍耐の教え」の側面を、開いてくれる。ジェミラは私たちの身体を苛酷な状況に置いて、私たちを自分の心の奥底にまで下降させる。そこでは、生を愛するためには、最も困難で険しい形の生を、留保なしに抱きしめなければならない。それがうまくいくかどうかは明らかではない。肉を完全にそぎ落とされたこの死んだ町は私たちを迎えいれるとき、私たちにすべてを手放してしまうように、ある意味全身全霊で徹底的にやるようにと促す。そのときひとつの真実が明らかにされる。「ぼくはぼく自身からの自分の離脱と、同時に、世界へのぼくの現存をこれ以前には決して感じたことはなかった」と語る作者は、生の二重の体験を鋭敏な意識で体験しているのだ。
まず自分の肉体と精神が、文明に見放されたこの風景そのもののなかに溶け込むのを感じる。「まもなく、世界の隅々に拡散されたぼくは、我を忘れ、また我からも忘れられて、あの風になり、また、風の中のあの柱列、あのアーチ、熱風を感じるあの石畳、荒涼とした町を囲むあの蒼ざめた山々になるのだ」。ふだん、ある空間を占めるように限定されていた彼の身体は、今、自然の諸要素の中に溶けてしまったように見える。彼にはもはや自分とその他のものを区別することができない。自分が誰だかわからない。そこで、自分を待ち受けているのは自己喪失のようなものだと気づくのだ。
しかし同時に、ジェミラの非情な自然は、「現在」のかけがえのないすぐれた価値を彼に教える。彼はもうこれ以上、「先に行けない」ことを、はっきりと認める。「ちょうど永久に牢に入れられた男のように」……「明日もまたおなじようだし、それに、ほかの日もみな変わりはしないということを知っている男」のように……。人間が地上で持っている宝がみな、ここ現在にあるということ、そして、彼自身それ以上は望まないということを、カミュはすっかり気づいていた。「一人の人間にとって現存を意識するとは、もはやなにものにも期待しないこと」なのだから。こう明言できるのは、ジェミラは幽霊のように痩せていることによって、人々がよく陥る罠、死について考えるという罠を彼に仕掛けているのだということが、彼にはわかっていたからである。

 そういうわけでジェミラは危険だ。この町が私たちに自らのうちに見つけさせた「現在」は、ひとつの見事な啓示なのだが、この町は私たちにあまりに多くの断念やあまりに多くの決着をつけさせる。ジェミラは私たちを神秘主義者、あるいは狂信者にしてしまう、つまり、死後の生について考えさせ、現在から脱け出てより良い未来といったものを想像させてしまうおそれがある。カミュにとって、この種の希望を抱くことは論外だ。この「精神状態(エタダーム)」を「もっとも卑俗だ」とみなして、嫌悪している。彼は自分を信頼し、自分が人にとどまれること、言いかえれば、に生涯ついてまわる「不安」と「冷静さ」のあいだで、うまく役割を果たせることを知っている。この確信で心が晴れたかのように、「これこそがぼくの明察なのだ」と彼は結論する。

旅人がジェミラで発見した大いなる真実は次のようである。「ぼくの中には青春があまりにも満ち満ちていて、死を語ることはできない。だが、もしそうせねばならぬとしたら、ここでならぼくは、その的確な言葉を見つけられるような気がする。つまりそれは、希望のない死を自覚したその確信を恐怖と沈黙のあいだで語る言葉だ」。彼にとって、もし希望というものが存在するならば、それは観念的なものではなく、身体の中で身体とともに完全に今を生きさせる一種のエネルギー、感覚すべての戦慄なのである。ジェミラは彼に自分自身から離脱する必要がないことをわからせ、「ぼくが要求し、獲得するものこそ、まさにある生の重みなのだ」と、彼は力をこめて叫ぶ。「死はおぞましい不潔な冒険だ」とまで言う。なぜ、これほど極端な二語が選ばれたのだろうか? 自分の死体がしだいに朽ちていくのを想像するのは、彼にとってそんなに恐ろしいことなのだろうか? そんなに耐えがたいことなのだろうか? カミュがこの作品を若くして書いたということ、そして十七歳で結核に罹っていることを思い出すならば、彼の気持もわかろうというものだ。だが、彼が生について自分の考えを述べるときに示した、これほどまでの嫌悪感は、単に彼の性格に柔軟性や人情の機微が欠けていることをあらわしているのかもしれない。

現在の生だけが重要なとき、人は何を心に抱いて生きているのだろうか?「人々は自分に馴染んだいくつかの観念を抱いて生きている。それは2つか3つだ」。しかし、そういった観念を自分のものにして上手に利用することはすぐにはできない。それは先のことだ。なぜなら若いときにはその必要がないように見えるからだ。ここで作者は若い男の人生観を弁護しつづける。若い男にとっては、過去をふりかえることも、何らかの将来を予想することも、大した意味を持たない。将来というと、彼は必然的に最期のことを考えてしまう。
そういうわけで、カミュにとって「人間の名の価する人間」は「死を抱きしめながら」、つまり自分の身体の消滅の後に何も求めずに、死を受け入れて死ぬ。理想は、超自然的ないかなる救いにもしがみつかない、どんな幻想も持たない自由な純な心で、青春をとりもどして死ぬことだ。彼にとっては「普通言われていることとは反対に……青春には幻影はない」。「一人の若い男が世界を面と向かって見つめている」。その男は死について省察する時間もなく戦い、そして死に遭遇したとき、彼は勇敢にそれと向き合うのだ。
カミュの言っていることを信じられたらいいのだが! 若者たちが、口にしているように勇気のあるところを示そうとしても、それほど不確かなことはない。もし彼らが幻想も夢も抱かないとしても、そのかわりにしばしば、言っていることを聞けば、生きることの倦怠に苦しんでいる。だがたしかにカミュには退屈する時間はなかった。やりたいことは山ほどあったのに! サッカーから演劇まで、そして例えば、アルジェリアの命運、人権、死刑といったあの時代のごく深刻な問題に身をもって対処すること。彼は実際、世界を揺るがした事件や激変がつぎつぎに起こった時代に生きたのだった。

したがって作者は、卑怯だとみなして彼を憤慨させるもの、つまり病気へと当然、論を進めていく。彼によれば、人は病気だからとあきらめて死んでいく。本当のところは、人は健康な身体では死ぬ勇気がなく、意識が作り上げた何らかの病気で衰弱していくとき、この致命的な状態をよりよく受け入れるのだ。「この点では、病ほど軽蔑すべきものはない。それは死を癒す薬だ……病気は、全的に死ぬという確信から免れようとする大変な努力へと、人間を圧しつける」。そしてカミュは人間が心のうちに広げてゆかねばならない唯一の希望、「それは意識した死を作ること」だ――それが人類の進歩と呼ぶに価する唯一のものなのだから――と見事に結論する。はっきりと意識して死んでいけること、これがジェミラから引き出した教訓のひとつである。ここには、確かにいつも、作者によれば完璧だといえる死に方をした古代ローマの偉大な英雄たちの息の音が聞こえる。彼らには年をとる時間はけっしてなかったのだから!

カミュはそれほど老化を危惧していたのだろうか? たしかに自分の周りに見ることができた老化には、彼を意気阻喪させる何かがあった。彼の小説『異邦人』のなかで、ホームの老人たちが主人公ムルソーの母の通夜にやってくる、気のめいる場面が思い出される。彼は、「古代の人間たちの視線のなかで輝いている無垢と真実」のままに、「若い」状態で死にたいと願っていたのだろうか? 年をとった彼に出会えたなら興味深いことだっただろうに。『結婚』を書いたときに彼が人々に要求したとほうもない努力や、非常に頑固で熱のこもったこの種の信念について、彼に尋ねてみたかった。しかし、このような理想を実現する時間も、何かの病気に甘んじる暇もないうちに亡くなってしまったけれども、おそらくそれが彼の運命だったのだろう。

死のことは抽象的にしか何もわからないのだから、それについて上手に語ることはできない。それよりも、語り手は生きたいという絶対的な欲望を表したい。「ぼくは、これから先なお生きられる人々に嫉妬し、花だとか女たちへの欲望が、肉と血のそれなりのあらゆる意味をもちうる人々に嫉妬しているのだ。ぼくは、羨ましいのだ。なぜならぼくは、あまりに人生を愛しているから、エゴイストにならずにはいられないのだ。ぼくにとって、永遠など何だろう」。ジェミラの旅人は、自分に嘘をつきたくもないし、嘘をつかれたくもない。精いっぱいに生きることを愛し、精いっぱいに死んでいきたい。そしてこの町は、死んでいるからこそ、自分が選んだ道、今を生きる道を歩んでいる彼を力づける。

カミュの言うことにはたしかに説得力がある。しかし、私は次のようなことを、つい考えてしまった。物質は波動と粒子という二重の性質を持っているので、死ぬことも消滅することもなく、たえず変化していくのだということを、量子物理学はかなり以前から明らかにしている。それにもかかわらず、この素晴らしい発見に人はまったく耳を貸そうとしない。この発見は、生と死について考えるときに、果てしなく広がる視野を開いてくれるかもしれないのに。自分の「身体」は人にとって今までにも増して大切でありつづける。もし科学が進歩するならば、精神が存在することについても、同様に進歩することはないのだろうか?


ともかくも、この二つのエッセイは、自然が人間に及ぼす多大な影響力によって、非常に印象的である。自然は特に、人間に見せる顔に応じて影響を与えているのだ。太陽と青い空の下、草木の緑と花々に囲まれて、人はすすんで自然と交わり、生と幸福に輝く。けれども、今度は、苦しいまでに禁欲的な自然が、同じように彼から愛されようとするとき、彼はその自然におびえて、ひどく怖がる。なぜなら、自分の間近な終焉を思い起こさせるからだ。いつの日か避けがたく死なねばならないことは、彼にはよくわかっている。しかし彼を特に悩ませているのは、自分が毅然として死に立ち向かうことができるかを知りたいということだ。世界から離脱することは世界のなかに「現存」するのと同じことであり、あるいは、人々を愛するということは人々から遠ざかるのにも役立っており、その逆も言えるということを、理解することによって、カミュは実存的な不安を鎮めた。この2つは同じように必要であり、矛盾してみえるだけなのだ。「ぼくが死を怖れるのは、ぼくが世界から身をへだてるその度合いに応じてであり、持続する空をみつめるかわりに、生きている人間たちの運命に執着する度合いに応じてなのだ」。ついでに言っておくのだが、『異邦人』のなかで主人公が日曜日を一日中バルコニーで、たったひとりで、広大な空を長いあいだ眺め、通りの生き生きとした光景に心をうばわれたようにして過ごすとき、彼はたぶん似たようなことを考えている。

 彼はチパサを離れるとき「ある孤独につきあたるのだが、今度は、そこに満たされたものがあるのだった」。しかしジェミラ、この町は「前よりも一層、彼の身にこの教訓の苦さをたたきこむのだ」。彼は隠さない、死に臨むとき、死は、すべての人々同様彼にとっても、「永遠に失われる世界のきわだったイメージを意識して歓喜もなく、成就のなかに入ってゆくことになるだろう」ということを。なぜなら結局、「花、微笑、女たちの欲望」といった言葉をもはや肉体的に生きることができないならば、この明晰さは人間にとってどうでもいいことだから。

 
したがって、ただ私たちが願うのは、ありのままに、自然と愛する人たちに囲まれて、ここに存在すること。できるだけ集中して、今を生きること。そして、私たちは世を去らなければならないのだから、最後の瞬間まで毅然としていること。『結婚』の冒頭の引用文のなかの、カラーファ枢機卿のように。「死刑執行人はカラーファ枢機卿を絹紐で絞めたが、紐が切れてしまった。もう一度やり直さねばならなかった。枢機卿はひとこともいわず、死刑執行人をみつめた」。(スタンダール『パリノア公爵夫人』)



 終

 
  引用 『結婚』 高畠正明訳   一部変更させていただいた。



【管理者の注】
A propos de NOCES par Albert CAMUSの日本語訳。『水路』8号(2008年7月20日発行、大林律子編集代表)に、原文とともに掲載された。ここへの再録を快諾された訳者の加藤多美子氏に感謝する。

 

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